私がW杯日本代表を応援しない超個人的でチンケな理由について

6月25日(月)17時0分 文春オンライン

 2018年のワールドカップで、サッカー日本代表は決勝トーナメント入りを目指して健闘中だ。初戦のコロンビア戦には、格上の相手であるにもかかわらず2-1で勝利。6月24日夜(日本時間)のセネガル戦は引き分けた。次のポーランド戦の試合結果と今後の日本代表の決勝T入りについて、日本中が注目し、応援している。……と、されている。


 ところが、ごく個人的な理由からその風潮に異論を唱えたのが、 『八九六四』 などのバリバリ硬派のノンフィクション作品で知られる中国ルポライターの安田峰俊氏だ。「今回は中国とは無関係ですが」と安田氏が寄稿してきた原稿をめぐり、編集部内のサッカーファンたちは猛烈に反発! 侃侃諤諤の議論の末、ディフェンスを強行突破して掲載に至った“問題原稿”がこちらである。


◆◆◆


青いユニフォームを着た人々の中で居心地の悪さを覚えた新宿の夜


 2018年6月19日夜、私は新宿三丁目で日本語ペラペラの中国人の友人と待ち合わせ、ミニコミや少流通出版物を取扱う書店へ一緒に行って怪しげな政治団体のパンフレットや共産趣味系書籍のラインナップを冷やかしてから、店内で中国語しか通じない中華料理店を2軒ハシゴする楽しい夜を過ごそうとしていた。


 すると、この日はなぜか道端に青いユニフォームを着た連中がゾロゾロと歩いている。歌舞伎町のドン・キホーテの店頭にはこのユニフォームがやたらに並べられ、お客たちが多幸感に満ちた表情でそれを買っている。店内にテレビがある主だった飲食店は、いずれもこのユニフォームを着用したサッカー選手たちを画面に映し出し、誰もが自分の飲食もそこそこに画面に釘付けになっている。


 どうやらワールドカップの日本代表の試合日らしい。しかも、夜遅くに日本が勝ったというニュースが入ると、街はいっそう騒がしくなった。だが、私は日本代表が今回のW杯に出ているのをつい半月前に知った——、というほどこのイベントに興味がない。どうにも居心地の悪さを覚える新宿の夜だった。



6月19日夜、渋谷にて ©共同通信社


30代の日本人男性としては異常なほどW杯に興味がない


 そう言えば、私は高校2年生当時に日本が初出場した1998年W杯の試合もほとんど見た記憶がない。2002年の日韓共催のときは中国に留学中で、隣の部屋の韓国人学生が騒いでいたが、やはり日本のゲームを覚えていない(余談ながら、中国はサッカーのナショナルチームが弱いくせにW杯大好き国家であり、試合がかなり多く中継されている)。


 あとは個々のW杯がいつどこで開催されたかも、日本代表が出場したかどうかも知らない。サッカー選手の名前も、カズとラモスとゴン中山と、中田英寿本田圭佑しかわからない。日本に生息するクワガタムシの種類のほうがまだしも多く挙げられると思う。周囲の人に聞くと、こういう私は30代の日本人男性としては「異常」と言ってもいい人間であるようだ。



 ただし、私はサッカーという競技自体が嫌いなわけではない。スポーツ観戦への抵抗感もない。プロ野球はたまに見に行くし、テレビで相撲やボクシングも見る。チャリティマラソンに参加する友人に心ばかりの寄付を送ったこともある。将来、仮に自分の子どもが小学校の運動会や球技大会に出たりすれば、きっと全力で応援するはずである。


 だが、私はサッカーの日本代表(というか、日本人のサッカー選手)には興味がない。というより、かなり明確かつ自覚的な忌避感を持っている。私は決して彼らを応援する気にはなれず、彼らが自分の国家の誇りを背負っているとも思わない。


 私がそう考える理由は極めて個人的な体験に基づくものだ。



運動音痴少年にとって最大の鬼門だった集団球技


 最初に断っておくが、以下は私の純個人的な100パーセントの私怨による、はなはだケツの穴の小さい恨み節である。私は学生時代を通じて、運動が思い切り苦手な少年であった。


 例えば、中学2年生当時で50メートル走は8.6秒、ソフトボール投げの飛距離は11メートルで、同学年男子約180人のうち体力テストで学年ワースト2位を記録している。4段の跳び箱の跳躍に失敗して右腕を骨折し、その学期の体育の成績が10段階評価で「2」になったこともある。


 そんな私がド田舎の公立中学・高校に通うなかで、最も憂鬱だったのが体育の授業だった。といっても、マラソンのような個人競技は自分がビリになるだけなので構わない。なによりも忌むべきは集団での球技であった。特にサッカーやラグビー、ハンドボール、バレーボールあたりが鬼門である。体力的な問題以上に、精神的に非常にキツかったのだ。


体育の授業で露骨に舌打ちされる


 まず、授業開始直後のキャッチボールやパス練習の段階で、私と組む相手は顔をしかめて舌打ちをする。その後のチーム決めでも、私の顔を見て露骨な不満を漏らすやつがいる。いざ試合が始まれば、彼らは(敵か味方かを問わず)私を思い切り突き飛ばして肘打ちや蹴りを食らわせ、怒鳴りつけてくる。



 そしてチームが負けた場合は、たかが体育の授業にもかかわらず「お前は死ねやカスが」などと全力で罵倒してガンを飛ばし、敗戦に至ったお詫びとして購買のパンやジュースを買わせようとするやつが出てくる。彼らはさらに、たかが球蹴りや球投げの能力にもとづく人物評価を、普段の班決めだの社会科のグループワークだのの日常生活にも持ち込み、しばしば私にマウンティングや威嚇を加えてくる——。


 とまあ、いま思い出すとあまりの理不尽さから20年ぶりに怒りがこみ上げてきたが、これが体育の球技のたびに自分の身辺に多少なりとも発生した出来事である。



一流選手はイジメのような非生産的なことはしないだろうが……


 こういうことをやってくるのは、いわゆる体育会系の連中だ。卓球部員やテニス部員はまだマシだが、バスケ・柔道・野球・ラグビー・ハンドボールあたりの部員には結構ひどいやつがいる。


 だが、なにより最も激烈な威嚇と攻撃を加えてくるのは、私の場合なぜか、必ずサッカー部員であった。学年や学校が変わるたびに個々の相手の顔ぶれは変わったが、サッカー部の規約に「弱いやつは虐待せよ」と活動規則が定められているのかと思うほど、彼らは例外なくそういうことをやる(筆者調べ)。


 重ねて言うが、私は競技としてのサッカーは嫌いではない。だが、W杯の日本代表をはじめとする日本人のプロサッカー選手を見ると「こいつらはかつて私(ほか日本全国の運動音痴少年)に理不尽な差別と迫害を加え、基本的人権を踏みにじってきた連中の最高峰である」という意識が先に立ち、本能的に忌避感と嫌悪感を覚えてしまうのである。


 もちろん、実際のプロサッカー選手には、人格的に立派な方がたくさんおられるはずだ。日々練習に励む全国のサッカー少年にも、優しい心を失わない良い子が大勢いるだろう。本当にストイックに競技に取り組むような人は、運動能力に劣る素人をいじめてドヤ顔をするような非生産的なことはまさかしないだろう。


 だが、理不尽な差別と迫害にさらされた民の恨みは恐ろしい。チェチェン人の多くがロシアという存在について、パレスチナ人の多くがイスラエルという存在について、とにかく大雑把にその属性全体を憎んでしまいがちであるように、私はプロサッカー選手に象徴される体育会系という「種族」自体が、なにはともあれ怖くて憎くて大嫌い——。つまり苦手なのである。


「気高い青色の衣の戦士」に熱狂する人たち



 さて、ひるがえってサッカー日本代表である。いまやTVを見ても街を見ても、圧倒的多数の日本国民は、芝生の上で青いユニフォームを着て走り回る筋肉のついた不動産屋の営業マンみたいな兄ちゃんの集団(注:私の目にはそう見える)が自国の誇りを体現する存在であり、国民の輝かしき代表者であると考え、熱い視線を注いでいるようだ。


 かの、混じり気のない気高い青色の衣をまとった戦士たちは、日本国家と日本民族が持つ一切の正なるイメージを凝縮したサムライの末裔だ。彼らの勝利はわが国家の勝利で、彼らの栄光はわが民族の栄光である。その活躍は日本国民に勇気と感動をもたらし、心地よい酔いへといざなう。ゆえに多くの人たちはサッカー日本代表を熱狂的に応援している。


 念のために断っておけば、私は「日の丸を掲げた群衆の姿から軍靴の足音が聞こえる」みたいな手垢のついた主張をぶつ気はないし、国際スポーツ大会に熱狂する行為がすべて悪だとも思わない。日本代表の勝利を自分自身の勝利だと感じて喜ぶ人たちについても、それはそれで個人の自由なので別にいいと思う。



迫害の歴史ゆえ「想像の共同体」の一員になれない


 近現代の国民国家の性質について、アメリカの政治学者であったベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」であると説明した。私たちが、一面識もない赤の他人の選手たちに自分と共通する属性があると考え、国家という同一の共同体に属する同胞としての意識を抱くこともまた、想像がもたらした幻想に過ぎない。とはいえ、私は現代人の1人として、ナショナリズムが持つこの手の「お約束」自体は、その虚構性は理解した上でひとまず受け入れても構わないと思っている。


 ——だが、例えそうであっても私個人について言うならば、サッカー日本代表を応援したいとは思わない。


 理由は簡単だ。私は過去の差別と迫害の歴史ゆえに、少なくともサッカー選手に代表される体育会系の人たちに対しては、自分と共通の属性を持つ同胞だという意識をどうしても持てないからだ(逆に体育会系の人たちも、私たち運動音痴少年を自分の同胞だと考えたことはないだろう。スポーツマンシップとは、文字通り「スポーツマン」という特定の人たちの間だけで共有される友愛の感情を指す言葉なのである)。



 W杯で青いユニフォームを着てボールを蹴っている人たちは「彼ら」の種族とそのフォロワーたちの代表者かもしれない。だが、私のような人たちの代表者では決してない。なので、私はサッカー日本代表チームを決して応援する気にはなれない。


 ナショナリズムは、互いにある共通の属性を持つと考える人びとをまとめ上げて、その心を力強い連帯感で満たす。6月19日に「日本代表」が勝ったことで、TVや新聞からツイッターにいたるまで、そんな人たちの話題はW杯で一色になった。彼らに対しては、ひとまず「よかったね」とは言っておきたい。


何でもええから、はよ終われ、W杯



 しかしながら、どうか忘れないでいただきたい。この国の社会はさまざまなバックグラウンドを持つ多様な人たちにより構成されており、ある特定のテーマに基づく連帯感からこぼれ落ちる人間も、やはりれっきとした日本社会の一員であるという事実を、である。


 W杯での日本代表の試合はあと何回あるのだろうか。具体的な日程は知らない(調べる気もない)が、どこぞの遠い国で開催中のスポーツ大会に参加する兄ちゃんたちに興味がないだけのことで、自分が祖国ニッポンの社会から排除されたような気持ちを味わう憂鬱な日々が当分は続くらしい。


 彼らが勝っても負けても構わない。何でもええから、はよ終われ、W杯。私はひそかにそう祈っているのである。



(安田 峰俊)

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