検非違使による捜索に伊周・隆家兄弟への罪名勘申。命令していたのは道長でなく…『光る君へ』で描かれなかった「長徳の変」前後のウラ事情

2024年5月30日(木)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議—論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。

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道長の幸運


長徳元年(995)、兄の関白道隆が4月、関白をついだ同じく兄の道兼も5月に、あいついで病で死去するなか、30歳の道長は権大納言として内覧の宣旨をうけた。道隆の子内大臣伊周(これちか)の後塵を拝していた道長にとって、思いもかけぬ幸運であった。

とにかく年頭に14人いた中納言以上の公卿のうち、8人がその年のうちに病死した。

奈良時代の天然痘大流行のとき、藤原四兄弟(藤原不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が病死したが、それ以来の事態である。

道長の抜擢に大きな発言力をもったのは、一条天皇の生母である、道長の姉詮子といわれている。

このとき、関白就任の噂もあったようだが、権大納言という地位からして、それが実現しなかった。そのために、それに准ずる内覧になったのである。

内覧とは天皇に奏上、あるいは天皇から宣下される文書を内見できる権限であり、関白の職務の根幹をなす。当時、道隆の子伊周が上位の内大臣にあったから、それをはばかったという面もあるのだろう。関白よりも格下とはいえ、権限はほとんど変わらない。

実質関白になったのも同然なのである。

立場は盤石ではなかった


そして、内覧就任の1ヶ月後には、道長は右大臣に昇進した。


『公卿会議—論戦する宮廷貴族たち』(著:美川圭/中公新書)

この年、左大臣源重信も道兼と同日に死去しており、一上(いちのかみ)つまり太政官の首班、そして藤原氏の氏長者(一族の代表者)となった。すでに、一条天皇の叔父として外戚の地位にもあるから、これで関白就任を妨げる要因は消滅したはずである。

ところが、道長の政治的な立場は、この時点ではそれほど盤石なものではなかった。道隆の子、伊周およびその弟の中納言隆家との対立が激しさを増していたのである。

伊周・隆家兄弟のあいだの定子は、中宮(皇后の別称)として一条天皇の寵愛を受けていた。

皇子が生まれれば、天皇はその皇子の皇位継承を熱望することは目に見えており、一度は道長に逆転された伊周らの立場が一気に強まることになりかねない。しかも、道長の娘の彰子はこのときわずか8歳であり、まだ入内には時間が必要であった。

大事件が


実際に『小右記』(藤原実資〔さねすけ〕の日記)によると、7月24日には、道長と伊周が陣座で口論におよび、27日には道長と隆家の従者が七条大路で衝突した。

8月2日には隆家の従者が道家の随身(朝廷高官の護衛兵)を殺害している。

そして翌長徳2年(996)正月16日、故藤原為光(道長の叔父)の邸宅で花山法皇(法皇は出家した上皇)と伊周・隆家が遭遇して闘乱におよび、隆家の従者によって法皇の召し使いの少年2人が殺害され首を持ち去られるという大事件がおこる。

この事件の影響は大きかった。

早くも、正月25日の除目では伊周の座席がなかった。除目から排除されたのである。

誰が命令したのか


そして、2月5日には伊周の家司(けいし)宅に精兵が隠れているというので、検非違使(けびいし)による捜索が行われている。

さらに、11日、蔵人頭から陣座にいた道長以下の公卿たちに、明法博士(法律の専門家)による伊周と隆家の罪名勘申が命じられた。

歴史学者・倉本一宏が述べるように、これらの命令は道長によるものではなく、17歳の若き天皇によるものであろう。

道長と伊周・隆家との対立は周知であり、道長自身は慎重に行動していたのであろうし、一方で一条天皇は意外に強い政治的主導権を発揮していたのである。

*本稿は、『公卿会議—論戦する宮廷貴族たち』の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

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