松田聖子を発掘した若松宗雄氏、テープを聴いた瞬間の衝撃

4月18日(木)7時0分 NEWSポストセブン

松田聖子をプロデュースした若松宗雄氏

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 昨年の紅白歌合戦で松田聖子は『風立ちぬ』(1981年)、『ハートのイアリング』(1984年)、『天国のキッス』(1983年)、『渚のバルコニー』(1982年)をメドレーで披露し、往時を知る視聴者を狂喜させた。今なお現役で活躍を続ける稀代のスターはいかにして誕生したのか。彼女を発掘し、1980年代の楽曲のほとんどをプロデュースした若松宗雄氏が語る。


「きっかけはCBS・ソニーと集英社が主催したオーディションでした。各地区大会に出場した人のカセットテープを片っ端から聴いていたら、その中に桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』を歌う聖子のテープがあった。聴いた瞬間、とんでもなくいい声に出会ったと思いました。彼女の伸びやかで透明感のある歌声には、聴く者の心を捉える感性があったんです」


 若松氏はすぐに本人と面談。ルックスや育ちの良さにも惹かれてスカウトするが、父親の猛反対や所属事務所の事情もあって、デビューまでに2年の歳月を要することになる。久留米出身の少女が念願の歌手になれたのは1980年春のことであった。


「デビュー曲『裸足の季節』の作曲は、私が気に入っていた『アメリカン・フィーリング』(サーカス)を手掛けていた小田裕一郎さんにお願いしました。聖子にはオケ録りの段階から立ち会わせましたが、メロディを2〜3回聴けば覚えてしまうくらい、呑み込みが早かったですね」


◆ずば抜けていた歌に対する執念


 1980年7月にリリースされた第2弾『青い珊瑚礁』の大ヒットで一躍トップアイドルとなった松田聖子は『風は秋色』(1980年)以降、オリコンで24作連続1位を獲得。アルバムでも高い評価を受け、メガヒットを連発する。その偉業を支えた若松氏の戦略はいかなるものだったのか。


「これは私の持論なんですけど、音楽的な人は親しみやすく娯楽性を持たせた方がいい。そうすれば受け手がほどよい印象を持つからです。逆に大衆的な人は音楽的な要素を入れないと飽きられてしまう。聖子はアイドル路線でしたから、ユーミンや細野晴臣さんなど、音楽的な感性が鋭い人たちに作曲をお願いしつつ、文学性を備えた三浦徳子さんと松本隆さんに詞を書いてもらったわけです。


 あと重視したのはサウンド。『SWEET MEMORIES』の作曲・編曲を手掛けた大村雅朗さんには多くの作品でアレンジをお願いしましたが、彼の力がなければ、あれだけの実績は残せなかったでしょう」


 来年でデビュー40周年を迎える松田聖子は唯一無二の存在として走り続けている。多くの歌手を手掛けてきた若松氏に、大成するために必要な条件を尋ねると、こんな答えが返ってきた。


「大事なのは本人の資質。それから歌に対する執念です。聖子には『何が何でもこの世界でやっていく』というエネルギーがあった。ほとんどの歌手は、売れてくると周囲に口を出す人が増えてきて、何を信じたらいいか分からなくなってしまうんですけど、彼女は一切ぶれなかった。それも成功の要因だと思いますね」


【プロフィール】わかまつ・むねお/1940年生まれ。1969年CBS・ソニーに入社し、制作部門でキャンディーズ、松田聖子、伍代夏子、藤あや子、PUFFYらをプロデュース。1998年に独立し、現在はエスプロ代表取締役。


◆取材・構成/濱口英樹


※週刊ポスト2019年4月26日号

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