「妻がいないと生きていけない」やなせたかしさん『アンパンマン』大ヒットの陰にあった愛妻の余命3カ月がん宣告
2025年4月20日(日)11時0分 女性自身
【前編】やなせたかしさん&暢さん 穴あき共同トイレにも大喜び! 国民的漫画家を後押しした“はちきん妻”の素顔から続く
両親との別離、飢えに苦しめられた戦場の経験、愛する弟の戦死——幾重もの喪失を抱えたやなせさんは、戦後に就職した高知新聞社で妻の暢(のぶ)さんと出会った。やなせさんは彼女の後を追うようにして上京、そして’49年に結婚。
’53年には三越の宣伝部を退職し、34歳にしてとうとう漫画家として独立を果たしたやなせさん。自身の器用さが災いして代表作に恵まれない時期が長く続いたが、’73年に発表した『あんぱんまん』が大きな転機をもたらすことになる。
やなせさんの元秘書・越尾正子さん、彼の伝記を著した梯久美子さん、かつて親交があった漫画家・里中満智子さん。複数の証言から浮かび上がるやなせ夫妻の姿とは——。
■最晩年の妻に振る舞った思い出のカツ丼
作曲家のいずみたくさんに「『あんぱんまん』でミュージカルをやろうよ」と声をかけられた。
’76年に始まったこのミュージカルは子供たちに大好評、ロングランに。「敵役が足りない」ということで、ばいきんまんもここで誕生した。
すると出版社からも依頼が続き、’83年から’85年にかけて『アンパンマン・ミニ・ブックス』を25冊刊行。’88年にはアニメ『それいけ! アンパンマン』(日本テレビ系)が放送開始されたのだった。
69歳にして、とうとうヒット作を生み出したやなせさん。しかしこのころ、はた目から見てもふさぎ込むことが多かったという。
その異変に気付いたのは、漫画家の里中満智子さん(77)だった。
「日本漫画家協会の理事会のとき、ずっとうつむいてぐったりされていたんです。ご気分がすぐれないのかと思って、会が終わって帰るとき、お声がけしたんです」
立ち話だったが、やなせさんはせきを切ったように不安を吐露した。
「実は妻が……。妻がいないと生きていけない。どうしたらいいのかわからないんだ」
暢さんが乳がんに侵されていたのだ。肝臓にも転移しており、余命3カ月だと伝えられていた。
里中さんは言う。
「希望を失っていたようでしたが、私が『やなせ先生、私も子宮がんだったんですよ。でも、今はピンピンしているでしょう』と言うと、先生は『え、君、がんだったの』って、この日、初めて顔を上げたんです」
里中さんは急いで自宅に帰り、何枚ものA4用紙に自身が受けた治療や食生活の改善について書いてファクスで送った。
「すぐに先生から電話がかかってきて『これを全部やるよ』と、前向きになってくださったのです」
闘病中でも暢さんは気丈に振る舞っていたと、越尾さんが語る。
「先生には仕事に集中してもらいたかったのでしょう。『苦しい』『つらい』という言葉は一切聞いたことがありませんでした」
暢さんは自分が死んだ後、誰が夫を世話してくれるのかが不安で、越尾さんには何度も「辞めないでね」とお願いしていたという。
「アニメがヒットしましたが、奥さんは『人気なんていつなくなるかわからないのよ。将来、仕事がなくなるかもしれない。そうなったらあなたから“色くらいなら、私も塗れます”って言ってね。何度もしつこく、あなたから言ってね』と、ご自分の体はつらいのに、先生の心配ばかりで……」
いっときは35キロほどにまで減ってしまった暢さんの体重も徐々に戻りはじめ、休んでいた茶道の師範の仕事を再開することも考えるほどだった。
やなせさんに勲四等瑞宝章が贈られたのは’91年のことだった。
「ふだんは表舞台に出ない暢さんですが、夫婦で出席されました。先生としては長い間2人で歩んできたからこその受勲だという思いだったはずです」(越尾さん)
その後の『アンパンマンの勲章を見る会』のパーティでは、アンパンマン・カーに乗ってやなせさんが登場。いつもはパーティに出席したがらない暢さんも「こんな面白いパーティは初めて」と感激し、喜びを夫婦で分かち合った。
暢さんは’93年に入り、体調が悪化するなかでも、やなせさんとの穏やかな日常に小さな幸せを見いだしていった。最晩年のあるとき、暢さんはうれしそうに、越尾さんにこう話した。
「昨日は、主人がカツ丼を作ってくれたのよ。すごく美味しくてね。“花婿修業”をしているのよ」
そのときよみがえったのは、まだ漫画家として代表作のない時代、働く暢さんのために、やなせさんが用意してくれたトンカツの懐かしい味だったに違いない。
やなせさんと過ごした幾多の思い出とともに、暢さんは’93年11月、75歳でこの世を去った。
病院に駆けつけたやなせさんは涙をこらえて、暢さんとお別れしたという。
余命3カ月と宣告されたにもかかわらず、5年も長く生きることができた。後にやなせさんは里中さんにこう語った。
「がんがわかってからの5年が、結婚してから夫婦でいちばん充実した時間だったよ」
アンパンマンに登場する好奇心いっぱいで天真爛漫なドキンちゃんの名前は、「胸がドキドキする」と「バイキン」が由来になっている。キャラクターは暢さんの明るい性格に似ているという。
彼女はその最期に至るまで、やなせさんの希望となり、心臓を高鳴らせ続けたのだ。
■最期の言葉は「オブちゃん、ありがとう、ありがとう」
「黙々と仕事をしていました。それを見るのもつらい部分があったのですが、変になぐさめることもできず、黙って見守るしかありませんでした」(越尾さん)
やなせさんは暢さんの死後、憔悴して一時的に体重が落ちたが、3カ月ほどすると、気持ちを整理し、精力的に仕事を始めた。
そんなある日、里中さんにやなせさんからこんな電話があった。
「アンパンマンがヒットして、お金が入ってきちゃうんだ。楽しく使っちゃおうと思って、高知にアンパンマンミュージアムを建てるんだけど、あんなところにわざわざ人が来てくれるのかわからない。事業に失敗して貧乏になったらごはんをおごってね」
やなせさんと暢さんは子供に恵まれなかったため、アンパンマンがわが子のような存在だった。
「その“アンパンマンの家”を、故郷に建てたいという思いだったのでしょう」(梯さん)
やなせさんの心配は杞憂に終わり、’96年にオープンした「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」は、わずか49日で来場者10万人を突破した。
生涯を通じて、楽しいことを企画し、みんなを喜ばせ続けたやなせさん。東日本大震災が発生した後は92歳の高齢にもかかわらず、チャリティ活動に尽力していた。
ほどなくして膀胱がんを患ったやなせさんは、’13年に入ると入退院を繰り返すようになり、同年10月13日に永眠。94歳だった。
「最期の言葉は『神様仏様、ありがとう、ありがとう。お父さんお母さん、ありがとう、ありがとう。オブちゃん、千尋、ありがとう、ありがとう。みなさん、ありがとう、ありがとう』でした」(越尾さん)
今、やなせさんと暢さんはアンパンマンミュージアムから車で5分ほどの場所にある墓地で眠っている。
そこには、アンパンマンやばいきんまんの石碑も配されており、公園にもなっている敷地内には、朴の木が2本寄り添って立っている。
まるで公園で遊ぶ子供たちを優しく見守る、仲むつまじい夫婦のように——。
(取材・文:小野建史)
参考文献:梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)