がんセンター名誉総長、がんで妻を亡くした悲しみと後悔

6月21日(金)16時0分 NEWSポストセブン

がん治療の権威、垣添忠生さん(撮影/矢口和也)

写真を拡大

 垣添忠生さん(78才)は長年にわたって日本のがん政策をリードしてきたがん治療の権威だ。だからこそ、「人はがんを克服できない。共生を目指すべきだ」という言葉に、特別な重みがある。上皇陛下のがん治療にあたった。自身も大腸がんや腎臓がんを患った。最愛の妻をがんで亡くした。がんと向かい合い続けた“求道者”が語る「がんと生きる方法」——。


「毎朝5時に起きて、1時間スクワットなどトレーニングをした後、朝食を作って食べています。妻を看取ってから10年以上、こんな生活を続けています」


 穏やかな表情を浮かべながら朝の日課について語る垣添さんは、その人生のほとんどを「がん治療」に捧げてきた。


 1967年に東京大学医学部を卒業し、泌尿器科医として勤務しながら、がんの基礎研究にも携わる。1975年からは国立がんセンター(現・国立がん研究センター)に勤務し、中央病院長や総長を歴任し、現在は名誉総長を務める。2003年には上皇陛下の前立腺がんの治療にも携わった。


「私自身も大腸がんと腎臓がんにかかった経験がありますし、妻は肺がんで亡くなりました。その時は『がんに負けた』という無力感と最愛の人を失った悲しみで立ち直れないほどでした。今や2人に1人ががんにかかる時代です。がんにまつわる問題は、他人事ではありません」(垣添さん・以下同)


 垣添さんの最愛の妻・昭子さんがかかったのは、発育が早く、転移しやすいといわれる肺の小細胞がんだった。


◆家はこうでなくっちゃ


「妻はその前にも甲状腺がんと肺の腺がんを患ったことがありましたが、どちらも治りました。だから最初に小細胞がんが見つかった時、妻は『今度もあなたが治してくれるんでしょ?』と言ったんです」


 ふたりが出会ったのは、垣添さんが26才の時。まだ研修医だった。昭子さんは垣添さんがアルバイトをする病院に関節炎の治療のために通っており、担当医として言葉を交わすうちに惹かれ合っていった。


「聡明かつ闊達な女性で、話していてこの上なく楽しかった。出会ってから1か月もしないうちに『この人と結婚したい』と強く思うようになりました」


 しかし周囲は大反対。なぜなら、昭子さんは垣添さんよりも12才年上で、既婚者だったからだ。


「すでに別居中でしたが、まだ籍は入っている状態でした。両親や親族の反対を押し切って、駆け落ちのような形で始まった結婚生活でした」


 その日から昭子さんは医師として朝から晩まで働く垣添さんを支え続けてきた。


「妻はどんな時でも、私が研究者として、医師として仕事に打ち込み、責任を全うできるよう、全力で助けてくれました。出張や泊まり込みで家を空けることも多かった私が、やっと定年を迎え、これからは時間にゆとりができるからふたりで旅行をしたり絵を描いたりして過ごそう、と語り合っている時に発覚したのが3度目のがんだったのです」


 2007年2月に小細胞肺がんと診断され、抗がん剤や放射線による治療を受けたが、同年10月の検査で転移していることがわかった。


「治る見込みのない厳しい状況であることを、妻は冷静に受け止めていました。その後も、もう一度抗がん剤治療を受けましたが、残された時間が少ないことは本人がいちばんよくわかっていたように思います。


 回復の兆しがないうえに副作用もきつく、『治療を受けているのはあなたのため』と言われたこともありました。がんの専門医である私の立場をおもんぱかった発言だったのでしょう。もう少し早く、抗がん剤の治療をやめてあげればよかったという後悔は、今でも残っています」


 冬になると、昭子さんの病状はさらに悪化した。


「がんの専門医という立場から見ても、妻が死に近づいていっているのは明らかでした。12月に入ると、背中と下半身の浮腫がひどくなり、起き上がるのも難しい状態になりました。そんな中で、何度も繰り返したのが『年末年始は家で過ごしたい』ということ。これは『わが家で最期を迎えたい』という妻の切なる願いだったのです」


◆地獄の日々が開始した


 妻の“最期の願い”を叶えるべく、垣添さんは在宅用の医療機器や医薬品を準備し、12月28日に昭子さんは自宅に戻った。


「住み慣れた家で過ごすのは、病院の白い壁に囲まれるのと全く違うのだとよくわかりました。起き上がれないはずの妻が、こたつに入ってくつろいでいる。しかも、薬の副作用でひどい口内炎を患い、ご飯を食べられない状態のはずなのに、私が作ったあら鍋を『おいしい』と2杯もおかわりしました。『家ってのは、やっぱりこうでなくっちゃ』とニコニコする姿を見て、連れて帰ってきてよかったとあらためて思いました」


 住み慣れた家で過ごした昭子さんは、垣添さんに見守られながら4日目の大みそかに息を引き取った。78才だった。


「不思議なことに、ずっと意識がなかった妻が心肺停止の直前に体を起こして、私の目を見て、手をぎゅっと握ってくれました。『ありがとう』と伝えたかったのだとわかりました。最期に心を通い合わせることができたのも、家でふたりで過ごせたからだったのではないかと思います」


 しかし、ここからが地獄の苦しみの始まりだった。


「年が明け、これまで通りがんセンターに出勤し、仕事の日々が始まりました。勤務中は仕事に没頭しているから忘れられるのですが、ひとり家に帰ると、妻がいないことを痛感します。子供もおらず、いつもふたりで、“ツーカー”の仲でしたから、話し相手がいないのが何よりもつらかった」


 玄関に並んだ靴やクローゼットにあるスカーフ。妻の遺品が目に入るたびに涙があふれ、酒をあおる日々。


「ウイスキーや焼酎を、毎晩ロックで4〜5杯は飲んでいました。そうしないと、眠ることができなかったのです。当然、食欲もなく、体力も筋力も落ちていった。“自死できないから生きている”という状態でした」


 そんな生活は3か月続いた。


「悲しみが癒えることはありませんでしたが、その一方で『この生活を妻が見たらなんと思うだろうか』 『いくらなんでもこれはひどいな』と考えられるようになってきた。時を同じくして、お寺の住職さんから100日法要をすすめられたことも、ひとつの区切りになったと思います。少しずつ、運動をしたりご飯を作ったりするようになり、徐々に回復していきました」


※女性セブン2019年7月4日号

NEWSポストセブン

「がんセンター」をもっと詳しく

「がんセンター」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ