難病の51才日本人女性が安楽死を選択するまで、彼女の言葉

6月13日(木)11時0分 NEWSポストセブン

昨年9月、宮下氏は小島さんを取材

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 2018年11月28日、朝10時過ぎ。ベッドの小島ミナさんの腕につながれた点滴の袋の中に、薬が流し込まれた。女性医師が語りかける。


「ミーナ、死にたいのであれば、それを開けてください」

「いいんですか」

「ええ、どうぞ」

「では開けます。ありがとうね、いろいろ」


 点滴の入った致死薬のストッパーを一瞬の迷いもなく小島さんは開けた。


「う、うぅ。本当に。ありがとう。こんな、私の世話をしてくれて本当にありがとう」


 小島さんの姉が語りかける。


「ミナちゃん、ミナちゃん!ごめんね、ミナちゃん! あなたのことは誇りに思うから。これからもずっと、ね…」


 小島さんが答える。


「本当に最高の別れをつくってくれてありがとう。心から感謝している。幸せにしてくれてありがとう」


 小島さんは幾度も「ありがとう」を繰り返した。


「そんな〜に、つ〜ら〜くなかった〜よ。病院にもみ〜んな〜来てく〜れた〜か〜ら。す〜ご〜く、しあ〜わせ〜だった…」


 家族を見つめていた目は徐々に閉ざされ、頭を支える筋力がふっと抜ける。致死薬が体にまわって、わずか60秒。彼女は苦しみ続けた年月から解放され、51才の生涯に幕を閉じた。


 *

 小島さんに多系統萎縮症(たけいとういしゅくしょう)という神経の難病が発覚したのは3年前のことだった。独身で子供もいない彼女は、韓国語の翻訳や通訳業の拠点だった東京を離れようと考え、新潟の長姉宅に身を寄せた。


 当初は毎朝、愛犬とともに周辺を散歩した。病の進行とともに体の自由を失い、外出は困難になった。2階にある12畳ほどの部屋。ここが彼女の世界になった。部屋には公園に面した窓があった。春になると、小島さんはそこから見える桜を楽しみにしていたという。


 今年4月、桜が咲き始めた頃。本誌記者は部屋を訪ねた。書棚を見た。生や死をテーマにした本が多かった。彼女はもう部屋にはいない。


 かわりに仏壇にはスイスから送られてきたごく僅かな遺灰が安置されていた。線香をあげさせてもらうと、長姉・恵子さんがポツリと言った。


「こないだ仏壇の前のろうそくの火が風もないのに、フッと揺らいだことがあったんです。ミナちゃんが家にいるような気がして…」


 昨年11月、小島さんは安楽死を遂げた。正確には「自殺ほう助」と呼ぶ。劇薬の入った点滴のストッパーを、医師や家族に見守られながら自ら開く。すると間もなく息絶える。もちろん日本では許された行為ではない。だから彼女は海を渡った。日本人としては初めて公になる安楽死事案である。


 ジャーナリストの宮下洋一氏はこのたび、その過程を記録したノンフィクション『安楽死を遂げた日本人』(小学館)を上梓した。同氏が取材に協力した『NHKスペシャル』(6月2日放送)も大きな反響を呼んだ。


 とりわけ家族に囲まれながら、小島さんが息を引き取るシーンが放映されたことは衝撃をもって受け止められた。穏やかな表情だった。最期に限らず、安楽死の日程が決まってからの彼女は、日増しに明るくなっていったという。次姉の貞子さんは話す。


「ミナちゃん、スイスに着いた途端、『私、この空気嫌いじゃないかも』と言ったんです。肩の力が抜けたようで、何かするたびに私たちに『ありがとう』と繰り返していました」


 小島さんは安楽死を迎えられることを「救い」と捉えていた。小島さんは生前、本誌にこう語っていた。


「安楽死は、私に残された最後の希望の光なんです」


◆死ぬ覚悟と寝たきりになる覚悟、後者の方が怖い


 彼女の存在を最初に報じたのは、2018年9月27日発売の本誌・女性セブンだった。医療技術の進歩とともに、現代人の平均寿命は飛躍的に伸びた。病床にあっても生き続けられる。延命が本人の意思であれば何ら問題はない。だが、希望に反して生かされている患者に「尊厳」があるかどうかを問う声は高まっている。そうした問題意識のもと、本誌は安楽死を希望する当事者を探した。すでに小島さんと連絡を取っていた宮下氏に協力を頼み、本誌は彼女と会った。


 新潟県の某病院。病室の扉を開けると、小島さんは、奥の傾斜が付いたベッドに腰掛けていた。呼吸器も装着してなければ肌艶もよかった。病室にいることを抜きにすれば、健康な女性にしか見えない。そんな彼女は、冒頭、思いもよらぬ言葉を口にした。


「たとえば今、ここに医師が現れて、この薬を1つのめば死ねますと言われたとしたら、すぐにのみますよ」


 彼女は言葉を継いだ。


「今は少なくとも、姉たちが見舞いに来てくれるから、幸せなんです。看護師さんも先生もいい。だけどそれは幸せということであって、楽しいということとはまた別なんですよ。あなたは幸せですかと聞かれたら、はいと言います。でも、楽しいですかと聞かれたら、返答に困ります」


 幸せだけど、楽しくはない。そんな複雑な思いを口にした。


 彼女が患う多系統萎縮症とは、5万人に1人が発症する神経性の難病。小脳などの異変によって、体の平衡感覚を失い、歩くことが困難になって、次第に言葉もままならなくなる。すでにインタビュー時には、呂律が回らないこともあった。


 最終的に食事も排泄も、自分の力で行えなくなる。現時点で、有効な治療手段はないという。


「情けないのが経済の話。私みたいな病気になると、働けない。でも生活していかなきゃいけない。所持金が100万円だとします。1年と余命宣告されれば、その間100万円を使う計画が立ちます。でも私の病は20年以上生きている人がいる。100万円を20年で使うのか1年で使うのかもわからない」(小島さん)


 病は確実に進行する。この病が怖いのは、その速度が緩慢なことだと彼女は言った。


「2つの覚悟が必要なんです。1つは死ぬ覚悟。もう1つは寝たきりになる覚悟。私は後者の方が怖い。排泄の処理までしてもらっても、ごめんねもありがとうも言えない。その覚悟の話をした時に、姉たちも私の気持ちを理解してくれました」


 小島さんがそう話す横で恵子さんは頷いていた。


 しかし、そこには家族としての葛藤もあるようだった。


「本人でないとわからない苦しみがある。私は当然のことをしているのに、ミナちゃんからありがとう、ごめんね、と言われると逆に悲しい。でもそれすらも伝えられない日が来ることを妹は恐れていた…」(恵子さん)


 昨年9月の取材時点では、スイスの安楽死団体にメールを出したが、返事がこないことを小島さんは嘆いていた。


「私にはもう時間がない」


◆日本人会員は2019年には17人に


 オランダやベルギー、アメリカ・オーストラリアの一部の州など安楽死を容認する国や地域は複数ある。だが、外国人を受け入れる団体が存在するのは、スイスだけだ。小島さんが申請したのは、スイス・バーゼルに本部を置く「ライフサークル」という団体だった。


 同団体の代表を務めるのは、医師のエリカ・プライシックさん(62才)。彼女をこの3年間、何度も取材してきた宮下氏は、こう言う。


「プライシック医師は、死に方を自ら決めることは、人が生まれ持つ権利のひとつであると考えています。どう死ぬかを考えることは、どう生きるかを考えることでもあるというのが彼女の信念です」


 インターネット上での手続きと約5000円の入会金を振り込めば、誰でも同団体の会員になれる。だが、実際に自殺ほう助の対象者として認められるためには、次の4条件が問われるという。


・耐え難い苦痛がある。

・回復の見込みがない。

・代替治療がない。

・本人の明確な意思がある。


 書類審査の上、プライシック医師ともう1人の医師による面接を経て、彼女の病状と意思が確認されれば、ようやく同団体で死を遂げることができる。


 2018年時点の会員は1379人。そのうち同年に安楽死を遂げたのは80人ほど。ちなみに日本人会員は、2018年に11人。2019年(4月時点)には17人になった。ただし小島さんが現れるまで、日本人が同団体で安楽死した例は、過去に一度もなかった。


 小島さんは女性セブンの取材時に、団体からの返事がないことに焦燥感を募らせていた。だが、取材の2日後の昨年9月末に同団体から返信がきたという。


 その後、数週間にわたる小島さんと団体側のやりとりを経て、11月上旬に実施候補日が団体から提案され、数週間後の11月28日に決まった。


 恵子さんはあまりに事が早く進むことに対して戸惑いがあった。だが、小島さんに迷いはなかった。恵子さんに向かって、はっきりとこう言った。


「だって、それを過ぎたら私の体が動かなくなっているかもしれないでしょう。断ったらいつになるかわからない」


 同団体の手続きに必要な費用は、約100万円超。営利目的ではないため内訳の大半は施設や火葬の手配などの諸経費だ。一概にはいえないが日本からの渡航費や滞在費などを考えると、200万円程度はかかると宮下氏は言う。


 その費用をどう見るか。宮下氏の取材に、小島さんはこんな思いを口にしている。


「50年生きてきて一生懸命働き、その貯金を全部この死ぬための旅費に使っているかと思うと、ちょっと情けないですね」


 スイス渡航に向けて、急ピッチで準備を進めた。友人や家族との別れも済ませた。家族の1人は、翻意を促したという。しかし、小島さんはこう言った。


「私は思い残すことがないんだよ。行きたいところも行ったし、食べたいものも食べた。だから悲しまないでちょうだい」


 11月24日早朝、小島さんは退院し、日本を発った。


◆「人間なんていつ死んでも今じゃないような気がするの」


 翌25日にスイス・チューリッヒ空港に到着し、バーゼルのホテルに向かった。そこから安楽死に臨むため、医師たちの面接を受ける彼女の様子は、『NHKスペシャル』でも放送された。特に反響が大きかったのは、プライシック医師からの言葉だ。


「(ほう助までの)2日間に気持ちが変わったら言ってほしい」


 同行した姉たちがこのまま妹を旅立たせていいのかと逡巡する場面である。小島さんは「人間なんていつ死んでも今じゃないような気がするの」と語り、姉たちを落ち着かせようとした。それは病床で3年間、生と死について考え抜いた彼女ならではの言葉に思える。


 しかし、小島さんに迷いがなかったわけではない。スイス滞在中、宮下氏は小島さんから、次のような本音を聞いている。


「さっき(プライシック)先生が、核心をつくことを言っていました。『あなたはまだ早いんじゃないのか』と。もし安楽死が日本で可能であれば、たとえば、私がしゃべれなくなり、全身が動かなくなり、寝たきりで天井だけ見るようになった時には、ちょっと頼むと言えます。でも、現状、日本ではそれができない。自分ができるうちという見極めが難しいんですね。今が死ぬタイミングだろうか、と思うことはある。たぶん、死を選ぶにはちょっと早いと思うんです」


 だからこそ、自らのことを「悪い例」と語っていた。


「お金がかかる、時間がかかる、そして自分の死期を早めている。悪い点だらけです。スイスに行けば安楽死ができるから万歳と、そこまで単純ではない」


 彼女は最期まで冷静だった。少なくとも、一時的な感情の揺れでスイスに渡ったのではなかった。だからこそ、改めて問いたくなる。本当に安楽死という道しか、彼女に残されていなかったのだろうか。何が彼女をそうさせたのか。宮下氏が答える。


「それが彼女の生き方だったとしか答えられない。彼女はとても自立心が強い女性なんです。高校卒業後、郷里の新潟を離れ、民主化の只中にある韓国のソウル大学に単身留学し、韓国語を身につけ、東京で身を立ててきた。


 ブログを読んでいると、彼女の思考がよくわかる。闘病の現実を題材にしつつも、それを悲観的にではなく、彼女なりのユーモアをもって描いていた。時には、生きることへの希望を見つけようともしていたんです。


 3年間、病床で生と死に正面から向かい合った。結果、彼女は安楽死を選んだ。その選択自体は、私は尊重したいと思います」


※女性セブン2019年6月27日号

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