中山秀征 芸能界で42年、生き残れた強みを語る。「テレビ好きの情熱だけで、中学3年で単身上京。飽きられないのは、家族のおかげ」

2024年6月18日(火)12時30分 婦人公論.jp


(撮影◎本社 武田裕介 以下すべて)

14歳で芸能界デビューして以来、『DAISUKI!』『THE 夜もヒッパレ!』『TV おじゃマンボウ』など人気番組のMCとして活躍し、現在も情報番組『シューイチ」を、絶妙の緩急で仕切っている中山秀征さん。30年間、途切れずに生放送に出演し続け、歌手でも俳優でも芸人でもなく、「テレビタレント」であることに誇りを持っているそう。デビュー42年を機に、著書『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(新潮社)も出版。中山さんが「テレビタレント」にこだわる理由は何なのか? 元宝塚トップ娘役で女優の妻・白城あやかさんとの関係や、4人の息子さんたちの子育てについても語っていただいた(構成◎内山靖子 撮影◎本社 武田裕介)

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テレビタレントの肩書にこだわる理由


僕が芸能界でデビューした頃は「一つの道を極める」ことが美徳とされていた時代です。そんな中、情報番組やクイズ番組の司会をするかと思えば、ロケで楽しそうに遊んだり、時にはドラマや歌番組に出ていたので、「軽い」「節操がない」と批判されたこともありました。それでも僕はテレビタレントという肩書にこだわりがあり、この道を極めたいと思いながら、現在も仕事をしています。

とはいえ、テレビタレントになったのは、実は苦肉の策でした。17歳で渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)の新人オーディションに合格、歌手としてデビューしたけれど鳴かず飛ばず。じゃあ芝居をやってみるかとドラマに挑戦しても、いまひとつパッとしない。

そこで、当時のマネージャーから「これからの時代はバラエティだ。お笑いをやってみないか?」と言われて、同じ事務所の松野大介さんとコンビを組んで、ABブラザーズとしてデビュー。最初の3年間はよかったものの、ダウンタウンウッチャンナンチャンたちの「お笑い第3世代」が出てきたら、あっという間に人気が失速してコンビを解散。それが1992年、僕が25歳のときでした。そこから、あらためて自分のスタイルを1から創り上げていこうと考えたときに、テレビタレントとしてやっていこうと決めたんです。

もし、僕が「絶対に歌しか歌わない」「お笑いしかやらない」人間だったら、とっくに消えていたでしょう。でも、僕はとにかくテレビの世界で仕事がしたかった。そのために、中学3年のときに必死で親を説得し、故郷の群馬県を一人で飛び出してきたわけですからね。一般に、芸能界を目指して上京して来る人は、オーディションに受かったとか、将来の見込みがあってスカウトされたというのが常でしょう。でも、僕の場合は、誰からも呼ばれず勝手に出て来ちゃったわけだから(笑)、何もなし得ずに、おめおめと帰るわけにはいきません。歌手も俳優もお笑い芸人もイマイチだったけど、「テレビが好き」な情熱だけは誰にも負けない自信があったので、テレビタレントとしてサバイバルして行こうと決めたんです。


「僕はとにかくテレビの世界で仕事がしたかった。そのために、中学3年のときに必死で親を説得し、故郷の群馬県を一人で飛び出してきたわけですからね」

人のやらないことをやる


そう決めてからは、とにかく誰もやっていないことをやろうと考えました。レポーターの仕事にしても、おいしい仕事やカッコいい仕事はすぐに埋まってしまうけど、そうじゃない仕事は意外と空いている。だったら、そういう仕事をすべてやらせてもらおう。そして、ひとつひとつの仕事で結果を出していけば、何らかの答えが出るはずだと。

たとえば、ある番組のレポーターをやって評判が良ければ、次はスタジオに呼んでもらえるかもしれない。そこでさらに評価されたら、スタジオのレギュラーになれる可能性もあるだろう。そんな思いでひとつひとつの仕事に取り組んでいった結果、5年後にはレギュラーが14本まで増えたんです。

その中で、僕が身に着けたのが「等身大」「自然体」のスタンスです。それもまた、当時はまだ誰もやっていない新しいスタイルでした。今でこそ、バラエティ番組と言えば、タレントや芸人さんたちが街中に繰り出して、その場で思いつくままにコメントしていくスタイルが当たり前になりましたけど、僕がテレビタレントになった90年代は、テレビ番組は作り込んでいくのが当然の時代でした。

会議を重ねて、綿密に脚本を練って、台本通りに本番に臨む。そんな常識を破ったのが、92年から約8年間、松本明子さん、飯島直子さんと一緒にレギュラーを務めたバラエティ番組『DAISUKI!』です。

たとえば、飯島さんが「今、家を探しているの」と言えば、番組でも物件探しをしたり、松本さんの結婚が近いときには「じゃあ、挙式をあげられそうな教会を回ってみよう」と、その時々で、自分たちが興味のあることを柔軟に取り上げていきました。当時は「タレントがテレビで遊んでるだけ」って批判もされましたけど、遊ぶなら本気で遊びをやってみる「等身大」のスタイルが、あの番組を通じて僕の基本になったのです。

変わり続けるから、マンネリにならない


おかげさまで、今日まで様々なバラエティ番組やクイズ番組に出演させていただいていますが、テレビタレントとしての僕の強みは何かと聞かれたら、1つの番組を長く続けられることだと思います。現在も、毎週MCを務めている情報番組『シューイチ』は今年で14年目になりました。みなさんが飽きずに見てくださっているのは、等身大の僕が刻々と変わっていく姿を画面でさらけ出しているからだと思います。

『シューイチ』のMCを始めた当初の僕は40代前半。息子たちもまだ小さくて、上の子たちが少年野球をやっていた頃です。番組が終わるとその足でグラウンドに駆けつけて、自分も泥だらけになりながら試合の審判をしたり、息子たちを車に乗せて家まで送り迎えをしたものです。それが、今、56歳になった僕のライフスタイルはまったく違う。25歳になった長男の翔貴は芸能界に入り、次男は大学生、三男、四男はイギリスに留学中で、妻も仕事や趣味で自分の時間を過ごしている。家の中はガラ〜ンとして「今日は犬と僕だけ」なんていう日も珍しくない。(笑)

自分の暮らしが変われば、当然、世の中に対する興味や視点も変わります。自分で言うのもなんですが、だからこそ、何年たってもMCがマンネリにならず、「相変わらず、ヒデちゃんは面白いね」と言っていただけるのではないでしょうか。


『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(著:中山秀征/新潮社)


「自分の暮らしが変われば、当然、世の中に対する興味や視点も変わります」

家族との暮らしが仕事にプラス


つまり、家庭があって、家族との暮らしがあったからこそ、移り変わっていく時代の空気をリアルにとらえることができたんじゃないかと。生活人としての様々な発見や情報を、妻や息子たちから教えてもらったと言いますか。30歳で結婚するまでは、仕事オンリーの人生を突っ走ってきたけれど、妻と一緒になり4人の息子たちが生まれたことで、初めて自分が人間らしくなり、生活者としての視点を持てるようになったのだと思います。

息子たちが小学校を受験するときは一緒に面接の練習に行き、トークがウリの僕なのに、先生から「お父さん、そんな喋り方ではダメですよ。保護者の面接もありますから」と叱られてしまったり。(笑) 

小学校の運動会がある日は、朝の5時から並んで席を取ったこともありました。それまでは芸能界のことしか知らなかった自分が、子どもたちが通う学校の行事に参加したり、PTAのイベントで一般の保護者の方々ともおつきあいをするようになり、世界がどんどん広がっていきました。テレビを見てくださっているのはまさにこうした方々です。視聴者のみなさんの視点や常識がわかったことは、自分の仕事にとっても大きなプラスになりました。

〈後編〉に続く

婦人公論.jp

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