タブレット純 マヒナスターズの歌手から芸人になる転機語る

5月5日(火)7時0分 NEWSポストセブン

元々、マヒナスターズのボーカルだったタブレット純

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 長い金色の髪に甘いマスク。貴公子然とした風貌にも関わらず、女性のようなか細いしゃべり。しかしまた、歌ネタになると「そんなことより気になるのは…」と低音で重厚な歌声で観客を圧倒する——。大好評シリーズ企画の「転機」今回は、二転三転するギャップで人気急上昇中の歌ネタ芸人、タブレット純(40才)。芸人になる前は歌手活動をしていたというが、そこからどうして芸人に? 本人を直撃した。 


——タブレットさんのネタの世界観は独特ですが、この平成の時代に、数ある音楽ジャンルの中からムード歌謡をチョイスされるあたり、異彩を放っていますね。


タブレット:小学5年生の時に、AMラジオでたまたま和田弘とマヒナスターズの『泣きぼくろ』を聴いたんです。初めて聞いたサウンドで、メロディーや詞の世界に衝撃を受けまして。卒業文集の好きな芸能人の欄に、“マヒナスターズ”と書いたほどです。周りの友達はチェッカーズとかC-C-Bなのに(笑い)。


——それからムード歌謡歌手を目指して?


タブレット:いえ。ギターは高校からやっていましたが、引っ込み思案ですし、歌手になろうとも、なれるとも思っていなくて。自分はレコードや資料を集めるマニア的なことをしていたんです。それでマヒナスターズのメンバーの方がカラオケ教室をしているのを、記事か何かで知りまして。インタビューしたいと尋ねたら、歌を習わないかと誘われたんです。それから2か月後に、マヒナスターズの一員になることに。


——それまで歌さえ習ったことがなかったのに?


タブレット:今だから言えるんですけど、マヒナスターズはボーカルが全員脱退してしまって、分裂したんです。和田弘さんは意地で新生マヒナスターズを立ち上げて、プロモーションも始めていたんですが、さらに主要なメンバーが抜けてしまった。1人足りないということで、自分のような素人に声がかかったんです。自分ならマヒナの曲を全部知っていて口パクができるから、立っているだけでいいから来いという(笑い)。


——それから生活が一変した?


タブレット:そう思ってバイトを辞めたのですが、その間はメジャーになっていませんし、ふたを開けてみれば月に2、3回という仕事量でした。和田さんに“田渕純”と芸名をつけてもらってボーカルとして活動していたんですけど、2年目に和田さんが亡くなって、葬式以来みんなバラバラになってしまいました。


——そこで歌手活動を辞める人もいる中、タブレットさんはソロ活動を開始したんですね。


タブレット:スナック周りですね。マヒナスターズに入ったということで地元に認識されていたので、年配の方が自分を呼んでくれたんです。なんだかんだで、マヒナスターズの頃より個人になってからのほうが動きやすくなったぶん、あちこちのスナックに呼ばれて忙しくなりました。8年くらいスナック周りをしましたね。


——苦労しましたか?


タブレット:収入的には、マヒナの頃より良くて。おひねりで収入を得ていたんですけど、1日に7、8万円分の千円札もらったり。むらがありますが、宴会シーズンだと月に50万円ほどになることもありました。貯金をせずにおひねりを缶にずっと入れていて、ある日数えたら、その月は50万円くらいあって。


 でも当時は酒浸りでした。田舎って昼間のスナックが盛んで、昼カラオケという世界があって、昼間からみなさん歌いっぱなしで。お酒を勧められたりもして、飲んでは歌って歌っては飲んで、という。それで何軒もスナックを回って。収入が結構あっても、体はボロボロでした。


——このままの生活じゃいけないという思いもあった?


タブレット:そうですね。そんな時、友人に東京のライブハウスに出てみないかと誘われたんです。「“アル中”になってる場合じゃないよ」って。新宿ゴールデン街劇場でこけらおとし公演があって、それに出ることになって。その3日間の間に都内に引っ越してきちゃいました。ある意味、故郷を捨てたじゃないですけど、それから地元からは遠ざかって、都内のライブハウスをひたすらまわって歌っていました。


——ライブハウスの時の収入は?


タブレット:過酷でしたよ。おひねり収入がなくなりましたし、ライブハウスだとノルマがあったりして、逆に支払う羽目になったりとか。音楽としてはほぼゼロに近いくらい。アルバイトに明け暮れていましたね。


——これまでの話では、まだ芸人になる兆しが見えませんが…。


タブレット:司会をさせられたりとか、一部のサブカルの人に面白がられたのが、芸人に繋がるんですね。急に失神しろと言われて、歌いながら失神するようなこともして。グループサウンズっていうジャンルのコンセプトでもあるんですけど、熱狂して急に失神して担架で運ばれる演出をしたりしました。その後、浅草東洋館に出演したことが、芸人になる転機ですね。


——歌手から芸人に転向したということですか?


タブレット:浅草東洋館は紹介で出演したんです。寄席とはいっても歌謡特集みたいな枠があって、その日は歌を歌ったんですね。1回きりだと思っていたんですけど、支配人が変わって出演メンバーを新たに集めることになって。それで定期的にレギュラーで出てもらえないかと。


 そうなってくると寄席なので、歌だけでは難しくて、芸人的なアプローチができないかということで。当時は演歌を出したりもしていたので、そこの事務所はぼくがお笑いをやるのに大反対でした。でも、名前を変えればいいよとなって、思いつきで、東洋館のためだけの名前だと思って、田渕純をタブレット純にしました。


——浅草東洋館ではどんなネタを?


タブレット:初めは“タブレット純子”って、女装をしていた時期もあるんですけど。ある日、昔作った曲を掘り返したんです。まじめに作った曲だったんですけど、今見たら変な曲だったので、お笑い的なことでやったらどうなるかなと。それで白身魚フライを妙にドラマチックに歌うというのを寄席でやったらウケたので、この路線はありなのかなって。初めてテレビに出た時のネタです。


——のり弁当の白身魚は、メルルーサという深海魚だったと熱く歌っていましたね。


タブレット:そうしているうちに、今のマネジャーが見に来ていて、歌ネタが面白いからとスカウトされて。それから完全に芸人になったというか。お笑いライブをやったのも事務所ライブが初めてです。事務所の紹介で、生まれて初めてオーディションに行ったりして。うまい具合に受かって、それから自然に芸人の流れができまして。


——演歌歌手の道を捨てて。


タブレット:そっちの事務所は演歌アイドルを作ろうとしていて、そういうのに合わなくて…。その時の自分の判断は、今思えば正しかったとはっきり言えます。あのまま歌手をやっていたら、歌うのが嫌になっていたと思います。


【タブレット純】

1974年8月31日生まれ。神奈川県出身。2002年、ムード歌謡の老舗グループ、和田弘とマヒナスターズに田渕純の名でボーカル加入。以後2年間、和田弘が亡くなるまで同グループで活動した。グループ解散後、ライブハウス出演などを経て、寄席・お笑いライブに進出。ムード歌謡漫談という新ジャンルを確立した。『大竹まこと ゴールデンラジオ』(文化放送)レギュラーなどで活躍中。

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