小沢一郎氏が振り返る「宮沢倒閣」から細川護熙政権まで

5月4日(土)7時0分 NEWSポストセブン

総選挙で新生党が大躍進(時事通信フォト)

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 小沢一郎氏は「剛腕」として知られる。様々な平成政治でその剛腕をふるった小沢氏は、宮沢喜一内閣誕生や細川護熙内閣誕生にも影響を与えた。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略)


◆宮沢倒閣と8会派連立工作(1993年6月)


〈宮沢喜一首相はテレビ番組で「政治改革を実現する」「この国会でやる」と口にしたものの、与党の反対の中で断念する。小沢—羽田グループは自民党を離党して新生党を立ちあげ、宮沢内閣不信任案に賛成。「小沢の乱」は成り、不信任された宮沢首相は解散に踏み切る。


 総選挙で自民党は過半数を割り、非自民政党による連立工作が始まる。一方、自民党でも野党転落を防ぐべく、YKK(山崎拓、加藤紘一小泉純一郎)が中心となって日本新党の細川護煕代表を首相に担ぐ構想を練っていたが、先手を取ったのは小沢だった。〉


小沢:(細川の)担ぎ合いなんか全然ありません。僕は、選挙が終わってすぐぐらいに、もう細川さんの了解を取っていたから。


 最近、山崎拓さんとしばらくぶりで飲んだんだけど、彼らも細川さんを説得しようと考えたが、すでに時遅しだったと言ってました。


──細川をどう口説いた?


小沢:何ていうことはない。「あなたは、総理だ」と。「あなたが総理になって、自民党政権を変えなくてはいけない」と。新党さきがけ代表の武村正義は自民党との連立志向だったから、ものすごく抵抗しましたが、「自民党と連立したら政治改革なんてできなくなる」と言いました。細川さんは「一晩、考えさせてくれ」と。翌日かな、「武村とも話して、わかりました」となった。


〈総選挙から22日後、非自民・非共産の8会派による細川政権が発足。55年体制が崩壊し、自民党が結党以来初めて下野した瞬間だった。〉


◆短命に終わった細川政権(1994年4月)


〈細川内閣は翌年の通常国会で政治改革法案を成立させ、小選挙区制導入が決まった。しかし、政治改革を旗印に集った8会派は、同法案成立の目処が立つと、急速に結束が乱れていく。1994年2月に細川護煕首相は税率7%の「国民福祉税」を突然に発表するが、与党内からの猛反発を招き、今度は突然撤回する。国民福祉税の発表は、「小沢と斎藤次郎・大蔵事務次官が筋書きを書いた」と批判された。〉


小沢:(筋書きを書いたのは)その通りですよ。やらなきゃいけないと。ところが細川さんは会見で税率7%の根拠を質問されると「腰だめの数字です」って、そういう言い方をした。政策というのは、「こうした根拠があって、この数字です」と説明して、了解を求めなきゃいけません。それなのに「腰だめ」なんて言っちゃったもんだから……。


──その後、自民党から佐川急便事件(1992年に発覚した東京佐川急便の前社長らの特別背任事件に絡み、細川が1982年に東京佐川急便から1億円を借り入れていたことが判明)を厳しく追及される中、細川は4月に突然辞める。あなたは辞意を聞いていたのか。


小沢:知りませんでした。“(細川は)何をしでかしたんだ?”と思ったくらいだから。佐川からカネを借りていたとかいう噂話は耳にしていたけれど、そんな深刻な話ではないように認識していたから、パッパと辞めてしまって……。細川さんはかっこよく辞めようとしたんでしょう。潔く辞めれば、また人気が出ると思ったんじゃないかな、想像するに。


──再登板を考えていた。


小沢:そう思う。でも、権力闘争というのはそんな甘いもんじゃありません。


──“産みの親”として、細川政権が戦後政治で果たした役割をどう評価するか。


小沢:それは大きいと思います。絶対に崩れないと思っていた自民党政権が倒れたんだから。15代も続いた徳川幕府が戊辰戦争で敗れた(のと同じ)。しかしまぁ、細川政権は鳥羽伏見で勝ったのに、すぐ盛り返されてしまった(笑い)。


●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)


※週刊ポスト2019年5月3・10日号

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