栗原友「父を悼む母・栗原はるみに、いま何をしてあげられるのか。家族でも、癒やせないことがある」

5月6日(木)12時30分 婦人公論.jp


「(父を亡くし)悲しみに暮れても、母は仕事を休みませんでした。そこが母のすごさであり、一方であの忙しさで悲しみを紛らせているところもあるのでしょう。仕事があってよかった。」(撮影:本社写真部)

築地で鮮魚店を営みながら、魚を使ったレシピの開発、飲食店の経営など精力的に活動する栗原友さん。「食」とは異なる世界で働いていた栗原さんが、まさに水を得た魚のようにいまの仕事を楽しんでいるのは、食通で知られた父の故・栗原玲児さんと料理家である母・栗原はるみさんの影響が多分にあるようです(構成=山田真理 撮影=本社写真部)

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父と母の結びつきは、それだけ強いものだった


父は2019年8月、半年間の闘病の末に肺がんで亡くなりました。46年連れ添った母は傷心のあまり眠れず、食事もとらずに泣いてばかりいました。あれほど誰かのために悲しめるってすごい。夫婦ってなんだろうと考えてしまいました。いまの私は、夫のためにあそこまで悲しめない気がする(笑)。父と母の結びつきは、それだけ強いものだったんだと思います。

悲しみに暮れても、母は仕事を休みませんでした。そこが母のすごさであり、一方であの忙しさで悲しみを紛らせているところもあるのでしょう。仕事があってよかった。そういう意味でも、父が母に仕事をするよう勧めたのは、大正解だったんじゃないでしょうか。

私が幼かった頃の父はテレビ番組のキャスターをしていて、母は専業主婦でした。それが父に「僕の帰りを待つだけの女性にならないでほしい」と言われたとかで、料理番組の裏方の仕事を始め、あっという間に人気料理家として活躍するようになりました。

とはいえ、その頃のことはよく覚えていません。鍵っ子になり、首からぶら下げた鍵のリボンがチクチクしてイヤだった、とかそんな記憶がかすかに残っているだけ。家に当たり前に母がいる生活ではなくなって、それなりに寂しい感情はあったように思いますが、家族ぐるみで仲のよかった隣の家で遊びながら、母の帰りを待つのも楽しかった。そこのお母さんも料理が得意で、子どもでもつくれるものをよく教えてくれたんです。

人んちの家族の時間を邪魔しないで


3歳違いの弟(料理家の栗原心平さん)はしっかり者で料理ができるようになるのも早く、夕食をつくってくれることもありました。というより、私がつくらせていたのか(笑)。本人も「家族のためにつくる料理が、自分の原点」と語っているみたいだから、結果オーライじゃないかな。いずれにせよ私たちきょうだいにとって、料理は子どもの頃から特別なものではなかったということです。

両親がメディアに出ていることは、いやおうなく意識してきました。家族でデパートへ行けば、「テレビで見てます」と声をかけられたり、「あれって娘?」とひそひそ声が聞こえてきたり。自慢に思うより、「人んちの家族の時間を邪魔しないで」とひねくれる感情のほうが強かったかもしれません。

親がそんなふうに頑張って働いてくれているから、その親を応援してくれる人がいるから、おいしいものが食べられて、居心地のいい家で暮らせる。でも子どもって、そういうことを考えないものですよね。少なくとも私は、ある程度の年齢になっても考えようとしませんでした。

中学は部活に夢中で勉強せず、高校は電車を3つも乗り換えないといけないくらい学校が遠くて、毎日遅刻。進路を決める三者面談で先生から「この出席日数じゃ卒業すら危ういぞ」と聞かされ、母はショックで泣き出し、私は「お母さんを泣かせるな」と怒られる始末です。父は大学だけは出るように言いましたが、「パリで服飾の勉強をする」と突っぱねて、ひとりで服飾専門学校の推薦入学を取りつけました。

なのに私、その学校を1年足らずでやめちゃうんですよ。アルバイトで始めたフリーペーパーの編集やライターの仕事が楽しくなって、「服は好きだけど、つくりたいわけじゃないんだな」って気づいたから(笑)。両親からはめちゃくちゃ怒られました。学費もバカにならなかっただろうに、「うちはお金あるでしょ」くらいにしか思わなかったんです。

いま、6歳の娘が「パパが遊んでくれない」と駄々をこねると、私は「パパが魚屋さんの仕事を頑張ってるから、昨日おいしいケーキが食べられたんだよ」と話します。夫は深夜に起きて市場に行きますから、夕方に寝なければなりません。だから我慢できることはさせないと。それに、そんなふうに親の、お金のありがたさをわかっていたら、私は毎日をダラダラ過ごさなかっただろう、といまになって思うから。

あの頃、いまの知識と経験があればもっと真剣に勉強したのに。将来こんな仕事をしたいとか、一生続けていける仕事はなんだろう、なんて一切考えない。その後も広告会社やアパレル会社でPRの仕事をしながら、パラサイト生活を満喫していました。

友は料理、上手だよ


実家にいれば誰かしらおいしいごはんをつくってくれて、どんなに忙しくても家のことは完璧な母のおかげで、居心地は最高。黙っていても洗濯物は畳まれて出てくるし、二日酔いで寝ていても薬や飲み物はベッドまで届く(笑)。そんな私を見かねたのか、30歳の手前でいよいよ実家を追い出されてしまいました。

その頃、ひょんなことから知人が、小冊子にレシピを書いてみないか、と声をかけてきました。「栗原はるみの娘だったら、できるでしょう」というわけです(笑)。母に相談すると、「絶対向いてるから、やってみなよ」と背中を押されました。それまで、自分が料理が得意だとも、それを仕事にしようとも考えたことはなかったので、母の「友は料理、上手だよ」という言葉がなければ、いまの私はないと思います。

最初はアルバイトもしながら、雑誌でレシピ紹介をしたり、企業の商品開発に携わったり。料理家としての仕事は順調に進んでいきました。ところがある現場で、鮮魚をさばくことになって。当時の私は魚をさばくのが大の苦手だったので、その場にいた料理上手なスタッフが代わってくれました。

でも、「あの栗原はるみの娘が魚もさばけない」と思われたに違いない、と考えると悔しかったし、恥ずかしかった。このままではいけないと一念発起し、築地場外の水産会社で働くことを決めました。36歳のときでした。

牡蠣の殻剥きやまかないづくりから始まり、自宅でも魚をさばいて猛特訓。だんだん店頭の魚もさばかせてもらえるようになりました。同時に、あらゆる魚についての知識、おいしい食べ方も身につけられたのです。魚は家庭でもっと気軽に楽しめる。その啓蒙をしていきたい、といういまの仕事の道筋もできました。

左乳房の全摘出と右胸の予防切除を決めた


朝が早い世界ですから、生活は一変しました。職場の上司だった夫と結婚して娘も生まれ、料理と水産業の二本立てで頑張っていこう。そう思っていた矢先の19年5月、乳がんが見つかりました。

海でボディオイルを塗っていたら、左胸にゴリッとしたしこりを感じて。最初の病院で乳がんと診断され、セカンドオピニオンを受けた病院では、再発しやすく悪性度の高いタイプのがんであることがわかり、左乳房の全摘手術を勧められました。

また手術前に受けた遺伝子検査で「がんになりやすい遺伝子を持っている可能性がある」と言われ、病巣のある左胸だけでなく、右胸の予防切除を受けることも決めました。娘はまだ4歳。家族で一緒にしたいことも、自分がやりたいことも山のようにある。その貴重な時間を闘病に費やしたくなかったのが、予防切除に踏み切った理由です。

両親には病院も、手術日も、術後の治療法も、すべて決めてから言いました。2人の仕事柄、相談すれば「どこそこの病院の先生がいいらしい」と紹介してくれたかもしれません。でも多すぎる情報で決断がブレるのもイヤでしたし、心配をかけるのも避けたかった。

というのもその年の3月、父が末期の肺がんと診断されて、余命宣告を受けていたからです。「あと半年」と聞いた母は大変なショックを受けていましたし、最期まで自宅で過ごすことを望んだ父の世話で手一杯。父にもしものことがあったら、と毎日眠れずにいるような状態で、これ以上負担をかけることはできませんでした。


「父はおしゃれな人で、2人でデパートへ服を買いに行くのが楽しみだった。だから私を指名してくれたんじゃないかな。誇らしかったし、ありがとう、と思いました。」

手術まであと1ヵ月、という6月、まず父にだけ言いました。「お母さんにどう話せばいいかな」と相談する感じで状況を打ち明けると、「その声色なら、お前は大丈夫みたいだな」とさらりと応じてくれたのがありがたかったですね。

母には手術の1週間前、弟も一緒に食事をしているときに言いました。絶対泣くよなあ、と想像できたので、その隙を与えないくらい早口で説明した。「……ってわけで、大丈夫だから!」と締めくくろうとしたけれど、案の定「どうしてもっと早く言ってくれないの」と泣かれてしまいました。そりゃあ母からすれば、「どうして友まで」ってなるでしょう。うーん、だから言えなかったのよ、と思うしかありませんでした。

私を指名してくれて、ありがとう


無事に手術を終えて自宅に帰ると、父から呼び出しがありました。父はいよいよ最期を迎える時期にあり、私に片づけを頼みたかったようです。胸をつってるから、まだ腕がうまく上がらないんだけどな、と思いつつ、リハビリのつもりで手伝うことにしました。

父の最後の衣装を考えたのも、そのときです。父は「シャツはこれ」と、ビーズの刺繍の入ったディオールのお気に入りに決めていて、私はそれに合わせるパンツとプラダのかわいいローファーを選びました。「金具が多いと燃やしてもらえないらしい」と言うので、シンプルなベルトをクローゼットから取り出すと、満足そうにうなずいていました。

父はおしゃれな人で、2人でデパートへ服を買いに行くのが楽しみだった。だから私を指名してくれたんじゃないかな。誇らしかったし、ありがとう、と思いました。でも決めた衣装を母が見つけたら、きっと泣いてしまう。その日がくるまで袋に入れて隠しました。

それから間もなく、父は亡くなりました。85歳でした。悲しかったけれど、咳や痰で苦しそうでしたから、「おつかれさま」という気持ちのほうが強かったです。あんなにおいしいものが好きなのに、食事を満足にとれないのもかわいそうだったし、顔を見に行くと、「今日、死なないかなあ。でも天気の悪い日に死ぬのはイヤだなあ」なんて言っていて。あれもなかば本心だったように思うんです。

それに父の最後の時間、正直私は自分の病気のことでいっぱいいっぱいになっていました。特に1ヵ月に及ぶ入院期間中、娘の世話を誰に頼むかは真っ先に考えなければならない検討事項でした。

私はがんを告知されてすぐ、同い年の娘がいる親友に「預かってほしい」と相談しました。京都在住の彼女は快諾してくれて、彼女の子どもが通う保育園に、娘も限定的に入れてもらえることになりました。1ヵ月も私や夫と離れるのは寂しかったと思いますが、娘には病気のことも隠さず話していましたし、仲良しの子と保育園に行けて、毎日楽しく過ごせたみたい。1ヵ月後、ちょっぴり関西弁になりながら(笑)、元気に帰ってきてくれました。

でも、そのことをどこかのインタビューで話したら、「なぜ家族を頼らず、赤の他人に迷惑をかけるのか」とネットに批判的な意見を書き込まれて。すごく驚きました。夫は深夜に起きて出かける仕事ですから、子どもの面倒はみられない。実家に預けようにも父には死期が迫っていて、母はその世話で疲弊しきっている。そのまわりで元気な4歳児を駆け回らせるわけにはいかないじゃないですか。

もちろん、頼めば母は喜んで引き受けてくれたでしょう。でも親だから、家族だからって、なんでも頼っていいわけじゃない。むしろ他人だから素直に甘えられることもある。両親にとっても娘にとっても正しい選択だった、と私は思っています。

思いは、マメに言葉にして伝える


両親は、公私ともに支え合ってきました。娘がこんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど、母は料理家として才能も魅力もあるし、決断力もあり、セルフプロデュース力にも長けています。それを、父が時代の空気を読みながらセンスアップした。2人で会社をつくり、いまの「栗原はるみワールド」を築いたのです。

二人三脚の相手を喪った悲しみは、たとえ家族でも簡単には癒やせません。父の一周忌のとき、お坊さんが「この法要には、悲しむのは終わりにして、次のステップに進むという意味合いがあります」といった法話をされたので、帰り道に「お母さんもそろそろ前向きになる頃なんじゃない?」と声をかけたんです。そしたら、「できるわけないじゃない!」ってまたぶわぁっと(笑)。ああ、まだ無理だった、かわいそうなことをしてしまった、と反省しました。

「お父さんとの思い出の場所に行こうよ」と旅行に誘っても、まだそんな気分にはなれないようです。でも母なりに、気持ちの整理をつけよう、次に進もうと思っているのかもしれません。

悲しみをゼロにできなくても、支えになれたらいい。いまは近くに住んでいることもあって、ちょっと刺身を届けたり食事をしたり、週に一度は会っています。特に母は孫を溺愛しているので、「顔を見たい」と頼まれると娘を遊びに行かせて、ひと晩お泊まりをさせることも。昨年、私が二度目の手術を受けたときは、「預かれないのは寂しいけど、一緒に京都まで迎えに行く」と言うので、3人で楽しい京都旅行もできました。

入院時、娘を預ける先がなぜ母ではないのか、など私の考えはマメに言葉にして伝えています。誰しも年を取れば心配性になりますし、何でも話してきた伴侶を喪いひとりになった母を、言葉足らずによってあれこれ疑心暗鬼にさせたくない。まだしっかり者の母に、いま私がしてあげられるのはそれくらいかな、と思うからです。

私は父が大好きで、なにかと頼りにしていたせいか、喪失感はあとになってきました。夫婦喧嘩でモヤモヤして「あー、お父さんに聞いてほしい!」と思うこともあるし、運転中にふと思い出して涙がこぼれることもあります。

でも、関係性は母とのほうが圧倒的に密。母にも「私が死んだらどうするの?」とよく言われます。「わからない、考えたくもない」と答えると、「でしょー、じゃあ大事にしてね」って笑うんです。そうは言っても母も74歳。体を気遣いながら、いつまでも元気でいてほしいと思っています。

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