柴田理恵60歳、“おばさん”の記号をあえて笑顔で背負う理由

5月16日(木)11時0分 文春オンライン

『 週刊文春WOMAN 』2019 GW号の発売を記念して、『週刊文春WOMAN』を代表するジェーン・スーの人気連載「彼女がそこにいる理由」第1回を特別公開する。


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 テレビをつければ、画面にはいつものメンツが映っている。彼ら彼女たちはいつだって一定だ。騒がしい人は毎度騒がしく、賢い人は常に賢く、よく笑う人はなんにでもよく笑う。人物の印象が変わることはほとんどなく、むしろ変化の兆しが見えるとそのまま画面から消えてしまうことも多い。


 テレビの人気者はまるでドット絵だ。キャラクターは極限まで単純化され、人気の度合いは視聴率という数字で作り手に共有される。「あのタレントは何パーセント持っている」という考え方。つまり、人気者をドット絵にしているのは、他ならぬ私たち視聴者なのだ。


 それぞれに役割があるため、テレビの人気者たちが多面性を求められる場面は少ない。しかし、常に一定でいることがプロの証である人々にも、画面には映らない横顔があるはずだ。


 私が見たいのは、綺麗にまとまった「意外な一面」ではない。繊細な水彩画や力強い油絵で描かれた顔、特に女性の顔が見たい。彼女がそこにいる理由を、この目で確かめたいのだ。


 編集部を通し、一度だけお会いしたことのある女優の柴田理恵さんに取材を申し込んだ。



本連載はイラストレーターの那須慶子さんとのコラボレーション。インタビューに立会った那須さんが、テレビや広告とは異なる、普段の柴田さんを描いたのがこちら。


テレビでは素通しの眼鏡を掛けている


 柴田理恵と聞いて頭に浮かんでくるのは、ひっつめ頭に眼鏡を掛けたあの姿。しかし、以前ラジオ番組のゲストとして私の前に座った彼女は、長らくテレビや広告で見てきた柴田理恵とは別人だった。髪をおろし眼鏡は掛けておらず、緑がかった琥珀色の瞳はヘーゼルナッツのように輝いている。強く、美しい瞳だった。まごうことなき看板女優の風格。なぜ、こうも印象が違うのだろう。


「一昨年くらいまでは分厚い眼鏡をかけてたんですけど、白内障になって。そのとき、近眼が解消される眼内レンズを入れてもらいました。誰だかわからなくなると困るから、テレビでは素通しの眼鏡を掛けてるんですけどね」


 赤い口紅にひっつめ頭と眼鏡。馴染み深い柴田理恵像は、テレビに出始めた頃、自分で決めた。


「髪形を決めちゃえば楽だと思って。出るたびにメイクさんにいろいろお願いするのも大変だから、ひっつめて頭の上にポンッとつけ毛を乗せてくださいって」


 面倒が先に立ち、勢いで決めた容姿はトレードマークになった。こんなに長く続くとは、本人も思っていなかったかもしれない。


「どんなかわいい子かと思ったら、おまえかよ」


 理恵という名前は父が付けた。「理屈に恵まれるように」という変わった願いが込められているが、これは父が彼女に弁護士になって欲しかったからだ。



「理恵って書いて、『よしえ』って読ませようとしてたみたい。『りえ』って、昔はちょっと派手な名前だったんです。学校の先生だった母は、バーの女給のような名前だって嫌がって。たみことか、明子とか、そういう名前が普通だった時代の話。『よしえ』はまだ許されるムードだったらしいんですけど、母の同僚たちから『理科の【り】なのに、【よし】って読ませると小学校に入って苦労する。このまま【りえ】と読ませた方がいい』って言われて理恵になったと聞きました」


 この世に生を受け、期せずして華やかな名前を纏った柴田は、クラス替えのたびに「どんなかわいい子かと思ったら、おまえかよ」と落胆される羽目になる。名前から勝手に想像される容姿は確かに存在するが、なんとも忍びない話だ。余計なプレッシャーを背負いながら、柴田はどんな幼少期を過ごしたのか。


「女の子然としたものは、ほとんど着せてもらえなかったかな。お下がりは母の同僚の息子の服ばっかり。ずーっと、ズボンしか穿いたことなかった。色は青とか紺」



“私なんてブスだし、デブだし”の時代


 柴田はひとりっ子だ。両親はともに仕事で帰りが遅く、祖父が彼女の面倒を見た。祖父は家事が得意で、柴田も小学生の頃から料理を嗜んだ。真面目でおとなしく本ばかり読んでいたが、ひょんなことから中学時代に山本リンダの物まねで友達に大受けし全身に鳥肌が立つような感動を覚えた。柴田は高校入学と同時に演劇部に入る。


 柴田の著作には「私なんてブスだし、デブだし」という言葉が頻繁に出てくる。そう自認していた女子が、なぜ女優を目指したのか。歌真似が受けたなら、歌手を目指す道もあったはずだ。お笑い好きなら芸人もいい。「ブスだし、デブだし」から女優までの距離を、柴田はどう縮めたのか。



「歌がうまいとか、踊りがおどれるとかじゃなかったですもん。女の人でお笑いをやるとしたら、その頃は漫才師くらい。女性のコントグループもいないし、芸人さんなんか全然いなかった。ほら、女優さんていうのは、テレビや映画に出てる特別な人でしょ?


 だけど芝居って、そこが自由だった気がするんです。舞台にはいろんな人がいるから、私が目指してもいいんじゃないかなって。それで演劇部に入りました。入ったからにはただの部活動じゃなくて、なんでもいっぱい見たいと労働演劇協議会に入りました。入会すると2か月に一度くらい富山に来る本物のお芝居が観られたんです」


 東京で一旗揚げたかった父と、地元の歴史ある旅館に生まれながらも独立心旺盛な母は柴田の熱意に理解を示し、観劇の日は終バスで帰ってきても怒らなかった。それでは飽き足らず、柴田は唐十郎、寺山修司など東京で流行っていたアングラ演劇を専門誌で眺めては、どんなものかを夢想した。


 演劇熱が高まった柴田は、東京で芝居の勉強をすると心に決める。ならば大学に入ってしまうのが一番手っ取り早い。親には教員になるとほのめかして上京したが、退路を断つため教職課程はひとつも履修しなかった。


「女だけでも笑いがとれるようになりたいね」と夢を語った


 演劇で食べていきたい。お笑いも好きな自分を活かせる劇団はどこか。熟考の末、柴田は当時爆発的な人気を誇っていた佐藤B作主宰の劇団、東京ヴォードヴィルショーの門を叩く。劇団員の募集はなかったが、開かずの扉を叩き続け、無理やり体をねじ込ませた。


 柴田はここで演劇の楽しさを存分に味わい、やがて、いつか叶えたいと願う夢も生まれた。


「当時、特にお笑いでは、女は男の添え物みたいでした。ヒロイン役とブス役がいれば成り立ったんですよ。でもね、東京ヴォードヴィルショーと同じくらい人気のあった東京乾電池って柄本明さんたちの劇団には、お姉さん格の女優に松金よね子さん、岡本麗さん(非所属だがゲスト出演)、田岡美也子さん、もう少し下に角替和枝さんがいたんです。



 私たちは添え物的な存在なのに、東京乾電池は女たちだけでガンガン作っていく即興芝居をやってた。あれに憧れて。久本と一緒に見に行って、『ああいう風に、女だけでも笑いがとれるようになりたいね。私たちはまだまだ添え物だけど、いつか男たちを向こうに回して、女だけでお客さんを笑わせられるようになりたいね』って、なんにもできない頃から夢を語ってました」


 東京ヴォードヴィルショーに骨をうずめる覚悟だった柴田の転機は、意外にも早く訪れた。劇団員になって3年目のことだ。



 新劇出身者たちが作った東京ヴォードヴィルショーは10周年を迎え、より本格的な芝居を目指すようになる。しかし柴田たち若手は、もっと馬鹿なことをやり切りたかった。


 当時、東京ヴォードヴィルショーには喰始という鬼才の作家がいた。彼のもとで初めて若手公演を行ったとき、喰始は柴田たちに「ちんぽこがどんなにすごいかを世の中に宣伝するCMを考えてこい」と妙なことを言った。


 お題はなんであれ、自分たちで一から考える初めての作業。若手にはこの上なく新鮮だった。ひとつことを真剣に考え、「これ、面白いじゃない!」と言われる喜びを知った。添え物ではないと感じる瞬間があったのだ。


「飲み屋で決めた」に辞めてやろう


 自分たちの演劇をやりたい。そう思い始めた柴田に、もうひとつの事件が起きる。


「東京ヴォードヴィルショーの公演で、客演に松金よね子さんと岡本麗さんと田岡美代子さんの3人を呼んだんです。どうして? と。私たちが若手公演をやっているのは、B作さん、あなたに認められたいからですよって。なのになぜ、外から3人も。私たちの目標になる女優を一人呼んでくるならわかる。でも、なんで3人もって尋ねたら『飲み屋で決めた』って言われたの」



「飲み屋で決めた」は柴田家の女を奮い立たせるマジックワードだ。教師だった柴田の母は、職員会議で決められるべき数々の議題が、会議のあと「男だけ」で訪れる飲み屋で決められることが許せなかった。からくりを知った母は、飲み屋にも麻雀にも徹底的に付き合うようになる。


 柴田の母は、自分が被害者の立場に留まることを絶対に許さなかった。自分を認めさせる労力を惜しまない、意地と根性を持ち合わせたパワフルな女性だ。


 大変だったのは、夜中に帰ってきた酔っ払いの母を介抱する柴田。母は父と外で飲んで帰ってくることも多く、子ども時代は帰宅した両親の布団を敷くのが日課だったらしい。


 柴田自身にも、母の負けん気の強さを引き継いでいる自覚がある。当然、劇団上層部の「飲み屋で決めた」発言に反発を感じた。


「それはないんじゃないかと。私たちだって一生懸命やってんのに、そういうことすんのかよって、ちょっと思ったんですよ。だったら私は違う可能性に賭けたい。それでB作さんに辞めたい旨を伝えたら『じゃあ今度はいい役やるから』って言われたの。それが嫌だった。そういう話をしてるんじゃないんですって言って」


 当時の柴田を思うと、胸が潰れそうになる。いい役は、認められて勝ち取るものだ。なにかと引き換えに授けられるものではない。どんなに悔しかったことだろう。



「そのときにB作さんが言ったんですよ、『劇団は作った者のもの』って」


ならば、と自分たちの劇団を立ち上げた


 ならば、と奮起した柴田たち若手は、劇団ワハハ本舗を立ち上げた。多くの労を取ってくれた喰始は「これからは自分たちで脚本を書ける役者が必要になる。男社会でもなくなるから、女だけのシーンを作りましょう、女だけでお笑い作りましょう」と力強く柴田たちに語り掛けた。柴田を始めとした女優たちは女性だけのグループを作り、試行錯誤を繰り返した。


 劇団創立後しばらくして、柴田の胸に佐藤B作の言葉がふとよぎる。言われた通りだった。劇団は、作った者のものだった。


「劇団を維持していくのは想像を絶するほど大変なことでした。劇団員を育てるためだけにやってもダメなんです。世の中に打って出て行かなきゃいけない。長く続けるためには大きくしてもいかなきゃいけない。今から考えれば、B作さんのあの選択は間違ってなかったんですよ。あの女優たちは必要だった。今ならわかるんです。でも、あの頃は分からなかった」



「周りから見れば、ただの掃除のおばさんだよなって」


 一念発起で始めたワハハ本舗だったが、迷いも生まれた。長年続けていた清掃アルバイトの最中、柴田はエレベーターのドアを鏡代わりにダンスの練習をしていた。ふと見ると、そこには冴えない掃除のおばさんが映っていた。


「掃除のおばさんが踊ってると思ったとき、愕然としたもんね。あー、女優だ芝居だって思ってるのは自分だけで、周りから見れば、ただの掃除のおばさんだよなって、すごく思いました」


 俯瞰の目に囚われ、夢をあきらめそうになった女はゴマンといる。柴田もその穴にはまった。



「当時は25歳か26歳。やっぱり行き詰ってたと思うんですよね。意気揚々と劇団を始めはしたけど、人を笑わせることはなかなか難しい。こんなはずじゃないって焦ってる時期でした。他の人はみんなできてるような気がするんですよ。自分だけができない」


自信をなくし、素直にアドバイスに従ってみたことが転機に


 柴田はその深い穴からどう抜け出したのか。


「私なんかもうダメだと思ってるときに、劇団の仲間が『柴田、こういう風にやれば?』って言うわけですよ。『俺が見てる柴田のいいところって、こっちじゃないかな』と真剣に。


 それまでは意地を張って聞く耳も持たなかったけど、あの時は自分を信じる力もなくて。だから素直に『へえ、じゃあやってみる』と。すると『そうそう、面白いじゃん』『あー、本当だ!』って。そういう作り方をやった。すると自分も『こうやって見たら、こっちの方が面白いよ』と行き詰ってる人に言えるようになって。みんな行って来いなんですよ。お互い提案ができるようになって、私は助かった」


 ワハハ本舗という劇団が、彼女の帰る場所であり続けることがよくわかるエピソードだ。ワハハ本舗は柴田にとって、迷ったとき、立ち止まったとき、見上げた空に浮かぶ北極星。道しるべなのだろう。とは言え、ありたい自分と求められる自分の姿が乖離することへの恐怖はなかったのだろうか。


「うん。求められることをやっていけば、やがて、やりたいことができるんじゃないかって。その方が早いんです、なんか」


 私はまんまとそれに騙されていたというわけだ。明るくて、人が良くて、おせっかいで、よく笑う。ヘアメイクもファッションもいつも同じ。柴田が演じるステレオタイプのオバサンは実在しない。私たちが観ている柴田理恵は、あくまで板の上の「柴田理恵」役なのかもしれない。本業は、やはり舞台女優なのだ。


 事実、女優・柴田理恵を目の前にすると、長い時間をかけとてつもない量の視線を引き受け養った底力が全身から伝わってくる。 


「子どもニュース」では子役を引き立てることに徹した


 このままで大丈夫、と自信がついたのはいつからだろう。


「自分たちがやってきたことが、人の役に立つとわかってから」


 柴田は答えた。しかし、柴田を見て励まされた人がいた、という類いの話ではない。


 柴田が「週刊こどもニュース」に出演していたときのこと。当初は母親役の柴田が父親役の池上彰に質問するスタイルをとっていたが、柴田はこれに違和感を持った。子どもが言いたいことを言っているのが、良い家の在り方ではないか。



「お母さんは30分黙っててもいいやって、子役たちに『ここだ!』って時に合図を出すようにしたんです。すると、子役が『あのー』って質問するようになった。子どもたちが生き生きし始めたって言われて、あー良かったって」


 番組でコントをやる時には柴田が駄洒落を考えることもあった。


「ワハハでやってきたことと同じ。私のやり方はこれでいいんだって」


 柴田は芝居に出るだけでなく、芝居を創る人間でもある。


 ありふれた問いだが、私は柴田に尋ねた。女優とは、どんな人に向いている職業なのか。



「それしかできない人が続けてる」


「それしかできない人じゃないかな。なんか、あきらめの悪い人。これだけはやめられないのよねーって人。面白くなると色んなことを忘れちゃう、そういう人が続けてるんじゃないかと」


 自身は? と尋ねると、柴田は少し思案したのち静かに「多分、そうだと思います」と答えた。


 柴田の父は「なんのために生きているのか」と問う娘に「お前のために生きてる」と答えたことがある。柴田はいま、何のために生きているのだろう。


「表向きは家族のためとかですけど、結局は自分のためなんですよ。そこがダメなところで、ダメな人しかこういう仕事しちゃいけないんですよ」


 大学時代に付き合い始め、劇団公演の一環で結婚式を挙げた夫を持つ柴田は、自分を言い含めるように言った。


 柴田の著書に「子どもはやっぱり0歳から3歳まで母親が一緒に居てあげるべきだと思う」という一文を見つけたとき、これは柴田の叶わぬ願いではないかと思った。


 母は柴田を保育園に預けると、振り返ることなくスタスタと仕事へ向かう人だった。彼女が積極的に子どもを持とうとしなかった理由がここにあるような気がした。


「母からは、バッカだなーって言われましたけどね。子どもがいるとどんだけパワー出るか、あんた作ってよかったよ、仕事にすごいパワー出たからって言われたけど、ま、職種が違うと思って。なんか役者って、もっとダメな生き物だって思うんですよ」


 裏を返せば、役者という仕事にはダメを許容する懐の深さがあるのだろう。



自分の事しか考えてない癖に、そこまで自分本位じゃない


 柴田は繰り返し己のダメさ加減を強調するが、本当にそうか。


「私、家事は好きなんですよ。家をちゃんとするのが好き。休みの日は家から一歩も出ないし。だからね、もし子どもを持ったら、夢中になって芝居なんか二の次になった気もするんです。自分で予防線を張って、子どもを持たなかったってところもあります」


 柴田の声は明るかった。彼女のなかでは既に解決したことだ。


「ありがたいことに、芝居はやってくるし、仕事も来るから。そこで鞭を当てられてます。自分の事しか考えてない癖に、そこまで自分本位じゃない。なんて言ったらいいかな」


 私が勝手に代弁しよう。柴田は人のために生きる人生を歩んではいない。限りなく自分本位だが、同時に、他者がそれで割を食うことを許さない。自分の我がままのツケは、自分で払う。


「これからどうなりたいかは、ちょっとまだわからないけど、どういう状態でいたいかはわかります。面白い芝居の中に、身を置いていたい」


 周囲には感謝しかない、と柴田は言う。私が知る限り、周りに感謝を重ねる人は夢が叶った人だ。


 出会いに恵まれたことには違いない。しかし、富山の演劇少女は自力で夢を叶えたのだ。舞台という太い背骨に貫かれ、彼女は今日もここに立つ。


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連載「彼女がそこにいる理由」第2回は君島十和子さん。スーさんが「多くの女性に読んで欲しい気持ちでいっぱい」と語る、まったく新しい君島十和子論は『 週刊文春WOMAN 2019GW 』にて掲載中。



しばたりえ

1959年富山県生まれ。女優・タレント。明治大学卒業後、劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、84年に久本雅美らとワハハ本舗を旗揚げ。舞台を軸に、ドラマ・映画でも活躍。




ジェーン・スー

作詞家・ラジオパーソナリティ・コラムニスト。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で講談社エッセイ賞を受賞。最新刊は『私がオバさんになったよ』(幻冬舎)。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」(月〜金11:00〜13:00)が放送中。





(ジェーン・スー/週刊文春WOMAN 創刊号)

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