朝ドラ『おちょやん』モデル・浪花千栄子、人生リベンジ「夫には、よう捨てていただいたと思います」

5月14日(金)8時15分 婦人公論.jp


映画『小早川家の秋』(小津安二郎監督、1961年)の浪花千栄子さん(『婦人公論』昭和54年7月号より)

ついに最終週を迎えたNHK連続テレビ小説『おちょやん』で、杉咲花さんが演じる主人公・竹井千代のモデルは、名優・浪花千栄子だ。夫・一平(演・成田凌)との破局後、一時行方不明になった千代だが、花車当郎(演:塚地武雅、モデルは花菱アチャコ)との夫婦役のラジオドラマが好評を博し、見事復活を遂げた。浪花千栄子も同じ試練を乗り越え、竹のように強い女性として多くのファンに囲まれたが、夫との共演は拒否し続けていたという。その理由を、離婚から10年後の昭和36年、『婦人公論』の鼎談「座談会 上方おんな愛憎廻り舞台」にて、浪花千栄子自身が語っている。

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前回●浪花千栄子の肉声「夫の浮気相手は20年で100人近う、次々かわってます」

向うを殺すか、自分が死ぬか


「まったくどん底に落ちて、はじめて幸せというものがわかります。わたしは五十を過ぎるまで、袂の揃った着物が着られまへんでした。いまはぴったりそろって全部こしらえられる、仕事がこしらえてくれるのです。幸せなことです」

『婦人公論』昭和36(1961)年8月号に掲載された座談会「上方おんな愛憎廻り舞台」には、浪花千栄子(当時54歳)の上記のような肉声が残されている。座談会のお相手は、森光子(41歳)、劇作家・菊田一夫(53歳)。


「上方おんな愛憎廻り舞台」の誌面

20年連れ添った夫・2代目渋谷天外が若手女優と不倫をしたうえ、子どもができた。夫の裏切りを知ったとき、「自分が死んで化けて出るのはくやしいので、どうせ死ぬなら殺してやろう」と思ったという。

「ある女優さんが映画でスパッとたたかれて、たいへんきれいな顔して泣きはったのを見た時、ほんとにあんなきれいに泣けるものかしら、あんなに悲しい場面にと、それひとつ非常にわたくしの印象に残っていました。そうして、わたくしが、もう向うを殺すか、自分が死ぬかという絶頂の悲しみのときに、泣いて泣いて泣き明かして、いったいわたくしはどんな顔して泣いているのか、鏡を見にゆきました。この悲しみがちょうどあのときの場面と同じや思って…。そうしたら目がはれあがっている、鼻は真っ赤になっている、見られないひどい顔しておりました。(笑)映画のあれはうその顔や」(同上)

花菱アチャコとの名コンビ


昭和26(1951)年、天外との別離と時と同じくして、立ち上げから在籍していた松竹新喜劇をも退団。しばらくの間消息を絶ち、京都四条河原町近くの知人宅の2階を借りていた。『婦人公論』の企画で浪花千栄子の人生をたどった演劇研究家・戸板康二は、以下のようなエピソードを記している。

「NHK大阪局のディレクター冨久進次郎は、『アチャコ青春手帖』の母親の役に浪花を起用しようと思ったが、尋ね当らず、一杯飲みにはいった所で、『浪花さんを知らないか』と訊くと、『いま、そこの銭湯にはいって行きはりました』というので、飛び出して、湯屋の前で待ち、契約をとりつけたという」(「物語近代日本女優史 浪花千栄子」『婦人公論』昭和54年7月号)

昭和27年、ラジオドラマ『アチャコ青春手帖』で始まった花菱アチャコ(花車当郎のモデル)と千栄子のコンビは、続いて29年にはじまった『お父さんはお人好し』によって、一世を風靡することになる。作家は長沖一(まこと/ドラマでは長澤誠。生瀬勝久が演じる)。10年続いた人気番組だった。ドイツ文学者の池内紀は『婦人公論』に寄せたエッセイ「浪花千栄子という女」の中で、以下のように綴っている。

「毎週、この人と会っていた——正確にいえばラジオで聞いていただけなのだが、しかし、それは会っていたのにもひとしかった。(略)月曜の夜、8時からの30分番組だった。テーマ音楽が鳴りだすと胸がワクワクした。配役を告げるアナウンサーの声を上の空で聞いた。藤本アヂャ太郎:花菱アチャコ 妻おちえ:浪花千栄子…」(「浪花千栄子という女」『婦人公論』昭和61年5月号)

世間からゴシップの主人公と見られていた女優は、見事な復活を果たした。その後も、テレビではNHK大河ドラマ『太閤記』(1965)の秀吉の母役で存在感を示し、映画では溝口健二の『近松物語』(1954)、小津安二郎の『小早川家の秋』(1961)、豊田四郎の『夫婦善哉』(1955)など名作と言われる作品に次々出演した。

あの女と一緒にいるあいだは…


一方、元夫・渋谷天外も喜劇役者として、そして脚本家・館直志(たてなおし)として活躍を続けていた。座談会が行われた昭和36年当時の関係はどうだったのだろうか。

「いまは向うから、一緒に仕事をしようということを絶えず言うてきてくれはるのですけど、私を捨てた時のあの女と一緒にいるあいだは、絶対あなたとは仕事をしませんと断っているのです」(「上方おんな愛憎廻り舞台」)

ところが、この座談会の少し前、いろいろな義理からテレビにいっしょに出ることになった。その時の感想がいい。

「夢に出てくるほうがようおます。がっかりしました。(笑)夢で逢っている人はきれいなんですから。(略)わたくし、この人のこと思うてもいないのに、どうして夢を見るのか思うほど、ひどい目にあわされている夢ばかり見るのです。それがたいへんいい男なんです」(同上)

座談会の相手の菊田一夫が「フロイトでいけば、やっぱり浪花さん惚れている」と指摘すると、「そうなんです」と答える千栄子。

森光子が「わたしたちの苦労は、けっして無駄にはなりませんですね」というと、菊田も「あなた(千栄子)はたしかに芝居がうまい。そのうまさというものは、逆にいうと、それだけ苦労させられたというか、舞台で自分を鍛えるということがあったわけね。その意味でいったら、あの人は恩人だと思うな」と。

すると、千栄子はいう。

「わたくしも、よう捨てていただいたと思います」


映画『小早川家の秋』(小津安二郎監督、1961年)の浪花千栄子さん(『婦人公論』昭和54年7月号より)

竹のような浪花さんを好もしく思う


凛とした生き方を貫く浪花千栄子には力強いファンも多くいた。前出の池内紀も、彼女の演技についてこう述べている。

「浪花千栄子は、あきらかに三益愛子や京塚昌子とは違っていた。何がどう違っていたか。浪花千栄子が演じるとき、その母親には期せずして2つの姿があった。こっちを向いているときには、ありきたりの小さな世話女房だが、ふっとあちらを向くと、誰にも知られない顔をもっていた。彼女は男の論理にぬくぬくと生きて毛ほどの疑問を抱かない夫に対して、その好人物性をいとおしがりながら、そんな男と夫婦という絆で半生を共にした自分に深い悲しみを感じないではいられない。だから時折、夫をいたぶった。容赦なくいためつけた——まるで不甲斐ない自分をいためつけるようにして。あの役どころは単なる『役』ではなかったのではあるまいか?」(「浪花千栄子という女」)

前出の戸板康二の評伝によると、薬師寺の高田好胤管長は以下のように語っている。

「浪花さんを見ていると、なくなりつつある関西の女の良さがみなぎっている。ただ、やさしいだけではない。彼女は竹が大変好きだそうですが、竹は雪が積もれば身をかがめ、あらしには従順にしていながら、底には凛然とした強さを持っている。わたしも竹のような浪花さんを好もしく思うのです」(「物語近代日本女優史 浪花千栄子」内『読売新聞』昭和46年6月5日の引用)

千栄子自身も竹が好きだった。昭和41年に京都の嵐山に料理茶屋を建て、その名も「竹生(ちくぶ)」としている。茶室にも「双竹庵」という名を裏千家からもらった。

あれもこれも習うのはやめなはれ、一本でよろしい


仕事は順調で、養女の輝美との生活も満ち足りていた千栄子。昭和29年から3ヵ年連続で国民映画女優賞を受賞し。38年にはNHK放送文化賞を受けた。

そして、昭和48年12月22日の夜、消化管出血のため、自宅で世を去った。享年66。

花菱アチャコは「さびしいな。ド根性のある、シンのつよい人やった」と語り、作家の長沖一は「ほんとうの大阪弁を使える最後の女優さんだった」。演劇評論家の秋山安三郎は「ひとくちに言えばほとばしり出る才能を蔵しながらも、それを一向に、そとにはギラつかせない抑制が利いている世渡りであった」と評した(「物語近代日本女優史 浪花千栄子」より)。

最後に座談会で千栄子が若い世代に向けたアドバイスを紹介しよう。

「わたくし、若い女の人によく言うのです、あれもこれも習うのはやめなはれ、一本でよろしい、自分の好きなもの、それをちゃんとやり遂げて、免状もって、夫に捨てられたかて、死なれたかて、それによって自分がつないでゆける、そういうものを、嫁入道具としてもっていきなはれ、それがいちばんたしかだと言うてやりますの。

そして結婚したら、自分を大事にしてヘソクリなさい。そうしないと、さあ捨てられたといっても、電車賃にも困りますよって…」

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