自分たちを信じなければ何もなし得ない──ファンキー宇宙人トージャム&アールとともに激動の米ゲーム業界を生きてきたベテランインディーデザイナーが語る変わったもの、変わらないもの【インタビュー:グレッグ・ジョンソン】

6月19日(水)11時30分 電ファミニコゲーマー

 カルト作、奇ゲー、怪作──。日本では1992年にメガドライブ向けに発売された『トージャム&アール』は、そんな言葉で形容されるアクションアドベンチャーゲームだ。

『トージャム&アール』(画像はトージャム&アールコレクションより)

 地球に落ちてきた“ファンキー宇宙人”のトージャムとアールがおかしな地球人たちに追い回されながら宇宙船のパーツを集める……という“人間が宇宙人を倒す”のではない逆転の発想、ローファイに鳴るブレイクビーツ、そして自動生成マップ&画面分割のローカル協力プレイ対応という20年後のインディーゲームのトレンドを先取りしたかのようなシステム……。

 それは、当時の日本人にとってはファンキーすぎた。しかし、だからこそ遊んだ人の記憶には焼きついた。
 Wiiでのバーチャルコンソール版や、続編とセットになったXbox 360の『トージャム&アールコレクション』などがしっかりリリースされ、21世紀になってもなお消えることなく、スキモノたちを喜ばせてきたのがその証左と言える(海外向けに作られたついでに出ただけかもしれないけど)。

(画像はトージャム&アールコレクションより)

 そう、本国アメリカでは『トージャム&アール』はアメリカ版メガドライブであるところのGenesisを代表する作品のひとつとされており、現に北米版のメガドライブミニでも、堂々と収録作のひとつとしてその名が挙がっているのだ。

 さらに2019年の今年、シリーズ最新作となる『ToeJam & Earl: Back In The Groove』の配信が3月1日よりマルチプラットフォームで開始され、架け橋ゲームズのローカライズにより日本でも発売予定。京都で行われたインディゲームイベントBit Summitにも出展された。

新作『ToeJam & Earl: Back In The Groove』

 30年弱を経てなお地球にファンキースピリットを伝道してきた彼らの歴史は、そのまま家庭用ゲームの歴史とも大いに重なっている。

 「彼らなら、もしかしたら地球のゲーマーが見落とした何かを知っているかもしれない」。

 そう思った筆者は、新作を開発したカリフォルニア州オールバニーのHumaNature Studiosに向かい、トージャムとアールの生みの親のひとりであるベテランゲームデザイナー、グレッグ・ジョンソン氏に話を聞いた。

グレッグ・ジョンソン氏

 話は、1980年代のキャリア初期のころに始まり、トージャムがソニックの代わりにセガの顔になるかもしれなかったというファンキーな逸話から、ジョンソン氏のゲーム開発哲学、そして業界サバイバルの秘訣までたっぷり2時間にわたって展開された。

 これは単なる『トージャム&アール』の話ではない。アメリカは北カリフォルニア・ベイエリアのゲーム産業を見続けてきた大ベテランの目を通した歴史の話でもあり、自分たちが生み出したキャラクターとファンにいま一度背を押されることになって、過去に自分たちが何を成し遂げていたのかを知ることになったクリエイターの話だ。

 電ファミの人気シリーズ“ゲームの企画書”では日本の名作の原点が振り返られるが、これはそのころ、海の向こうで起こっていたもうひとつの物語なのである。あのときベイエリアで、何もないところからどんな風にゲームが作られていたのか、その空気を感じ取っていただければ本望だ。

取材・文/ミル吉村


誰もがインディーだった80年代

──さて80年代に戻りましょう! 調べた限りでは、あなたの最初のゲームはバイナリーシステムズという小さなスタジオによる『Starflight』(1986)というゲームです。どうやってキャリアをスタートしたんですか?

『Starflight』

Greg Johnson(以下、グレッグ)氏:
 僕はUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)の学生で、コミュニケーションについて研究していたんだ。イルカやクジラ、あるいはエイリアンと話せるようになるのが当時の夢だった。
 知性や言語や思考の仕組み、コンピューターサイエンス、認知心理学や動物行動学といった領域に興味があったんだけど、それをすべてカバーするようなコースはまだなかった。そこで僕は指導教官と一緒にそれらをまとめた専攻を自分で作ることにして、生物言語学専攻ということにした。

 現在ではいろんな大学で実際に生物言語学コースが設けられていて、言語哲学や計量言語学なんかでも学位を取得できると思うけど、当時はまだそうじゃなかったんだ。まあとにかく、そうしてでも思考や言語をシミュレートしたりその働きを理解したりすることに魅了されていた。

 そしてそのときのルームメイトがAtari 800を持っていた。ようやく家にコンピューターゲームがやってくるようになったばかりのタイミングだ。
 それ以前のゲームと言えば『スペース・インベーダー』(1978)や『Pong』(1972)やベクターグラフィックスの『Space Wars』(1977)【※】といったもので、それらはバーやボーリング場で遊ぶものだった。だからこれは大事件だったわけさ。寮の部屋でそれを見たときはとても興奮した。

※Space Wars……1962年のPDP-1『Space War!』にインスパイアされた、ラリー・ローゼンタールによる1977年のアーケードゲーム。ベクタースキャンによるグラフィックが特徴で、1982年にはVectrexにも移植されている。
(画像はSpace Wars – Videogame by Cinematronicsより。(C) 1995-2019 by WebMagic Ventures, LLC, The International Arcade Museum (R), Museum of the Game (R). All rights reserved.)

 そのちょっと前、僕は『Rogue』(1980)に熱中したこともあった。というのは僕は自分で作った専攻の中にプログラミングの授業を組み込んでいて、フォートラン【※】の授業に出ていたんだ。フォートランって何か知ってる?

※フォートラン
1954年に考案された、世界初のコンピューター用高級言語。

──もちろん。

グレッグ氏:
 例のパンチカードやカードリーダーを本当に使っていたんだよ。作業していたカードの山を落としちゃうと順番がわからなくなって「やっべぇ」みたいなさ。

 まあそんなわけでコンピューターに触れる機会があったから、小さいがらんどうの部屋で毎晩午前3時ぐらいまで、白黒のターミナル画面で『Rogue』を遊んでいたんだ。
 全部ASCII文字で表現されたダンジョン探索ゲームだよ。原始的だよね。1981年とか1982年のことだったと思う。でもそれは僕のイマジネーションを捉えて離さなかった。寝ずにプレイしまくったよ。

『Rogue』

 さて話を戻すと、このAtari 800を持っていたアレックス・ケルチョという友だちが、プログラマーとして関わろうとしているゲームを見せてくれたんだ。それは『Starflight』という名前だった。
 めちゃくちゃ興奮したね。僕は「うおお、エイリアン! エイリアンのゲーム作ってんの? それやりたいんだけど。僕の夢はエイリアンと話すことなんだよ。それでキミがエイリアンのゲーム作ってるってヤバいじゃん。加えてくれない? ねぇ!」って感じだったな。でも彼の答えは「うーん、もうほとんど完成してるから、悪いけど助けはいらないな」だった。

 ……もちろん「ほとんど完成してる」なんてことはなく、しばらくして実際にはちゃんと始まっているかさえ怪しいぐらいだったことがわかった。誰もゲームを作ったことがなかったんだよね。
 パブリッシャーのエレクトロニック・アーツ(以下、EA)側でもどういう状態なのか把握していなかった。「誰かの友だちがEAの誰かと知り合いで……」ぐらいの関係で決まった話だったんだよ。『Starflight』は、EAのものすごい初期の製品のひとつだ。

 そんなぐだぐだな状態だったわけで、僕はベイエリアに飛んで、そのグループを率いていたロッド・マコーネルと話をつけ、ジュニア・デザイナーとしてプロジェクトに参加することになった。

『Starflight』

 プロジェクトには別のデザイナーがいたんだけども、同じくゲームをデザインしたことはなかった。彼にはゲームをどうするかのビジョンがあったけど、僕がこうあるべきと考えたものとは違った。
 彼のアイデアにはあまり脈絡がなく、エイリアンとのランダムな遭遇にはあまり意味があるわけでもなかったし、単にたくさんの戦闘と彼の専門のボードゲームのダイスロール的なランダム要素があるだけだった。

 それで僕は「いや、ちゃんとストーリーがあったほうがいいでしょ。エイリアンの独自の文化とか歴史上の関係性とかミステリーとかそういうのがあるから、この宇宙を冒険しようって感じになるんじゃない」といった感じに、自分のアイデアを語った。
 チームはすぐに“僕のバージョン”を気に入って、その男、ジムは「わかった。そんじゃ辞めるわ。じゃあな」と去っていった。というわけでカレッジからやってきた僕は、この時点でリードデザイナーということになっちゃったんだ。変な話だよね。

──まあなんというか、会社の仕事というより、いまで言うインディースタイルですよね。

グレッグ氏:
 ほんとそうだよ。というか実際、いまのインディーよりもインディーだと思う。最初のインディーだからね。誰もゲームを作ったことがなくて、とりあえずやってみるしかなかったんだ。「こんな感じでいいかな?」、「うーん、いいんじゃん」、「ランダムに生成される宇宙ってのはどう?」、「あーどうなんだろ、やってみよう」ってね。

 あるいは「エイリアンに生態系を持たせるのは?」とか、「コミュニケーション要素は? 種族によって友好的・中立・敵対的だったりして、こちらの行動によって反応が変化し、それを手がかりに推測して、時には情報を得るために友好状態を目指さないといけないみたいな……」なんて、いまならそれがどう機能するかはわかるよね。
 でも当時は何もないところから思い付くしかなかったんだ。

 ときには無知がうまく作用することもあるんじゃないかと思う。というのは前例あってもそれがなんなのかさえ知る由もないので、思い付くことに限界がないからね。
 いまの若い開発者はよくやっていると思うけど、でもその発想がある“箱”の中に制限されていたとしても、そのことに気がつくのは難しい。だって「それがゲームだ」って中で育ってきたんだから。当時はそんな箱がそもそもなかったから、ゲームはどんなものにもなり得た。

 これはレトロゲームムーブメントのひとつの隠し味じゃないかと思う。楽しんでいる人々は、当時のゲームを見て、いかに創造的だったり、変だったり、あるいは多様性があるかを目にしたりして面白がっているんだと思うんだけど、それらが生まれたのは、当時はゲームに対する先入観がなかったからだと思うんだよね。

 いまそうするのは、たぶんなかなか大変だよ。たとえば僕の息子は『二ノ国』『ゼルダ』などいろいろなゲームをやっているけども、どのゲームもだいたいこう、用意されたストーリーがあって、A地点からB地点に行って、障害とチャレンジがあって、戦闘があって、パワーアップしてアビリティを集めて、戦闘中の選択肢やどのキャラと戦うかが増えたりして……という感じで、彼らはそれこそがゲームだと思っている。

 でも皮肉だけども、そうじゃない。それは任意にそうなってきただけだ。そう作られてきただけ。
 僕らは自分たちが作ってきたものを「ゲームとはこういうものだ」と同時に思い込んでるだけなんだ。

──ああ、それはなんとなくわかります。いまは参考にできるものが山のようにありますが、アクションゲームの前例があまりなければ、どんなアクションがそのゲームにあるべきか、そもそもアクションがそのゲームでどんな意味を持つのかまで考えなければいけないかもしれません。

グレッグ氏:
 そうそう、そういうこと。これはいろいろなことに言えると思う。人類としてそういうものなんだと思う。僕らは何かをしようというときにパターンを見つけがちで、それはもう知っているものから見つけているわけで。

 だからというわけではないけども、僕はどうも「ゲームはどんなものにもなり得る」という理想を手放さないところがあるね。誰も考えついたことのないことをやることに燃えるし、これはゲームについてだけじゃなくてインタラクティブ体験の設計というレベルでも言えると思う。それが言葉遊びでもね。

 勝利条件とかゴールとか障害とかレベルアップとか、それがゲームだと我々が思っているものについてだけじゃなく、インタラクティブ体験としても、感情的な繋がりや表現とか、もっといろいろなまだ見ぬ可能性があるんじゃないかな。
 ……えーと、すごい脱線しちゃってゴメン。

──いや、そういう話が聞きたかったんで、いいんですよ!

グレッグ氏:
 それなら良かった。『Starflight』の話に戻ろう。また脱線しすぎって思ったら止めてよ。

『Starflight』の思い出

グレッグ氏:
 そんなわけで僕は『Starflight』を友だちのグループと作ることになり、それは非常に思い出として強く残るものだった。何もかもが新しい経験だったからね。そしてそれはキミが言ったように、いろんな意味でとてもインディーな体験だった。

 家具もないアパートの部屋の床で寝泊まりしていて、僕の周りには紙に描かれた宇宙が広がっていた……完成までには3年かかり、そのあいだに10回は開発中止になりそうだった。完成までいくつもの問題があったんだ。
 EA側のプロデューサーのジョー・イバラは、僕らが開発を続けられるよう戦ってくれた。プロジェクトをキャンセルしたい人だらけの中でね。

 僕自身、あのプロジェクトが完成するなんて信じられなかった。ちゃんと動くかすらわからなかったから。
 誰かがゲームをちゃんと最後までプレイできたことはとても大きな出来事だったのを覚えているよ。僕らが作っていてそれができると思ってなかったんだから。

 そしてゲームがついに発売されることになったんだけど、対応機種をAtari 800から変えることにした。そのころにはPCマーケットが成長していたから、IBM PC向けに切り替えたんだ。
 でもEA内部ではそれでいいのかという議論が巻き起こっていた。多くの人が「PCはゲームをするものじゃない。ゲームじゃなくて仕事をするものだろう」と言っていたんだ。「だから出すべきじゃない」ってね。

 いま振り返ればはっきりわかるとおり、それは誤りだった。そして『Starflight』は最初のプラチナを取ったゲームになった。
 当時のプラチナが何本を指しているかは忘れたけども、市場の注目も集め、アドベンチャーゲームのひとつの到達点を示すことができた。
 僕としては、ある種のジャンルを定義付けるゲームになれたと思う。その後いろんなスペースゲームが出たしね。『Star Control』(1990)とか、あるいは最近なら『Mass Effect』とか『FTL』とか『No Man’ Sky』とか……。

 でも「自分がこの流れを作った」なんて言うつもりはないんだ。当時もいろんな宇宙のゲームはあったわけだし……。

──まあでも初期の宇宙を題材にしたゲームの代表作のひとつ【※】ではありますよね。

f※宇宙探索ゲームで言えば、1979年に『Star Raiders』や、1984年の『Elite』などがあるが、物語性のある宇宙探索ゲームは、『Starfilght』が初。

グレッグ氏:
 そうだね。そういった作品のもっとも初期のひとつと言うことはできると思う。とはいえ『スター・トレック』からの影響とかもすごく大きいんだよ。そして僕らは『Starflight 2』に移ることになって……。

──『Caveman Ugh-Lympics』(1988)は?

『Caveman Ugh-Lympics』

グレッグ氏:
 それは『2』とのあいだにあったな。確かに僕はちょっと手伝った。
 あと『Star Control』も手伝った。ポール・リッチー(ポール・ライヒェ)はEAに僕より先にいた最初期のゲームデザイナーで、いまはフレッド・フォードとToys for Bob【※】というスタジオを経営している。彼が手掛けた『Archon』(1983)はチェスみたいなボード上で戦うストラテジーゲームだった。

 彼は僕にとってのヨーダのような師匠で、『Starflight』でどうやってゲームを作ればいいかわからなかった僕にたくさんのアドバイスをくれた。だから彼がToys for Bobを共同設立して『Star Control』を作るときにお返しで開発を助けたんだ。オフィスをシェアしていて、階の反対側って感じだったからね。そんな感じで8年ぐらいは関わった。いい思い出だね。

──Toys for Bobって言ったら、いまや超でかいスタジオですよね。

※Toys for Bob
サンフランシスコのすぐ北、ノバートに構えるベイエリアのスタジオ。『スカイランダーズ』シリーズが有名。

グレッグ氏:
 ははは、何百万ドルものね。そういう話だったらもうひとつ、ちょっと時代は跳ぶけども、エヴァン・ウェルスは知ってる? 彼はノーティ・ドッグの経営者だけども、スタンフォード大学でインダストリアルデザインで学位を取った彼を最初に雇ったのは僕だよ(笑)。
 僕の下で彼が関わったのが『ToeJam & Earl: Panic in Funkotron』、『トージャム』シリーズの第2作で、彼はレベルデザインを手伝ってくれた。

 その後、クリスタルダイナミクス(後にアイドス・インタラクティブと提携し、『トゥームレイダー』シリーズの開発スタジオになっている)に行って『ゲックス』に関わって、それからノーティ・ドッグで『クラッシュ・バンディクー3 ブッとび!世界一周』とか『ジャック×ダクスター』シリーズを手掛け、あとはご存知のとおりだ。

 あとは友だちのティム・シェーファー(元ルーカスアーツで、ベイエリアを代表するスタジオDouble Fineの代表。先日のE3にてマイクロソフトの傘下に入ることが発表された)とかね。彼がルーカスアーツを辞めてスタジオを始めたころにはすごく近所だったからよくつるんでいた。
 うまくやっていけるか不安そうだったからいろいろアドバイスしてね。そして彼は見事うまくやった。すごく面白い男でユーモアのセンスが昔からあったよ。そんなわけで面白いことに、僕はいろんな人を見てきた。

※ベイエリア業界のドン、ティム・シェーファーは2018年のBAFTA(英国アカデミー賞)でフェローシップアワードを受賞している。

──なぜベイエリアがこれだけのゲームの歴史を築けたんだと思います? スタンフォード大学があったからでしょうか?

スタンフォード大学。左の尖塔は大学のランドマークである、フーバータワー

グレッグ氏:
 それは面白い質問だと思う。「これだ」という明確な答えはわからないけども、スタンフォードの存在はいい推測かもしれないね。でもLAでも同じことは起こり得たと思う。
 僕としてはある程度の偶然と慣性のような働きじゃないかなあとも思う。EAみたいな大きい会社が成功すると、いろいろな人を呼び込んできて、その人たちがまた独立して近いところで会社を始めたりするでしょ。
 まあシリコンバレーにコンピューターのチップ企業なんかがあったこととかも、何らかの関係があるだろうね。コンピューター関連の教育が発達すれば、そこからキャリアも生まれてくるわけで。でもあまり考えたことがなかったな。


セガのマリオになりかけた

──では話を戻しましょう。その後『Starflight 2』が1989年に出て、1991年に『トージャム&アール』です。

グレッグ氏:
 オーケー、『トージャム&アール』をやろうと思った理由のひとつは、楽しいことをやりたくなったからなんだ。『Starflight』も『Starflight 2』も楽しいけど、大きくて複雑なゲームだった。そしてどちらもPCゲームだったということもある。90年代初めには家庭用ゲーム機が伸び始めていた。PCゲームを何年も作ったあとで「おお、これなら簡単そうで、もっと楽しそうだ」と思ったんだね。
 それでいくつか市場に出ていたゲームをチェックしてみて「よし、これならやれんだろ」という感じだった。もちろんそのあとで見た目より複雑だということが判明するんだけども。物事ってのはいつもそんなもんだよね。

 でも楽しかったよ。僕らは音楽にめちゃくちゃ力を入れ、それこそが『トージャム&アール』らしさを生み出した。
 当時の僕はストレスを発散したかった、遊びたかったんだ。だからいっぱい音楽があって、バカなことがいっぱい起こって、わけのわからないことがいろいろ起こるようなゲームになっている。それは当時の僕がそういうモードだったからなんだ。

 もちろんゲームの方向性を決めたのは僕だけじゃなくて、当時の共同経営者であるマーク・ヴォーサンガーと一緒に作ったものだ。ふたりだけのオフィスで一緒にあれこれやって作っていくのはいい時間だったな。
 僕はゲームデザインとアートとエンジニアリングをやって、それから音楽をやってくれたジョン・ベイカーやマーク・ミラーなど何人かを雇った。いくつかの曲では僕自身も曲を書いたり歌ったりしてジョン・ベイカーに渡したよ。本当に楽しかった。そうしてスケジュールと予算内で仕上げることができた。まさに作りたかったようなゲームになった。

 そしてそんなに売れなかった。みんなこのゲームに困惑したんだ。
 実際、日本では出ないと言われたこともあった。「これはアメリカ的すぎる、日本の市場では理解されないだろう」ってね。友だちから聞いて日本で発売されたって知ったのは何年も経ってからのことだよ。そこにあるメガドライブのカセットはこの前スタッフが日本に行ったときに秋葉原で買ってきてくれたものだ。実際に目にするってのはいいもんだよね。

 でも一方でこんな話もあった。トージャムとアールがセガのマスコットになるかもって話があったんだよ。
 ソニックはまだギリギリいなかったからね。開発が終わる直前に「キミらのキャラクター、セガのマスコットになるかもしれないから。Genesisの箱に印刷されることになるだろう。要は僕らのマリオになるんだ」って言われた。

 当時のセガ・オブ・アメリカの人々、ヒュー・ボウエンとかスコット・バーフィールド、ティム・カリンスキーやマデリーン・カネパさえも『トージャム&アール』を気に入っていた。……少なくともそう言っていた。
 豊田信夫【※】もヘッド・オブ・プロダクト・デベロップメントとしてその場にいて、彼も『トージャム』ファンだったんだ。

※豊田信夫
現Unity Technologies Japan代表取締役会長。三菱商事からセガに入り、セガ・オブ・アメリカ時代は副社長まで務めた。

 あとは面白い話だと……スコット・ローディって知ってる? SIEワールドワイド・スタジオ アメリカのシニア・バイス・プレジデントだけども、すごく面白くて情熱があり、フレンドリーでいつも笑顔の、あまりお偉いさんには見えないタイプなんだ。
 だけど、僕が『Doki Doki Universe』をプレイステーション4で出したときに会ったら、「うわぁ! 知ってますか? 僕はセガのテスターからキャリアを始めたんですけど、『トージャム&アール』のテスターもやっていて、このゲームはこうすべきだってすごく長いフィードバックを書いたんですよ! それを受け取りましたか? 読みましたか?」ってすごい勢いでね(笑)。

 相手がプレジデントだから「うーん、たぶん違うかな? ちょーっと覚えてないな」って言うしかなかったんだけど、まあ彼もテスター時代を覚えてるぐらいにはファンだったわけだ。うれしいよね。

 さてこの話にオチをつけると、僕らはセガのマスコットになれるというオファーに大変興奮していたんだけど、ある日電話がかかってきて、「トージャムではなくなった、この青いカリカリしてるハリネズミがマスコットになる」と言われ、後日ソニックの初期のアートワークも見せてもらった。

 僕は「ホントに? 彼は友好的に見えないし、なんでこのキャラクターをマスコットにしたいの?」って思ったんだけども、まあ結果がどうだったかは言うまでもないよね。ゲームは良かったし、僕もソニックのゲームをすごく好きで遊んでいた。
 でも羨ましかったなあ! しばらくは「ちくしょう、もうちょっとだったのに!」ってイライラしていたよ(笑)。

──(笑)。

※安原弘和氏、大島直人氏による、ソニック・ヘッジホッグに関するGDC2018の講演。グレッグ氏の話の裏で、当時日本ではどうソニックが始まっていったかが語られている。

グレッグ氏:
 さて、『トージャム&アール』は先ほど言ったように、最初はあまり売れなかった。でも少しずつ少しずつ、普通のゲームとはちょっと違う動きを見せ始めたんだ……。

 ローンチからすぐにちゃんと売れるゲームは、「マーケティングが最初からうまくいっている」とか、「すぐにどんなゲームかわかりやすい」といった条件があると思う。「ああ新しいレースゲームだね」とか、『ベアナックル』なら「戦うゲームなんだね」とか。

 でも『トージャム&アール』は、「えーと……これは?」という感じになる。遊んでみて、体験してみないとなかなかわからない。
 理解にちょっと時間がかかるゲームだ。それはソフトの動きにも現れていて、セガは「うーん、これじゃ駄目だな」と見切りをつけ、全然違う2作目を要求してきた。

『トージャム』2作目が横スクロールになった理由

『トージャム&アール2』
(画像はトージャム&アールコレクションより)

グレッグ氏:
 そのころ、じつはすでに続編に取り掛かっていて、3ヵ月か4ヵ月が経っていたと思う。もうプレーンなステージを歩けるようになっていて、新機能もあった。家の中に入れるとか、氷と雪のステージとかもあってね。でもそれらは全部捨てることになった。
 「いやサイドスクロールのゲームが欲しいんだ」と言われたからね。まあお金が出るなら仕方がない。僕らのベストを尽くそうということになった。

 それで『ToeJam & Earl in Panic on Funkotron』(1993)は、サイドスクロールだけど探索の雰囲気があるものを目指すことにした。基本的に右に向かって行くゲームでどうやって探索している感じを出すのか、面白い挑戦ではあった。

紹介が載った当時の雑誌

 それとふたりのキャラクターをどう画面の中に表示するかもね。別々の方向に行き始めたらどうしよう? 結果的には、別々の方向に向かうとスクリーンの端を押し合うことにしたんだ。
 そして体が大きいアールがいつも勝ち、トージャムは引きずられていく(笑)。

 探索についてはいろいろなアイデアにたどり着いた。茂みや木を覗くとか、水中に行くとか、バブルに乗って飛んでいくとか、雪を滑るとか、キノコで跳ねるとか。
 そういった要素をいろいろ入れていくことで、単にジャンプとシューティングだけにしないようにしたんだ。そういうゲームは当時いっぱいあったからね。

 そして大きな風変わりなキャラクターがいてストーリーを語れるということの長所を活かそうともした。「彼らの母星を見せられるじゃん!」って興奮したね。
 彼らの星・ファンコトロンにいる友だちや家族を紹介してストーリーを展開できる。

 さて面白いことに、この続編についてはゲームが全然違うので多くの人が混乱した。最初のゲームを気に入っていた人からは「なんで変えちゃったんだ!」って声も多かったし、逆に続編から入った人はコレはコレとして楽しんでくれた代わりに、最初のゲームがピンと来なかった(笑)。
 いまだにオンラインフォーラムで「どっちがいいか」って議論を見かけるよ。たまに両方好きって人もいるけどね。

 いま振り返ってみると、あれだけ違うスタイルのゲームにしてしまったのは間違いだったと思う。僕らはうまくやったと思うし、悪いゲームではないけども、続編としては間違っていた。
 というのはね……続編が出るころには『トージャム&アール』が成功していたからなんだ。「じゃあ変えることなかったじゃないか」と思ってもあとの祭りだったのさ。

 『トージャム&アール』はアメリカだけでなく、どうもユーモアのセンスが合ったみたいでUKでも成功を収めた。3番目にうまくいったのはブラジルだ。
 ブラジルではメガドライブが強かったというのもあると思うけど、ブラジルのトージャムファンはいまでも多い。

当時の雑誌に載ったトージャムマンガ

──そのころ、シリーズの権利は自分たちで保持していたんですか?

グレッグ氏:
 うん、権利自体はいつでも僕らが持っていた。記憶している限りでは契約上セガに権利が移ったことはないと思う。当時セガ・オブ・アメリカは始まったばかりで15人だか20人しかいなくて、そういうことをまだそんなにやっていなかったんだ。確かそういったものを処理する自前の弁護士もいなかったんじゃないかな。

 IPを渡すか保持するかというのは、どっちがより強く権利を持っておきたいかの“てこ”のようなものだ。もちろんできることなら誰もが権利を持っておきたいし、彼らも持っておきたかったけど、どちらかと言えば欲しいのは(シリーズの権利そのものより)オリジナルのキャラクターだった。

 僕とマークが知っていたいい弁護士は「それなら権利まで渡さなくても大丈夫ですよ」と言っていて、セガ・オブ・アメリカのヒュー・ボウエンも話のわかるすごくいい人で、「ならそれでも大丈夫。君らはこのユニークなキャラクターに労力を注ぎ込んできたからね」という感じだった。

──それでも出資は受けていたんですよね?

グレッグ氏:
 そう、セガが開発費を出していて、すべてのマーケットで独占的な権利を持っている。彼らはIPは持っていないけど、現在でも制作物に対しての権利は有していて、よく「新作にシークレットとして初代のゲームが遊べるとかどうですか?」とか「ついでに再リリースしてみては?」とか聞かれるんだけども、それは僕らが決められることではないんだ。開発したものについてはセガが権利を持っているから。

 だからこの新作でもオーディオなどは再利用ではなく再録音している。音素材と言えば、さっき言ったように『トージャム&アール』は僕とマークでインディースタイルで作っていたもの。
 僕らの“収録スタジオ”と来たら小さなテープレコーダーだった。

 みんなが帰った後のオフィスで叫んだり歌ったりして録ったもんさ。日中はそんなことできないからね。
 声素材はそうやってみんなが帰るのを待ち、ひとりで「ブギブギブギー」とか「アローハー」とか言って録ったんだ。

 それでね、この新作を作るにあたって声優を雇ってちゃんと録ろうかと思ったんだけど、いくらかのファンは「いやそうじゃない。またあなたにやってほしいんだ。 あれをまた聞きたいんだ」という感じだったので、またやるハメになったのさ。フラガールはさすがにキモいんでやめたけどね!
 ローファイな感じがチャーミングに聞こたりするのが良かったのかも。これはドット絵にも通じるかもね。

 ……なんの話をしてたんだっけ? 『Funkotron』か。売上だけで言えば『トージャム&アール』と同じぐらいには売れたんだけども、あまり記憶に残るものにはならなかった。
 まあそれもわかるかな、『Funkotron』は当時のほかのゲームにより近いものだったから。いずれにしても、みんなの記憶に残ったのは最初のほうなんだ。

多様性を尊重し、敬意を表し、祝したい

グレッグ氏:
 そしてふたつの『トージャム』のあと、セガは彼らのライトガン“Menacer”のための小さな作品を依頼してきて、僕らは『Ready, Aim, Tomatoes!』(1992)というゲームを2ヵ月か3ヵ月ぐらいかけて作った。Menacer対応ゲームの中ではいちばんいいデキだったと思うよ!

Menacer
Image By David Quach, CC BY 3.0, Link

 その次にやったのが『Orly’ Draw-A-Story』(1997)だね。ジャマイカンの女の子オーリーが出てくるクリエイティブ系の作品さ。

──これはゲームなんでしょうか? それとも教育系ソフト?

グレッグ氏:
 どちらでもあるかな。ゲームというよりも、絵を描くとそれが彼女のお話の中に出てきてアニメーションするというもので、ブローダーバンドから出た。あの会社はなくなっちゃったから、いまはどこが権利を持ってるかわからないけど、子どものクリエイティブな発想をサポートするインタラクティブソフトということでいろいろ賞をもらったよ。

『Orly’ Draw-A-Story』

 僕の母は学習障害児をサポートする学校をやっていたから、このソフトには誇りを持っている。学習障害を持つ子の中には自閉症傾向のある子がいたりするものだけど、『Orly’ Draw-A-Story』はそういった子どもたちにとても好まれたんだ。
 描いているあいだにオーリーがそれに反応して「オレンジは私も好きなの! すごくよく描けてるね!」とかいろいろ話しかけてくれるのに刺激されるみたいだね。

 オーリーを演じたAlreca Whyteはジャマイカ出身のレゲエシンガーで、ジャマイカ言葉のパトワを使っていて、僕がセリフを書くときにも彼女がアドバイスして助けてくれた。

 それで……この国の人々は人種についてとても繊細だから、たとえばアフリカ系アメリカ人のキャラクターを出すときには、それが攻撃的でないよう注意しなければいけないことがある。皮肉なことに問題のあるキャラクターがいるときに最初に火が着くのは白人だったりするんだけどね。

 オーリーもトージャムもアールも黒人系キャラクターというのは共通していて、たとえばアールたちは「Yo, What’ up」って挨拶するよね。白人でもフッド(界隈)で育ったりするとそういう話しかたをすることもあるけど、基本的にはヒップホップやラップと同じく、これはブラックアメリカンの文化にまつわる話しかただ。

ソフトの説明がなされている『Orly’ Draw-A-Story』のパッケージ内部。

 それでね、当時オーリーやトージャムたちを見たブラックアメリカンは「やっと自分たちみたいに喋るキャラが出てきたなんて、いいじゃん」という感じだったんだ。僕自身かなりリベラルだから、ジャマイカとかほかの文化へのリスペクトを込めたいと思っていた。
 でもオーリーを見て「え、彼女がちゃんとした英語を話さないのはどうなの? バカだと思ってるの?」って人もいたんだよね。

 僕らとしては「いや、これはジャマイカではこう話すもんなんですよ」という感じだったんだけども、ブローダーバンドが「これはまずいことになりました。ちょっとこのままだとマーケティングをするのは厳しいです」となったことがあったね。

 同じようなことは『Doki Doki Universe』(2013)でも経験した。これはロボットがいろいろな文化の入った世界を巡り、「ニンゲンとは何か」を学んでいくというもので、ある場所では誇りを知り、別の星では嫉妬を知り、さらに別のところでは愛について知る、といった感じなんだけども……レビュアーたちが書いていたのは「アフリカの世界の人がロボットを知らない! 開発者は黒人は馬鹿だと思ってるの?」っていうようなことで……。
 それは話の一部ではあるけど、ほかのことには言及してくれなかったんだよ。文化や人種の多様性をゲーム世界で表現するのがいかに難しいか……たまにがっかりさせられることがある。

 でもね、この業界にいるものとして、ゲームにもっと人種の多様性を持ち込みたいと思ってやってきたんだ。格闘ゲームにヒスパニックのキャラがいるとか、黒人のキャラが銃を持って出てくるとか、それは全然十分じゃない。
 男も女もだ。もっとちゃんといろいろな文化にアイデンティティーを与えて、尊重して、敬意を表し、祝したいんだ。

 僕はユダヤ人と黒人のハーフ。母はロシア系ユダヤ人で、彼女の両親は第二次世界大戦中にロシアから逃げてきた。僕自身、ヘブライ語教室に通ったもんさ。
 一方で父は黒人で、兄弟たちはもっと黒人っぽい。

 それで……非難しようってんじゃないんだよ。白人の男がゲームを作ってることが多いんだから、白人の男についてのゲームにもなろうってものさ。
 大きなお金が絡む業界でもあるから、保守的になることもあるだろう。最近はセクシーなら女性キャラのアクションゲームも増えてきたりもしている。

 でもね。人種のことに限らないけども、僕はもっと幅広い人類に興味があって、ゲームをもっと人間的なものにしたいと思っている。
 それは『Doki Doki Universe』のテーマに繋がっているし、このスタジオがヒューマネイチャーという名前である由来でもある。僕は人間そのものと、人々を繋ぐこと、そして人間的な体験に興味があるんだ。でもそれはこの業界でお金が絡むとなかなか難しい。

日本のデコメールを見て思いついた“Deko Deko-Mail”

──ここまでのキャリアで、ゲーム開発者としてのリリースが途切れる時期が何度かありましたけども、“サイレントモード“のあいだは何をしていたんですか?

グレッグ氏:
 サイレントモードというわけではなくて、生活のためにいろいろやっていたんだ。出資を得られていたらもっとゲームを作っていたと思うよ。ububuというサンフランシスコのスタートアップや、ePlanetという会社でクリエイティブ・ディレクターをやったりもした。

 ePlanetは惜しかったな。ちょっと早すぎたんだ。
 EyeToyのようなものにだいぶ早くに挑戦していたんだけど、Webカメラが普及するのはだいぶ先のことだった。とくに自分が深く関わったもので言うと、“Freeblenux”というバーチャルなエイリアンキャラクターがいて、カメラを通じてインタラクティブにコミュニケーションするというものだった。かなりいい具合にまで持っていけたんだけど、まだ技術面で不足があって、理想的な環境ではうまくいくけど一般家庭では微妙だった。

 ゲームデザインのコンサルティングもいろいろやって、Leapfrogで教育系のゲームをコンサルティングするのは楽しかった。「こんな技術があるんだけど、将来的にどう使えばいいと思う?」と聞かれて知恵を振り絞ったり、そんな感じのことをやっていたんだ。

 Facebookのメッセンジャーアプリで“Deko Deko-Mail”というのをやったこともある。もちろん元ネタは日本にいたときに見たデコメールね。
 「うわ、これはアメリカにはないぞ」と思ったよ。いまやWhatsApp【※】にもiPhoneのアプリにもあるけど、当時は小さなスマイルマークぐらいしかなかったから。なかなかクールなものができて、いろいろな単語に反応するようにして、それをタイプするとアニメーションを提案してデコれるというものだったんだけど、たくさんの戦略的なミスをしちゃってね。
 僕がやってきたたくさんのビジネスとお金のミスのひとつだ。Facebook上のアプリじゃなくモバイルで出しておくべきだったね……。ただ結果的にはそれが『Doki Doki Universe』に繋がってくれて、ソニーの出資であのゲームを作れたわけだけども。

※WhatsApp
10億人超が利用する、世界最大のスマートフォン向けインスタントメッセンジャー。2014年にFacebookに買収されている。
日本のLINE、韓国のカカオトーク、中国のWeChatなどは世界的に見るとかなり偏ったシェアとなる。

──ディズニーチャンネルのTV番組にも関わってるんですよね?

グレッグ氏:
 『Choo Choo Soul』ね! これは当時息子が4歳ぐらいだったんだけど、子ども向けの音楽にいいものが全然なくて、The Wiggles【※】ぐらいが精一杯だった。それで息子は列車が大好きだったんで曲を書くことにしたんだ。

※The Wiggles
1991年に結成されたオーストラリア出身のバンド。子ども向けの楽曲を歌う。メンバーの入れ替えなどを経て、現在も英語圏の国で人気を博す。

 ボーカルのGenevieve Goingsは『ToeJam & Earl III: Mission to Earth』(2002)で声をやってもらったのが縁で知り合ったんだ。
 彼女は当時は保険会社のテレフォンオペレーターとして働いていたんだけど、ゲームにゴスペルシンガーのキャラクターがいたもんだから「シンガーだって聞いたけど、今度はこのセリフ歌うようにやってみてくれない?」って言ってみたら、見事なゴスペルを披露してくれてね。それでもっと歌ってもらえるようにキャラクターを変えた。

 そんなことがあって、息子のために列車テーマのキッズCDを作れないかと思い立ち、彼女にお願いすることにしたんだ。そうして彼女のキャリアが始まって、LAに引っ越してディズニーの番組をやることになったってわけさ。


『トージャム』を復活させたのは、人が人と遊んだ記憶

──いまのスタジオである、HumaNatureのスタートの経緯は?

グレッグ氏:
 スタジオは2006年に設立したんだけども、『ToeJam & Earl: Back in the Groove』をやり始めたのは2015年で、結構な間隔がある。そもそもの最初はコナミの出資でニンテンドーDSのゲームを作ろうというところから始まったんだ。
 のちに『Doki Doki Universe』になるDeko Deko-MailとDeko-Deko Quizのさらに前身となる、『What’ Your Type』という実際にはリリースされなかったゲームだった。

 これは性格診断のような要素のあるゲームで、AIキャラクターたちが過ごしている世界に入っていき、その中でした行動や選択によって性格を分類するというものだった。スタジオの中を見てのとおり、僕は日本の文化が好きなんだけど、このゲームは日本の市場でうまくいくんじゃないかという思いもあった。それは僕の夢でもあったんだ。

※『Back in the Groove』日本語ローカライズ発表のときに筆者が撮ってもらった日本語メッセージ映像。インタビューの収録時、氏はベイエリア在住だったが、現在はハワイに拠点を移している。

──『Doki Doki Universe』を経て、あらためて『トージャム』のゲームに挑むことになった経緯は? パッケージでフルプライスのゲームを出す以外にダウンロードの市場ができたり、いろいろ環境が変わったわけですが。

グレッグ氏:
 そういったことも関係しているね。より安い小さなゲームを出せるようになり、AAAじゃなくても良くなった。あとはクラウドファンディングで開発費を集められればパブリッシャーが要らないとか。それまで何度か『トージャム』の新作の資金を得るためにパブリッシャーを回ったりもしたんだけど、どこも「いやー、あれは終わったでしょ」という感じだった。だからクラウドファンディングと、ある種のレトロムーブメントが来ていたことも重要な要素だったと思う。

 『Doki Doki Universe』が終わったあと、僕はとても疲れていて、家族と一緒にフランスや沖縄に旅行したんだ。沖縄は本当に暑かったけどすごく良かったね。それでまた何かやろうという気分になった。

 『トージャム』の新作を求める声はそのときもあったから、「じゃあKickstarterでテストをしてみよう」と考えたんだ。十分に成功できたらそれは待っている人が十分にいるということで、そうでなかったら終わったと言ったパブリッシャーの人たちが正しくて、もう『トージャム』のゲームを作っても仕方がないってことだ。

 どっちなのかはやってみないと本当にわからなかったけど、結果としてラストでギリギリクリアーすることができた。終盤に僕の友だちたちのおかげでいいPRができたのが効いたかな。

※グレッグ氏をはじめ、Toys for Bobのふたりやティム・シェーファー氏ら大御所たちがバカをやっているkickstarter告知ビデオ。

 それからフォーラムやメールやFacebookでファンとよりコミュニケーションするようになり、『トージャム&アール』がどれだけの人に意味のあるものなのかに気付くにつれ、モチベーションがどんどん高まっていった。それまでは知らなかったんだ。

 というのも、言ってしまえばただのゲームでしかないからさ。ところが当時のほかのゲームとは全然違っていて、協力的で、明るくて、誰でも遊べて、それが家族や友だちや兄弟などの人々を繋げていたんだ、ということに気が付けたのはすばらしかった。
 ファンは『トージャム&アール』というゲームそのものだけじゃなく、みんなと遊んだことを記憶していてくれたんだ。いろんな思い出を聞いたよ。亡くなってしまった人との泣かせる話とかもね。

 「多くの人に向けてものを作るということは、自分が想像し得ない形でも人々の人生に影響を与えられる」というのはいい教訓だ。それだけに責任を持ってやらなきゃいけないということを思い起こさせてくれた。

 ゲーム業界にはいろいろな議論があると思う。「ゲームの中の暴力」とかね。
 ゲーム開発者として反暴力の立場を取るのはあまり一般的ではない。「やりたいようにやれますよ! 自由に暴れてください!」って言うほうがかっこいいしさ。ただなんだろう、それはある種の可能性を殺しているようにも思える。

 ゲームの中の暴力は文脈があるなら別に問題ない。僕は『World of Tanks』(2010)をよく遊ぶし、『Age of Empires』(1997)も好きだった。
 異なる文明が激突すれば戦いにもなるさ。それが「やだな」ってわけじゃないんだ。文脈があるからね。『ソウルキャリバー』とか『デッド・オア・アライブ』もよく遊んでいた。格闘技も好きだし、これらのゲームはいろいろなスタイルを投影して、美しくパワフルに描いていると思う。

 だからこれは、そこに込められたスピリットの話だ。いまは心の中の暗いところに連れて行くようなものが多いよね。
 そういったゲームは、ポジティブさとか、インスピレーションとか、愛とか、光とか笑いといった僕が大事にしている物を世界に届けない。

 男性中心的な業界だからなんじゃないかと思うこともある。僕らはテストステロンやアドレナリンといった成分の化学反応で動いているからさ(笑)。
 だから女性の開発者が増えるのは歓迎だ。もっと人間的で、より幅広いやりかたで世界と関わるような、もっとポジティブなものが増えるといいと思う。

──最新作『ToeJam & Earl: Back in the Groove』が最初のゲームと似た構成なのはそういったファンからの反応も理由ですか?

グレッグ氏:
 1作目の本当の続編を届けられなかったことが大きいね。2本目も3本目もスタイルが違っていて、ファンは最初の『トージャム&アール』の経験を再び得たいと思っていた。「初代のスピリットをもう一度届ける」のを究極のゴールとするのが最初にした約束だった。

──最初の『トージャム&アール』の資料を見せてもらったときに、いまのゲームのように読めてすごく面白かったんです。「暴力を中心にしない」とか、「ローカルなCo-opプレイで一緒に遊べる」とか、「マップがランダム生成で何度も遊べる」とか、いまのインディーのある種の先取りじゃないですか。しかもこれは1991年で。

グレッグ氏:
 言われてみると確かにそうだね。そういった要素はまだあまり存在しないか、あるいは一般的ではなかった。インディーの時代が来て、みんなが再び実験的になったのが大きいと思う。

 それから、『ToeJam & Earl: Back in the Groove』の話をしているうちに『トージャム&アール』の話になってくるというのはいいね。それは目指したことのひとつだから。
 「The Proof is in the Pudding」(論より証拠)という言い回しがあるけども、クローズドβテストをやったときにも「これは『1』みたいだ」って聞いた。でもコアなファンじゃない人もそう言っているのを聞いたときに、「僕らはうまくやったのかもな」と思ったんだ。

──もうひとつ、初代と『ToeJam & Earl: Back in the Groove』の共通する面白い部分として、異星人の視点から地球が描かれるということが挙げられると思います。
 そしてこのゲームでは、異星人は地球人を攻撃しません……トマトを投げつけますけれど。普通はエイリアンが地球人を攻撃しますよね。このゲームでは地球人がエイリアンを攻撃してくる。

グレッグ氏:
 視点を変えてみると見えてくるものがあると思うんだ。それで、自分のキャリアと作ってきたゲームを振り返ったとき、「あ、同じことをやってきたんだな」って気付いたことがあるんだよね。同じようなテーマを中心に据えてきたんだなと。

 それは最初のほうで話したような、僕らがどのように思考し、我々はなんなのかと大学で学んできたことや、『Star Flight』、『Star Flight2』なんかとも繋がってくる。

 ネタバレになるけども、このゲームには大きなストーリーがあって、最後で「人間が悪者だ」というのがわかる。人類を救うために燃料を燃やして宇宙を飛び回っていたけど、その燃料は人類のずっと前からいたケイ素生物だったというのが判明する。
 これまで砕いてきた岩や燃料として燃やしてきたそれらは、単に人類からするとめちゃくちゃ動きが遅いだけで、彼らは自分たちを守ろうとしていたんだというのがわかるんだ。

 そして離れたところから俯瞰すると、『トージャム&アール』も『Doki Doki Universe』も同じなんだよね。プレイヤーはアウトサイダー、あるいは人間性を探し求めるロボットだったり。
 たぶんそれは実際作っているときには気付いていない、パワフルなものなんだと思う。

 いま作ろうと思って開発を始めているゲームも、詳しくは話せないけどそういう部分がある。だからまあ、こういったテーマにとらわれているんだと思う。「僕たちはなんなのか、別の視点から見返す」ということに。

※2019年5月末には“ファンキーテレソン”と題した長時間イベントが配信され、本当に本作のファンだというマコーレー・カルキン(『ホーム・アローン』ほか)や、プロレスラーのケニー・オメガなどが登場。どこまでマジなのか冗談なのかがわからないファンキーな内容が繰り広げられた。その一部始終はYouTubeでも公開されている。

インディーに必要なのはきっとうまくいくんだという本当に前向きな態度

──ところでゲーム中でキャベツが酷い扱いですが……なんでキャベツが嫌いなんですか?

グレッグ氏:
 いや、キャベツは好きだよ! あれは腐ったキャベツね。でも『トージャム&アール』で「どうしてこれを入れたんですか」ということはよく聞かれるんだ。なんでワイズマンはニンジンのスーツを着ているのかとか。サンタとプレゼントとか、腐ったキャベツとか。

日本語版『トージャム&アール』の取扱説明書

 でもとくに理由はないよ! 単にそう思いついて面白いと思ったからで。食事については、当時バクバク食べてたものが入ってるんだ。
 前は食生活が結構ひどかったから、肉ばっかり食べたりしていた。アイスクリームもよく食べていたね。それで人が食べたいものをゲームでも食べたいだろうと思ったから、自分がよく食べていたものが『トージャム&アール』でもいい食べ物として入っていて、「うーん、これはな」っていうのが悪い食べ物として入っているんだ。

 いまはもっとヘルシーな食生活になってるから、オーガニックフードがすごくいいものとして入ってるんだよ(笑)。まあ大きな理由はないよ。

──ゲーム開発者として、80年代や90年代といまの違いはなんだと思いますか? たとえば開発のやりかたとか、アップデートとか。

グレッグ氏:
 それは大きな質問だね。すぐに思い付いたものだと、いま言ってくれたものが確かにあると思う。80年代や90年代なら、ゲームを作って出荷したらもう終わりだ。それはもう変えられないし、フィードバックを得ることすら厳しかった。自分のゲームが良かったのか悪かったのか、書かれているのは雑誌ぐらいだよね。それもショップに行くしかなかった。

 時代は変わり、あらゆる情報がオンラインで流通するようになり、アップデートやダウンロードコンテンツやパッチの機会ができた。完成しただけじゃ開発は完全には終わっていない。
 それはよくも悪くもある。あらゆることにいい面と悪い面があるようにね。

 開発者としては、パーフェクトじゃなくてもいいというのはナイスだ。でも昔の「完了」が本当に完了を意味していて次に移れたのも良かった。
 いまは終わりが来ない。サポートはある程度やり続けないといけない。

 開発そのものについてだと、開発ツールはとても進化したよね。UnityやUnreal Engineを誰もが使えるようになった。
 おかしいのは、1988年に、もし同じ質問を「2018年にこんな感じになっていた。どう思いますか?」って聞かれたら、「うわー、それは開発がめちゃくちゃ早く楽になるだろうなぁ!」って言ったろうね。「いまは1年かかるけど、2018年なら1ヵ月で1本作れそうだ!」って。

 でもそれは大きな間違い。ゲーム作りは依然として大変だ。
 ツールはよくなったけど期待値も上がった。インフレみたいなもんだよ。もっとお金を稼げると思ったら、もっとお金もかかるようになり、大変なのは変わらない。ゲーム作りは大変で、疲れて、なんだったらより厳しくなってもいる。なぜならより複雑になって、ハードルは高く、やらなきゃいけないことは増えたから。

 昔はもっとシンプルだったからね。当時が大変だったのは「ゲームをどう作ればいいか」が誰もよくわかっていなかったし、ツールもなかったから。
 『トージャム&アール』を作ったとき、プロジェクトの終盤はコンパイルするのに1時間かかっていた。バグ修正をひとつするたびに、それがうまくいったのか確認するのに1時間待たなきゃいけなかった。「これじゃ駄目だね、ほかを試してみよう」のひと言でもう一回やり直しだ。

 それは簡単ではなかったけど、ある意味いまよりは楽だったとも言える。いまはいくつもの選択肢、いくつものツール、いくつもの期待があって、よりゴールにたどり着くのが難しくなった迷路のようだ。
 昔の制約は、ある部分ではよく働くこともあり、どのみちシンプルにせざるを得なかったからさ。

 「未来がどうなるか」と考えたことがそのまま実現するとしたらおかしいよね。「いまから30年後、2048年にゲーム開発はどうなっていると思いますか」って聞かれたとして、答えが間違っていることだけはわかるよ。

2002年のインタビュー記事。左がグレッグ氏

──では逆に違いではなく、同じ部分があるとすればそれはなんでしょう? たとえば考えかたとか……。

グレッグ氏:
 それはあまり変わっていない……いや、これは難しい質問だな。自分の中ではそこまで変わってないと言えるんだけど、自分のことしか知らないからさ。
 自分としては1990年代もいまも同じようなテーマで、ただその時々に変わるツールで、インタラクティブなストーリーや、キャラクターとの感情的な繋がりといった同じコンセプトを追ってきたわけだけど。

 かといってゲーム開発者の多くが、こういったやりかたをするわけではあまりない。彼らは彼らのやりたいものを作るわけだけど、それはライフタイルの違いもあると思う。
 正直に言って、市場に合わせることで得られるお金や生活も大事だしね。言い換えると、僕はそこまで稼ごうとしてなかったか、単に金儲けが下手なわけだけども(苦笑)。

 それはともかく、自分以外の人についての「変わっていないもの」を答えるのはとても難しいよ。設計とかチームで働くことについてならば同じだと思うけどね。
 開発環境で起こる数々の問題とか、のしかかってくるプレッシャー、チャレンジの明確化と乗り越える過程、ほかの人からの異なるアイデアとどう向き合うか、あとそれぞれのエゴとか……そう変わってない。それが変わることはないだろうと思う。

 モバイルやマルチプレイやVRやAR、インディーの勃興によって、表現のより幅広い機会が得られるようになっていて、ニッチなものでもやっていける道は増えたと思うけど、ただゲーム業界は混雑しすぎてもいる。

 ひとつ大きな違いがあるとすれば、それは人が増えすぎたことによって、より製品の比重が大きくなって、“人”は軽くなってきてしまったこと。かつてはパブリッシャーと関係を築いたらクリエイティブパワーとして尊重してくれて、80年代や90年代ならゲームが完成したら「次は何を作ろうとしてるの?」というのが最初の質問だった。

 いまはそういうことは起こらないね。いくつもの人、いくつものツールがあって、誰もが製作途中のデモを持ってるから、パブリッシャーや投資家はまずはこっち、次はあっちと飛び付いていくだけだ。

 まあそれは理解できる。理解できるんだけど、その副作用として、人から製品中心にフォーカスが移っていると思うんだ。
 それは開発者として長期の関係を築くことを格段に難しくして、かつてよりも開発をより不安定にしていると感じている。出したゲームが1本で何億も稼いでくれれば別だけど、それは一部のケースだからね。

──では、インディーとしてサバイブするためのアドバイスはありますか? 30年以上やってこられたわけですが。

グレッグ氏:
 ははは、確かに35年ぐらいは生き延びてきたね。でも何か言えるかな? 自分自身ずっと、いつもギリギリ切り抜けてきただけだったりするから。ああ、でも思い付いたぞ。

 それは、信じることだ。信じることなしには何も成し得ない。
 「きっとうまくいくんだ」という本当に前向きな態度だ。どうなるかわからなくて、無理に思えても、「なんとかなるさ」と信じることだ。

 それができないならインディーゲーム開発者としてやっていくのはオススメしない。なぜなら「こりゃうまくいかないよ」って感じるときが何度もやってくるからね。
 僕は本当にたくさんの人たちが去っていくのを見てきた。

 でも、もしその態度を保つことができるなら、キミは答えを見つけ出す力を得るはずだ。同時に、そう感じるためのエナジーがないこともあるだろう。
 だから自分の周りにそう信じられる人を持つのも重要だね。そういう人が周りにいるのは、時に頭のいい人や能力のある人よりも大事なんだよ。

 会社はこういったことをあまり理解しない。単にスキルで雇ったりすると思うんだけど。
 でもいまの業界の状況を見るに、人柄やそういった資質は少なくともスキルと同じぐらい大事だと思うね。それが僕が言えることだと思う。(了)


楽しかったというプレイヤーの想い出がゲームを蘇らせる

 いかがだったろうか? 日本で「『トージャム&アール』の〜」と言って伝わる人は相当のマニアだろうが、じつはグレッグ氏は、北米のゲーム開発者として知る人ぞ知る隠れた大物。筆者も取材していて、途中で続々と飛び出してきた名前に思わず面食らった次第(なんせ雑談中に「シュウちゃん」と気さくに呼ぶ相手が誰かと思ったら、SIEワールドワイドスタジオの吉田修平氏だったりする)。

 なお同氏は現在ハワイにHumaNatureの拠点を移した後、新作としては本文中に登場した『Star Flight』の続編『Star Flight 3』のほかいくつかのプロジェクトに取り掛かっている。

 それにしても、ソニックの代わりにトージャムたちがセガの顔になっていたかもしれないとなれば、運命の妙という奴はなかなかファンキーなものだ。ともすれば『トージャム&アール』がいまごろ実写映画になっていたわけで、だったらそれがどんなことになっていたのか、恐る恐る見てみたくもある(もっともそういう話になっていないかもしれないが)。

 話を戻そう。結果だけを見てしまえば、トージャムとアールはソニックにはなれなかった。それでも彼らに込められた人間への興味やウキウキとした気分は人々に伝染し、ゲーム体験がそれぞれの記憶に残り、それが結果的に何年も後にシリーズを蘇らせることになった。そして決して商業的に成功したとは言えない日本でも、遊んだ人に「ファンキー」という未知(の感性)との遭遇を焼き付けた。

 ゲーム作りを乗り切る秘訣は「信じること」だとジョンソン氏は言う。ゲームによって人を楽しませ、よりよい何かや新たな可能性を人にもたらす。それは日本でも海外でも変わらないんじゃないだろうか。

グレッグ氏の車のナンバーは、TOE JAM1だった
『ToeJam & Earl: Back In The Groove』公式サイトはこちら『Star Flight 3』公式サイトはこちらHumaNature Studios公式サイトはこちら

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