池波志乃さんが『徹子の部屋』に登場。夫の闘病を語る「夫・中尾彬は、いつもと変わらない様子で逝ってしまった。彼が20年間毎日記録した食日記を元に、思い出の料理を作ったりもしたけれど」

2025年4月29日(火)11時0分 婦人公論.jp


「彬は役者という仕事に全身全霊をかけた人でしたから、妻から見ても頑張りすぎた人生だったと思います」(撮影:宮崎貢司)

2025年4月29日の『徹子の部屋』に池波志乃さんが出演。夫の中尾彬さんとの夫婦での終活や、公表していなかった中尾さんの闘病生活について語ります。中尾さんとの別れと思い出を語った『婦人公論』2024年12月号の記事(初回配信:2024年12月31日)を再配信します。
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俳優の中尾彬さんが5月16日、心不全で亡くなりました。享年81。武蔵野美術大学に進み画家を目指すも、「日活ニューフェイス」に合格して俳優に。劇団「民藝」に移籍して演技の幅を広げ、多数の映画やドラマで活躍しました。絵画や俳句、野球、相撲を愛する趣味人であり、おしゃれで美食家としても知られた中尾さんと46年連れ添った池波志乃さんが、その別れを語りました(構成:山田真理 撮影:宮崎貢司)

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病気をしても、何食わぬ顔で戻っていた


彬とは13歳離れていましたし、彼も80代でしたから、この先何十年も一緒にいられると思っていたわけではありません。でも、これほど急なお別れになるとは想像していなくて。いつ亡くなっても相手が困らないように、と準備をしていても、「そのとき」ばかりは読めない。突然味わう喪失感、というのは確かにありました。

ありがたいことに「おしどり夫婦」などと呼ばれていたこともあって、私がダメージを受けていないか気にかけてくださる方は多いようです。だから彬が亡くなったあとに受けた取材やトークショーの場でも、そのときの気持ちを聞かれれば、正直にお話ししてきました。

でも、難しいですね。その場の感情に流されて、あとから考えると正確に本心をお話しできていなかった気もします。

「最初のころは何も食べたくなくて、体重が10キロ以上落ちた」という言葉がひとり歩きして、周囲を心配させてしまったり。「いまはもう戻っていますが」のほうは消えちゃうのよね(笑)。いずれにせよ、気持ちをちゃんと整理してお話しするには、ある程度の時間が必要でした。

彬は役者という仕事に全身全霊をかけた人でしたから、妻から見ても頑張りすぎた人生だったと思います。世代もあるのでしょうが、若いころから働き方も遊び方も豪快で、体のなかはあちこち傷んでいました。

60代半ばで急性肺炎・横紋筋融解症で緊急入院したときは、生存率20%と宣告されましたし、実はここ10年の間に何度かがんも経験しています。よほどの事情でもない限り、病名を公表する必要はないという考えの人でしたから、手術を受けたらリハビリをこなし、何事もなかった顔で仕事に戻っていたので、誰もご存じなかったと思います。

治らなければ黙ってフェードアウトすればいいと、80歳が近くなってからは体にメスを入れるのもやめました。具合が悪いときは症状のケアだけをする。「管だらけになってまで生きるのは嫌だ」と、延命治療はしないこと、入院せず自宅で過ごせるよう、往診してもらうことなどを主治医と相談して決めていました。

もちろんこの考えがいいという話ではなく、これが彬の希望であり、彬らしさだった、ということです。

いつもと変わらない様子で、眠るように


2024年に入ってから体調の悪い日は増えましたが、それでも自分で「できる」と思ったバラエティ番組の出演や講演などの依頼は受けていました。

本当は、最後まで役者の仕事がしたかったと思います。オファーもあったんですよ。興味を持った台本もあったようだけれど、読めば「この役は、こういうふうに演じたい」という思いが生まれる。そして、その演じ方ができない体力なら、お断りせざるをえない。

「中尾さんには、そこに立っていていただくだけでいいんです」と言ってくださる方もいたけれど、役者としてそれは絶対に嫌だったのね。

最後のほうは足腰が弱って外出に車いすを使うようになり、ベッドをリビングに設置して生活していました。「恰好悪いのは嫌だ」と言うから、木目調のリクライニングベッドを探してレンタルして(笑)。

立ち上がるとき支えたり、手を引いたり私も懸命に介助しましたが、車いすやベッドはあくまで補助的な意味合い。最後までトイレには自力で行き、決して私に世話はさせませんでしたね。

当然、食事の量も減っていましたが、亡くなる3日前までダイニングテーブルについて、私の作った料理をおいしそうに食べてくれました。最後は洋食系のメニューだったかな。

翌日は、知人が送ってくれたスイカをジュースにしました。旅先で好んでスイカジュースを頼んでいて、「なんで日本にはないんだ」ってよくぶつぶつ言っていたのよね。それを最後に飲んでもらえたのも、よかった。

容体が急変したのは、翌5月15日。主治医を呼び、痛み止めの処置をしてもらいましたが、16日の深夜、穏やかに、眠るように息を引き取りました。ゴールデンウィークまで仕事をしていたし、リハビリをしてまた旅に出ようと、12月に予約も入れていたんです。

だからあまりに急で、私に残してくれた言葉もなかった。でもいつもと変わらない様子で逝ってしまったのは見事というか、あの人らしい最期だったのかもしれません。

「ごく身内」の葬儀の難しさ


私が『婦人公論』でお話しするのは3年ぶりですよね。どんな終活をしているか、彬と対談したのを覚えています。

先ほどお話しした急性肺炎・横紋筋融解症で彬が入院する前年、私はフィッシャー症候群という病気で倒れてしまいました。50代に入ったころです。長期療養となったうえ、一緒に暮らしていた母をその年に亡くし、また私たちに子どもがいないこともあって、ごく自然に自分たちの死後について考えるようになりました。

だから、最期を見据えた準備が「終活」と呼ばれていることなんて、あとから知ったくらい。『婦人公論』に出たときは終活に関する本を出したあとで、よく夫婦で取材を受けたり、講演会に呼ばれたりしていました。

今回、「終活しておいてよかった」と改めて感じたのは、住まいの整理ですね。私たちは東京の自宅のほかに、セカンドハウスを沖縄に、アトリエを千葉に持っていたのですが、この2つは10年ほど前に手放しました。

もしあのとき売却していなければ、いまごろ相続の手間もかかっていたでしょう。アトリエにあった彬の大量の作品や絵の道具、骨董品、家具調度をいまの私が処分するのは、とても無理だったと思います。

その2年ほど前には、お墓や公正証書遺言も作っていました。ただ不動産や絵画など、財産と呼べるものをたくさん手放したこともあり、ちょうど昨年の秋に遺言を新たに作り直したところだったんです。これも、やっておいてよかったことですね。

自宅は衣類や蔵書、家具の整理を進めていたおかげで、すっきりしていました。それでリビングにベッドを入れることができたので、在宅療養を望まれるなら、片づけは大切かもしれません。

でも想定外のこともたくさんありました。たとえば葬儀。私たちは「葬儀もお別れ会もしない」と決めていて、そのことを互いにわかっていればいい、くらいに考えていたんです。だから30人ほどのごく身内で見送ったあと、彬が好きだった上野精養軒で食事をしました。

……ほら、「葬儀はしない」と言っていても、結局は小規模な葬儀をしてるんですよ。正直、しないわけにいかなかった。そして、どんなに小さくてもかかる手間は一緒なの(笑)。葬儀屋さんを探して、予約して、お寺さんの予定を聞いて、出席してくださる方に連絡して、という段取りは必要ですから。

それに、この「ごく身内」というのも難しかったですね。見送ったあと訃報を出すことにしたのですが、「どうやら亡くなったらしい」という情報は漏れていきました。でもいくら連絡をいただいても、故人の遺志なので身を切る思いで否定したり、お断りしたり。

親しい方のなかには、「私たちは身内に入らないの?」と思われた方もいたでしょう。この仕事特有の悩みかもしれませんが、公式発表までのプレッシャーは想像以上のものでした。

それに彬は現役で働いていましたから、契約中のお仕事もたくさんありました。それを一つ一つ確認してはキャンセルしたり、新たに手続きしたり。そういう作業はやはり大変でしたし、切ないことでしたね。


「私が毎日笑って、元気にごはんを食べているほうが、よほど供養になるんじゃないかと思うようになりました」

私が元気なのが一番の供養


いつも品書きを書いてはコースのように夕食を出していたので、彬は家での食事を「居酒屋しの」なんて呼び、私の料理を喜んで食べてくれる人でした。そうした反応もなくなり、確かにしばらくの間、自分のためだけになにかを作って食べるのを億劫に感じる時間はありました。

でもこの46年を振り返ると、私たちはずっとべったりだったわけではないんですよね。結婚生活をだいたい3分割すると、最初の約15年は、互いに役者の仕事が猛烈に忙しかった。合間を縫って買い物して、下ごしらえをして、一緒にいられるときは精一杯頑張りましたが、舞台で巡業に出れば1、2ヵ月はすれ違いということもざらでした。

私が40代に入ると役者の仕事を制限するようになり、沖縄で過ごす時間が増えました。反対に彬は、ダウンタウンさんの番組をはじめバラエティへの出演が多くなります。アトリエで創作活動に励み、夜の遊びにも精を出していましたね。そのあたりのことは、一切詮索しませんでしたけど。(笑)

ですから皆さんの印象にある、朝から晩まで一緒の「おしどり夫婦」の生活は、せいぜい最後の15年なんですよ。彬も徐々に仕事をセーブして、自宅にいる時間が増えていきました。そしてその15年は確かに濃密な時間だったから、急にそれが途切れたことで、心も体も戸惑いました。

でも時が経つにつれ、そういえば私、ほんの15年前までは何でもひとりでしていたし、一人前の食事を作るのも苦じゃなかったじゃないって思い出したんです。そうしたら、だんだん気力が戻ってきました。

2人で通ったレストランのシェフが、「しょげてる場合じゃないよ!」と食材をどーんと送ってくれたこともありました。「調理したか、証拠写真を送って」と言うので、挑戦を受けて立とう、と腕まくりして料理を作ったら、ますます元気が湧いてきて。

最近は夫婦共通の友人や彬の親類に、料理を振る舞う機会も増えました。一時は、ひとり住まいにこんなに器や調理道具があってもしょうがない、と処分を考えたりしたけれど、危なかったわね。(笑)

彬は外食でも、私の手料理でも、その日に食べたものを毎日記録していました。20年分にもなる食日記をめくっては、「去年はこんなものを一緒に食べたんだな」と、同じようなものを作ることも。その料理を写真の前に並べて、食べさせる真似事をした時期もありました。

でもある日、大阪からきてくれた昔の仕事仲間と、一緒にお墓参りをしたんです。「彬、Aさんがきてくれたよー」なんて言って。それで夕方に家に帰って、「ただいま。遅くなってごめんね」って仏壇に声をかけたとき、あれ、あの人はどっちにいるんだろう? とふと思ってしまった。

そしたら急に、仏壇にもお墓にも、どちらにもいないような気がしてきました。ああ、あの人のことだから、自分の好きなところにふらっと出かけているんだろうって。

そう考えたら、いつまでもめそめそ落ち込んで、仏壇の写真に「あーん」なんてするより、私が毎日笑って、元気にごはんを食べているほうが、よほど供養になるんじゃないかと思うようになりました。

最後はおいしいものも食べられず、大好きな旅にも出られなかった。でもいま、彬は自由です。どこへでも飛んで行けるから、がんがんお肉を食べてお酒も飲んで、それで気が向いたら私のところへ戻ってくるはず。

だから、たぶんいまはこの隣の席に座ってますよ(笑)。それで私の話す内容に、「いやそれは違うんじゃないかな」なんて苦笑いしていると思います。


お別れの挨拶に代えて配布した、水彩画と原稿のセット。中尾さんにとってヴェニスは特別な場所で、何度も描いてきたという。原稿は自前の原稿用紙7枚に、万年筆でしたためられていた

してやったりの顔が目に浮かぶ


大切な人を見送れば、気持ちの整理に時間がかかります。今日お話ししたことはあくまで私の経験談であって、うんと悲しんだほうがいい方もいるでしょうし、新しいことをはじめて元気を出す方もいるでしょう。全然落ち込まない! という方がいてもいいと思います。

私もまもなく70ですから、いまは仕事をバリバリ頑張るより、あと1年くらいは彬のものをゆっくり片づける時間にあてたいと考えています。

洋服は夏物に入れ替えてあったので、亡くなったときは季節に合ったものを着せて送ることができましたし、残ったものは親しい方にもらっていただきました。冬物も、背格好の似たあの人がもらってくれるかな、と考えながら少しずつ整理をしています。

蔵書もまだかなりの量がありますが、手に取るとつい読んでしまうのよね(笑)。全然先に進まない。そうして書斎を片づけていたら、彬が描いたヴェニスの風景の水彩画と、自前の原稿用紙に書かれた直筆の原稿を見つけました。若いころにヴェニスを旅した日記が引用された短い随筆です。

絵も原稿も、依頼があれば必ず私に言うし、完成したら見せて感想を求める人だったのに、これははじめて見るものでした。ただ彬は水彩画の個展を開こうと考えていて、そのために作品を描きためていました。たぶんこの絵は、闘病中に描いたんでしょう。原稿はパンフレットか会場の入り口に置く文章として書いたのかもしれません。

私はこの絵と原稿を印刷して、葬儀にお呼びできなかった方に、お別れのご挨拶としてお渡しすることにしました。手書きの文字はその人を表すものでもあり、皆さん、とても喜んでくださって。電話で泣きながら、思い出を語ってくれた学友もいました。

実はそのご縁で、彬の出た(現在の)木更津高校の同窓生の集まりに交ぜていただくようになったんです。皆さんのお名前やエピソードくらいは聞いていましたが、これまで一度もお目にかかったことがなかったのに。面白い縁もあるものですよね。

あの世代の県立高校を出た方たちだけあって、かっこいいお姉さんも多くて。LINEで繋がったり、お手紙をいただいたり、元文学少女もいるから、「お目にかかる前に、この本とこの本は読んでおかないと!」と、思わぬ刺激になっています(笑)。

もちろん全員彬と同い年ですけど、私は早くにこの業界に入ったこともあって、年上のお仲間に入れてもらうのは居心地がいいんです。

でもそれって、結局話題の中心に彬がいるわけですよ。私が楽しんでいるつもりでも、「俺のこと忘れるなよ」って言われているような気もします。そんな、してやったりの顔を想像して、悔しいような切ないような気持ちで、いまを過ごしています。

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