私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと

6月23日(土)11時0分 文春オンライン

【大山くまおからの推薦文】

 僕がどうしても星野仙一さんについて語っていただきたかった方に代打をお願いしました。1986年、星野監督と少女投手が大活躍して中日ドラゴンズが優勝する小説『勝利投手』を発表し、センセーションを巻き起こした梅田香子さんです。現在はスポーツライターとして活躍する梅田さんに、間近で見た星野さんの素顔について書いていただきました。


◆ ◆ ◆


 1987年1月、九州の串間キャンプではじめてフグを食べた。星野仙一監督は鍋奉行でフグの白子を器に取りながら、「これ食うと妊娠するぞ」なんて猥談ばかりだった。この手の話題は尽きないが、セクハラはなかった。女性キャスターの草分け、田丸美寿々さんがいい、とよく言っていた。好みというだけで、男女の仲だったわけではない。


「女とこじれそうになったら、石だよ。石(宝石のことらしい)を買ってやれ」


 と若手に説教していた。筆者は横で聞いていただけで、誰からも買ってもらった経験がない。筆者が10代後半だった頃、火の玉みたいな投手が好きで、「星野新聞」という手書きのミニコミ紙を作っていた。突然の出会いだった。星野さんはそれを面白がり、自宅に電話をくれた。


 まだ現役を引退してまもなく、「資金はだすぞ。本気でやってみなさい」と言われた。首相官邸の裏あたり、旧近衛邸と隣接した来栖邸は、3階建のビルに建て替えられたばかりで、星野さんの個人事務所は当時そこに置かれていた。


 星野夫人は慶応大学卒の知的な美女で、旧姓は来栖扶沙子さん。ヒトラーやルーズベルトと通訳なしで交渉した来栖三郎大使の孫にあたる。かつて五輪招聘や戦争回避に尽力し、敗れた祖父が遺した文書は、英語やドイツ語が多かった。吉田茂や近衛文麿との私信も英文がまじり、ゾルゲのメモも。


「ゾルゲて誰や?」「週刊文春で手塚治虫が『アドルフに告ぐ』を連載していて、出ていました」「ちょっと本屋で買ってきてくれ」。私がメモを訳すと、星野さんはこう言った。「これは俺が死ぬまで誰にも言うなよ」


 星野監督が生前、家族の写真を異常に嫌がったのは、これと無関係ではあるまい。



今年の1月に亡くなった星野仙一さん ©文藝春秋


星野さんのプロポーズ秘話


 川上哲治と星野監督とは蜜月の師弟関係だった。が、これも古の縁がある。


 戦時中、川上氏は立川航空学校の教官だった。来栖家の一人息子は米国シカゴ生まれのハーフだったので、しょっちゅう顔の形が変わるほど殴られた。川上少尉もその例外ではなく、来栖家では「職業野球のスターらしいが……」と恨まれていた。それでなくとも、官僚一家の娘が野球選手と結婚した実例がなく、星野さんは扶沙子さんにプロポーズしたものの、説得に時間がかかった。


「僕は川上監督の巨人軍を負かします」


 というセリフが決め手になったそうだ。


 ゴルフで接戦になると、星野さんは昔話をもちだし、「川上さんはどうしてこう、意地悪なんでしょうかね」「うー、いや、星野君、あれは本当に私が悪かった」という具合に、川上氏のパットを乱した。



星野さんが一度だけほめてくれたこと


 1986年、戦後生まれとしては初の監督就任。同年、私は「星野新聞」に連載した小説「勝利投手」で賞をいただき、小説の中で星野監督はすでに優勝監督になっていて、東映でアニメ化された。浜松の秋季キャンプを訪れると、「大切なのは心と体の体力だ。ライターだってそうだろ」と励まされた。


 鉄拳制裁。あの頃は問題視されるどころか、社会全体で奨励されるような風潮だった。昭和の指導者や父親は教え子や自分の子をよく殴ったものだ。ストレス発散はもっぱらカラオケの替え歌で、参謀の島野育夫コーチは「浪速恋しぐれ」の「惚れた男のでっかい夢がある」を「惚れた星野」に替えたバージョンが定番。乱闘で監督が退場になった夜も、「嵐を呼ぶ男」の替え歌「乱闘を呼ぶ男」を合唱していた。


 シーズン終盤になると星野監督は、


「あかん、選手たちがパンツのゴムひもみたいだ。どんなに怒っても勝てなくなってしまった」


 と嘆いた。星野監督は一人でいる時間は大リーグ中継を見ていて、「Number」と「週刊ベースボール」は隅々まで読む。なので、私は同誌に原稿を書くときは、いつも星野さんを読み手として強く意識した。


 折しも米国では80年代から90年代にかけて、大リーグの監督として活躍した“喧嘩屋”ビリー・マーチンの時代は終わり、フィギュアスケートの世界ではケリガン殴打事件も起きて、体罰や暴力が排除されつつあり、指導者たちは急激な意識変革を余儀なくされた。巨人軍が手本としたドジャース戦法も方向転換していった。


 私は取材と原稿をとおして、新しいムーブメントを星野監督に伝えたかった。若い世代の心をつかみ、育てるのは、もはや体罰ではない、と。大リーグの視察や新外国人の獲得の際のトラブルや家族調査など、星野監督との接点は途切れなかった。


「監督がな、あんなに野球を知っている女は他におらんと言うとったよ」


 と第三者は言ってくれたが、現実は叱られてばかり。例外は一度だけだ。野茂英雄がドジャース入りしたとき、日米のマスコミと衝突がたえなかった。


「マイケル・ジョーダンと野茂をあわせたい、と思うのです」と話したら、星野さんは強い口調で、「いいじゃないか。やってみろ」。これは後でほめられた。「ようやった。おまえな、ホントにようやったよ」


 実は当日、自分で段取りしておきながら、野茂をロッカーに導くとき、足と声が震えた。ジョーダンが左手を私の背中に回してくれたとき、ふと「わしは手が大きすぎて、キーボードで文字がうてんのよ」という星野氏の言葉が浮かんだ。そして、感じたのだ。星野さんは野球界全体のことに視線を向けているのだな、と。



 闘いの場では魂をこめて真剣勝負だ。四大を出ていない筆者は「星野大学」で学んだようなものだ。仕事に着ていく服は今でも襟がないと「これは監督に叱られるな」と落ちつかない。今でも眼をつぶると、「こんばんは、星野です」という最初の電話の声がして、がはは、という笑いが耳底によみがえる。


 縁とは奇妙なものだ。米国でスケートのコーチになった筆者の娘が、来栖三郎のひ孫を指導しはじめた。「グラングランパ(曾祖父)は短気でよく怒ったけれど、正義感と家族愛が強いシカゴ総領事だった」と聞いているそうだ。


 星野さん、なぜ扶沙子夫人が添い遂げたのか、少しわかりましたよ。


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(梅田 香子)

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