『べらぼう』“蔦重”横浜流星に多大な影響を与えた3人 新章スタート前に振り返る
2025年5月3日(土)10時0分 マイナビニュース
●朝顔の影響で本好きに 瀬川とともに吉原の過酷さも
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合 毎週日曜20:00〜ほか)が始まって4カ月。あっという間に全体の3分の1が過ぎた。ここまでは序章といっていいだろう。江戸のメディア王、いまでいう出版プロデューサーの先駆けのような蔦屋重三郎(横浜流星)がこのあと吉原を飛び出して、日本橋へと打って出る。いよいよ蔦重の本格的な活躍が始まる前に、彼に多大な影響を与えた3人を振り返りたい。
朝顔(愛希れいか)、瀬川(小芝風花)、平賀源内(安田顕)である。
まず朝顔。吉原の下級女郎で、著しく悪い労働環境下で苦労している。蔦重にとっては姉のような存在で、身寄りがなく、吉原で育てられた蔦重は朝顔に何かと面倒を見てもらっていた。生活はしんどいが、その点ばかり考えて下を向いているよりは、未来の楽しい可能性を想像しようと蔦重は朝顔に教えられた。
朝顔の影響で、蔦重は成長してからも、嫌なことに出くわすたびに楽しいことを想像するようになる。蔦重が本(物語)を愛するようになる片鱗がここで育まれたといっていい。本こそ最も手近に、有り得るかもしれない世界を作り出し、そのなかで自由に遊べる場であった。瀬川(当時花の井)も読書とポジティブな想像で日々の嫌なことを乗り越えていた。
だが朝顔は人生の楽しみのみならず、苦しみも蔦重に教えることになる。過酷な労働の末、病死し、身ぐるみを剥がされ寺に打ち捨てられた朝顔の無惨な姿を見て蔦重は、この世界の理不尽を学ぶのだ。蔦重や朝顔が暮らす吉原は、誰でも受け入れ、体ひとつあればなんとか生活費を稼ぐことができる。けれど、決して理想郷ではない。常に身の危険と背中合わせの場所である。吉原で朝顔のようにならないためには、工夫して成り上がっていくしかない。
花の井は伝説の花魁・瀬川を襲名し上り詰めていく。経済的には潤うとはいえ、その分、客をとらなければいけない。紳士的な客もいるだろうが身勝手な客もいる。心身共に疲労が積み重なっていく過酷な仕事から抜け出すには身請けしかない。大金持ちに身請けしてもらって吉原を出ていく、その最高のゴールを女郎仲間たちに見せることも瀬川の任務のひとつなのだ。
体を壊して早死にしていくだけではなく、堂々と吉原を出ていく可能性もあることを示せば、残された者たちの励みになる。女郎屋の女将・いね(水野美紀)が語る理想論は、筆者的には体よく女性を働かせる方便ではないかと思えたが、SNSでは酸いも甘いも噛み分けた人物として絶大に支持されていた。いねの方針がいい方向に作用することもあれば残念な方向に作用することもある。それはもう日々の天気のように曖昧だ。「禍福は糾える縄の如し」という言葉があるがまさにそれ。人生はオセロゲームのように白と黒、善と悪とがはっきり分かれるのではなく、1本の縄のなかに黒も白もほかの色も何色もの色が重なりあい濃淡を作り出している。吉原もまた、女郎の艶やかな着物や化粧の色、灯りの色が混ざりあって、深い黒を作り出したりする。
明るさと暗さが混ざりあって螺旋のように上昇したり下降したりを繰り返している世界に、蔦重は幼い頃から生きていて、女性を働かせて生きていることを自覚してもいるし、自身も他者の仕事をかすめとるようなこともしている。だが、いざ瀬川への恋心に気づくと、彼女が不特定多数の客をとることが耐え難くなる。そこで改めて、吉原の過酷さ、矛盾をはらんだ生活を実感するのだ。
瀬川を身請けした鳥山検校(市原隼人)が彼女を解放し、晴れて瀬川と蔦重が2人で本屋を営んでいこうとすると、一度、吉原を出た者に対する厳しい目もあることを憂慮した瀬川は身を引いてしまう。
2人の幸福が他者の不幸のうえにあることを、またしても蔦重は身をもって知る。
史実では蔦重と瀬川が知り合いであったかはわからないし、蔦重はやがて結婚するがそれは別の女性である。でも、こんなにも理想的な純愛カップルだった蔦重と瀬川が別れるのは胸が引き裂かれそうだった。『べらぼう』の世界線ではもうしばらく2人の幸福を描いてほしかった。『べらぼう』の時代、戦はない。だが戦でなくても、これほど心身共に痛めつけられる出来事が日常茶飯事な世界も存在しているのだと、嫌というほど思い知らされる。
●自由に生きる大変さを身をもって示した平賀源内
吉原に出入りし、吉原細見に寄稿もする平賀源内が、蔦重に「自由」について語ったセリフは名セリフ中の名セリフで、蔦重たちの生きる世界を言い当てるようだ。
「自由に生きるってのは、そういうもんだ。自らの思いに由ってのみ、我が心のママに生きる。我儘(わがまま)に生きることを、自由に生きるっていうのさ。我儘を通してんだから、きついのはしかたねぇや」
源内は天才的に頭がよく、発明や文才など様々なことに長けていて、田沼意次(渡辺謙)にも重用されていた。だが、故郷の高松藩の下級武士だった彼は脱藩し、ほかに寄る辺はない。やりたいことがあって脱藩したものの、この時代、藩に属していないと心許ないだろう。でもだからこそ自由にやりたいことができるという面もある。おそらくどこかのお抱えになったらその藩のためにやりたくないこともやらなくてはいけなくなる。
実際、徳川家のお世継ぎに関して陰謀がめぐらされたとき、田沼は自分が不利な立場になっても深入りしないように忍耐を強いられる。それが政治の世界に生きる者の暗黙のルールなのだ。だが、何にも属さずしがらみのない源内は田沼のために真相に踏み込んでいく。源内は危険を冒してでも真実を世間に広めようと真相をこっそり芝居にする。この時代、心中ものや仇討ちものなど、実際にあった事件を名前などを変えて芝居にして庶民は楽しんでいた。ルールから少し外れることがガス抜きになっていたのだ。
だが、外れる度合いもルールのうち。それ以上は立ち入らないお約束を破った源内は芝居共々処分されてしまう。極めて無念な出来事ではあるが、源内は最後まで信念を曲げず自由を貫いたとも言えるだろう。つまり、我儘に生きることの厳しさを身をもって示したのである。
自由という不自由。やりたいことをとことんやるか、生活のために権力にすり寄って生きるか。『べらぼう』の世界でなくても、人間は皆、常にそこで迷っている。そこで、源内の自由な生き方がすばらしいと安易には言えない内容であることが(なにしろ無惨に死んでしまうのだから)『べらぼう』の苦さである。
蔦重は源内を見放した田沼に『忘八』と食ってかかるが、将軍家という巨大な権力のもと、庶民は成す術がない。吹けば飛ぶようなとてもちっぽけな存在なのだ。蔦重もまた自分のやりたいことをやろうとするたびに、思うようにいかないことを思い知る。
「伝えていかなきゃな。どこにも収まらねえ男がいたってことをよ」と須原屋(里見浩太朗)が言うように、源内の書いた本を残すことで、彼の志を後世に残す。それくらいしかできない。本という存在は娯楽であると同時に、大切なことを後世に残す、刻みつける装置なのだ。源内が蔦重の本屋につけた名前「耕書堂」という言葉を大事にしながら、蔦重はこれから、本作りに励んでいく。
蔦重を育み、耕書堂を誕生させた吉原は、世間から排除された貧しい者やどこにも収まらない才能を持て余した者を受け入れる場所でもある。平沢常富(尾美としのり)は秋田藩のお抱えの武士だが、吉原の自由な雰囲気を好んで通っている。だからといって、ここは極上のパラダイスでは決してなく、必ず代償がある。ただの極楽絵図でもただの地獄絵図でもない。すべてが混ざり合った世界。その世界を見つめる蔦重を演じる横浜流星の表情は、喜怒哀楽がシンプルに切り分けられておらず、あらゆる感情が微妙にブレンドされて陰影を作って見える。『べらぼう』の複雑な世界を横浜が体現している。
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