古谷経衡氏 筒井康隆氏を「ネトウヨ」と呼ぶ者に苦言

5月5日(金)7時0分 NEWSポストセブン

古谷経衡氏は「ツツイスト」を自称する 撮影者・太田真三

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 ジャンルを横断し、野心的な作品を世に問い続けてきた筒井康隆氏の発言がネットで炎上した。御年82歳の大御所作家に世間は厳しい。だが、“熱狂的ツツイスト”を自称する古谷経衡氏の立場は明快だ。発言自体は肯定できない。だが、それをもって筒井文学を否定する社会は異常である、と。古谷氏が語る。


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 作家・筒井康隆氏が自身のブログ『笑犬楼大通り 偽文士日碌』にて書いた或る文章が「炎上」した。釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦像について氏が「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」の部分が、同氏のツイッターに転載されたことから一挙に「炎上」が拡大。


 すわ国内で「差別だ」「筒井はネトウヨだ」の声が広がり、韓国では「『時をかける少女』の作家が妄言」と大々的に報じられ、ついにはかの国で氏の最新長編『モナドの領域』の翻訳版が販売中止に追い込まれる事態にまで発展した。


 いかにも被害者側の韓国で、この手の発言が問題視されるのは致し方ないであろう。しかしながら、日本国内で次々と「ファンだったのに失望した」「筒井って差別主義者のネトウヨだったんだね」という非難の声を観るにつけ、私の怒りのボルテージは上がっていく。


 かくいう私は筒井康隆氏の熱狂的ファン「ツツイスト」を自称する者であり、氏のデビュー作「お助け」以降、殆どすべての作品を通読してきた。私を含めたツツイストらによる件の氏発言は、いつもの筒井康隆であり特段驚くにはあたらない「通常運転」と言ったところだ。氏の作品を通読していれば、一見して露悪的に思える今回の発言の、何をいまさら驚愕に値するのかと理解に苦しむ。


 筒井康隆と言えば、一般的には代表作として『時をかける少女』『七瀬ふたたび』などがいの一番に思い出されるであろうが、前者はジュブナイル的SFであり「筒井文学」の主流ではなく、補助輪的作品である。後者は超能力活劇だがこれも筒井文学の主流ではない。筒井氏は今次「炎上」の後、朝日新聞のインタビューにこう答えている。


「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が(批判を)言っているんでしょう。(中略)ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」(4月7日・朝日、括弧内筆者)


 この言が、筒井氏の真意のすべてであろう。


◆反権威・反空気・前衛 


 筒井文学の底流にあるのは、徹底的な反権威・反空気・前衛である。小松左京の『日本沈没』(1973年)が社会現象を起こしたと思えば、同年『日本以外全部沈没』を発表して小松という権威に対抗する。


 初期作品『農協月へ行く』(1973年)では列島改造ブームで土地成金となった「ノーキョー」を徹底的に揶揄し、『アフリカの爆弾』(1968年)では東西冷戦と核爆弾までも勃起した男性器に例えて皮肉って見せる。映画化もされた『俗物図鑑』(1972年)では世からはみ出た奇人・変人評論家が梁山泊に立てこもる長編で、『最後の喫煙者』(1990年)では亢進する嫌煙権運動をオーウェルの『1984』になぞらえた管理主義への皮肉である。


 他方、同様に近未来の管理社会を揶揄した『無人警察』(1972年)が1993年になって高校教科書に掲載され、その内容が日本てんかん協会から「差別的」と抗議を受けると、「言葉狩り」に憤慨して同年に断筆。いわゆる「断筆宣言」である(1996年解除)。


 筒井氏は常に権威に逆らい、空気を攪拌し、『残像に口紅を』(1989年)、『朝のガスパール』(1992年)などに代表される文学的実験の前衛を走り続けた。筒井文学の批判と揶揄と嘲笑の方向には、時として権力者があったが、そして同様に弱者に対しても容赦なくその矛先は向けられた。


 弱者も強者も平等に相対化する。美辞麗句に包まれた似非ヒューマニズムこそ、本当の差別の根源であり笑うべきと氏は鋭利に指摘する。その、捉える人によっては露悪的・下品に感じる表現の最後には、きらりと光る人間への愛が詰まっている。


 祖国アフリカに帰ろうとする黒人奴隷のジャズ・シンガーらが、幕末の日本に漂着する騒動を描いた傑作短編『ジャズ大名』(1981年)。被差別階級である黒人奴隷と共に城下の人々が狂乱のジャズ・セッションに興じるラスト・シーンは、封建社会の身分階級を超越した融和と抵抗の物語であり、なによりも筒井文学が理不尽と差別を憎む真の人間愛を基底とすることを如実に物語るものだ(1986年、岡本喜八監督により映画化)。


 今次の「炎上」騒動で氏を「ネトウヨ」「差別主義者」と糾弾する国内の人々は、およそこのような筒井文学の来歴を知らず、前述した有名な二、三作品を手に取った程度か、そもそも筒井作品自体、碌に読んだこともないのではないか。その露悪の基底に愛があることを知るツツイストの殆どは、今次の「炎上」を炎上とは考えていない。


 最近、原典に当たらないでツイッターの140文字や抜粋された短文のみでその作家の良し悪しを断定する反知性的風潮が顕著だ。『風の谷のナウシカ』の漫画版を読まず、宮崎駿を「左翼」と決めつけ批判する自称評論家もいる。ナウシカ漫画版は、むしろ左翼の設計主義・理性信仰をナウシカが「否!」と喝破する物語である。


 或いは『永遠の0』の映画版を観ずに、「原作は百田尚樹だからネトウヨ映画だ」という批判。『永遠の0』を素直に観れば、「過ちを繰り返すべからず」という反戦映画であるが、読まずに、観ずに初手の願望を基にした決めつけが先行する。


 宮崎は左翼だ、百田はネトウヨだ、筒井は差別主義者だ。そういう軽佻浮薄で躁的な直情的短絡を、常に揶揄し、皮肉り、馬鹿にし、時として警鐘を鳴らしてきたのが筒井文学なのであるが、最近、そういったアイロニーも通じなくなってきた。筒井氏の傑作短編『「蝶」の硫黄島』(1974年)。戦後、硫黄島決戦で生き残った旧日本兵たちが偶然文壇クラブに集う。


 部屋の形が硫黄島に似ている、という想像がやがて妄想になり、現実を侵食しはじめる。銃弾が飛び交い、着弾と馬乗り攻撃でホステスが黒焦げになる。戦争を知らぬ若手編集者が「なぜこんなことを始めたんです」と泣く。「今ごろ昔のことをああだこうだといったところで、とどのつまりは結果論じゃありませんか」。老兵は答える。


「結果論ですって。そうじゃありませんな。これからも、またあることですよ」


 言葉尻のみを捉えて口角泡を飛ばす息苦しい社会の到来は、かつての悲劇の再来を静かに警告する。


【プロフィール】ふるやつねひら:1982年北海道生まれ。立命館大学文学部卒業。主な著書に『左翼も右翼もウソばかり』『草食系のための対米自立論』『「意識高い系」の研究』。


※SAPIO2017年6月号

NEWSポストセブン

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