本郷和人『べらぼう』凍えながら獄中死した平賀源内。入れられたら死を覚悟して当然?江戸時代の厳しすぎる<牢屋事情>

2025年4月28日(月)17時30分 婦人公論.jp


(写真:stock.adobe.com)

日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「牢屋」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!

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獄中で非業の死を遂げた源内


4月27日の「ありがた山スペシャル」を挟み、次回から新章が始まる『べらぼう』。

これから蔦重が本格的に版元(出版社)として始動する、ということで大変に楽しみです。

しかしその反面、4月6日の回では小芝風花さん演じる花魁・瀬川が、4月20日の放送回では安田顕さん演じる才人・平賀源内がそれぞれ退場になるなど、序盤の蔦重を支えてきた二人が相次いで消えたことに一抹の寂しさも覚えております。

特に人殺しの罪を着せられた源内が逮捕され、寒さに震えながら、そのまま獄中で非業の死を遂げたのはかなりショックな展開でした。

そこで今回は当時の”牢屋事情”について考えてみたいと思います。

捕縛された尊王攘夷の志士たち


私事で恐縮ですが、新選組の前身、浪士隊を作った清河八郎という人物を今調べています。


本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)

それで知ったのですが、文久3年(1863年)2月に浪士隊(その中に近藤、土方など新選組の主要メンバーがいた)を率いて京都に向かう以前に、清河は無辜(むこ。罪がないこと)の町人を斬ってお尋ね者になっていたんですね。

それで、彼を庇った西川練造、中村貞太郎という人物が捕縛され、伝馬町の牢屋に入っている。

西川も中村も尊王攘夷の志士で、清河の仲間だった。

2人とも、その年の内に獄死


確かにある種の思想犯ではあっても、2人はさほど世に知られてはいません。それに何より、彼らは清河の犯罪とは無関係です。

牢屋に入っても、ほどなく出てこられるのかな…という感じですが、これがまるで違った。逮捕は文久元年(1861)5月のことですが、なんと2人とも、その年の内に獄死しているのです。

年齢は中村が35、西川は45。

西川は多少年配ですが、それでも普通に生活していれば死ぬ年ではない。

ということは、やはり囚人としての生活が苛酷だったのでしょう。

「恐ろしいほど寒い」


西川の手紙が残っています。

それによれば「骨と皮ばかりになって、歩くことができない。この冬は越せそうにない。恐ろしいほどに寒い(『勤皇家贈従五位西川練造傳)」とあって、牢の中で寒さに凍えていた『べらぼう』の源内同様、酷い状態に置かれていたことが窺えます。

なお、医者だった西川は「揚屋」という、一般の囚人よりマシな待遇がされるところに収監されていたのですが、医者のケアなどはとても期待できず、果たして12月に亡くなりました。

そして普通の囚人の扱いだった中村は9月(6月とも)に亡くなっています。牢内でどんな仕打ちを受けていたのでしょうか。

江戸幕府最大の牢屋「小伝馬町牢屋敷」


海外の治安の良くない国には、日本とはまるで違う刑務所が存在する。リンチが横行していて、一回入ったら二度と出られない。一方でギャングのボスなどは刑務官を買収して刑務所にいながらリッチな生活をしている・・・。

そんな話はよく聞きます。

さすがに体験したことがないので、真偽の程は不明なのですが。もしかしたら江戸時代の牢屋も、ある種の無法地帯だったのでしょうか?

江戸幕府の牢屋は、江戸・京都・大阪・長崎などの奉行所や代官役所などにありました。

そのうちで最大のものが、現在の日本橋小伝馬町に設けられた小伝馬町牢屋敷でした。江戸時代初めから存在し、明治8年まで使用されていました。

牢屋敷の責任者は牢屋奉行の石出帯刀です。この職務と名乗りは世襲で、町奉行の部下でした。

サラリーは300俵。さほど高くはありませんが、れっきとした旗本です。配下として40名の同心がいましたが、幕末には76人にまで増えています。ほかに30人の下男がいて、下男が直接囚人と接していたのでしょう。

適正人口を超えていた当時の牢獄


囚人を収容する牢獄は、庶民だと東牢と西牢、幕臣(御家人)・大名の家臣・僧侶・医師は設備がまだ“マシ”な揚屋に収監されました。

江戸中期からは、東牢には有宿者(人別帳に記載されている者)、西牢には無宿者と分けるようになりました。

先述の西川は医師なので揚屋です。中村は浪人でしたので東牢だったのかな。ちなみに女囚は身分の違いなく、女牢に入りました。

収容者の総数は、江戸時代後期には300人から400人、多いときは700人から900人に達したといいます。つまりは適正人口を超える傾向にあったと解釈できますが…こうしたことはリンチが横行する温床になるんじゃないかな。

その実態は次回、見ていきましょう。

婦人公論.jp

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