「マユ。マユはどこだ!」8人の死者を出したヒグマによる惨劇「三毛別事件」の幕明け

6月25日(火)17時0分 文春オンライン

 1915年の暮れ、北海道苫前村三毛別(とままえむらさんけべつ)の開拓地にあらわれた人喰い羆(ひぐま)は何人もの女性や子供たちを食い殺し、胎児を掻き出し、開拓移民小屋10軒を荒らしまわった。世界にも類を見ないこの食害事件の真相について生存者の証言を丹念に聞き取った元林務官・木村盛武氏によるノンフィクション『 慟哭の谷 』より、悪夢の始まりとなった「第1章 惨劇の幕明け」を全文転載する。


◆◆◆


今まで見たこともないほどの大きな熊の足跡


 北国の山あいは日のさす時間が短かい。ここ北海道苫前村三毛別の奥地六線沢では、11月の初め頃にはみぞれが降りはじめる。そんな寒空の夜がしらみがかったころ、開拓者池田富蔵家の軒端から何やら尋常ではない物音が聞こえてきた。


「風にしては……」


 といぶかる間もなく起こる馬のいななき、激しく壁を蹴りつける音……。


 馬が暴れ出した。動物の勘は鋭い、どうやら熊が出てきたらしい。熊が軒下に吊したトウキビをあさりに出てきたのだ。


 トウキビの被害はわずかですんだ。だが、みぞれでぬかるんだ地面に深く沈んだ熊の足跡をみて、富蔵は思わず息を飲んだ。それは、今まで見たこともないほどの大きな熊の足跡だったからだ。



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 大正の始めころまで、熊の出没は日常の茶飯事であったが、周辺の林内に限られていた。そんな安心感があってか、この熊の出現を富蔵は驚きはしたものの大して気にも止めずにいたのだった。すると20日過ぎの未明、またしても馬が暴れ出した。彼は急いで外へ飛び出してみたが、すでに熊の姿はなくトウキビが束になって落ちているだけだった。2度とも馬がやられなかったのは不幸中の幸いであり、不思議にさえ思えた。


 ——しかし、さすがにノンキ者の富蔵も熊の脅威を身近に感じてだんだん不安になってきた。


「こう何度も熊が現れるようでは、また来るのでは……。なにせ二度あることは三度あるというからな……」



家の軒端で異様な物音がしはじめた


 そして迎えた11月30日。彼は開拓部落のマタギ金子富蔵と三毛別のマタギ谷喜八に張り込みを頼み、熊を迎え撃つ計画を立てた。


 午後8時も間近になると、あたりは真っ暗闇である。そのとき、富蔵の家の軒端で異様な物音がしはじめた。見ると巨大な熊が立ち上がり、軒下のトウキビに手をかけているではないか。ベテランのマタギである谷は落ち付いた仕草で金子を制し「まだ射つな」と目で合図した。ところが気負いたっている金子は、そんな制止は気に留めず銃を発砲してしまった。


 耳をつんざく鋭い銃声が山あいに轟いた。


 しかし、わずか数メートルの距離にもかかわらず、弾は暗闇に吸い込まれていった。


 状況を即座に判断した谷は、素早く二の弾をはなった。すると熊は転げるように林内に消え失せた。


 熊の足跡をたどると、滴った血痕が点々と続いている。仕損じたとはいえ2人は闘志をかきたてられた。だが、この暗闇では追跡しようにも手の打ちようがない。その夜、富蔵はマタギ2人にそのまま待機してもらい、翌朝を期すことにした。



 翌日は未明から気温が下がり、細かい雪がチラチラと舞いだしていた。その中をマタギ2人を先頭にして、池田富蔵と、その次男・亀次郎の4人が追跡に向かった。


「熊はきのうの怪我で遠くへは逃げられまいて……」


 4人の意気は盛んだった。だが、鬼鹿山(366メートル)の三角点近くまで熊を追い詰めたころから小雪は地吹雪に変わり、しだいに激しくなってきた。


「天気までが熊の味方をしてやがる」


 マタギたちは「チェッ」と舌打ちした。


「まず、木の陰に入って吹雪を避けるべ」


 地吹雪のために足跡を見失った4人は、大木の根元で、しばらく様子を見ることにした。しかし天候はひどくなるばかりだ。横なぐりの雪がビシビシと顔にあたり、4人の体はみるみる白く染まっていった。


「これ以上の追跡はかえって危険だ」


 やむなく4人は引き返すことにしたのだった。


 熊はこの日を境にぱったり姿を見せなくなった。



運命の12月9日がおとずれる


 人里離れた開拓部落では、12月ともなれば野も山も一面の雪の下である。河川の通行は一時閉ざされてしまうので、地元部落民は氷橋(すがばし)を作って交通手段としてきた。この氷橋は、丸太を並べた上にエゾマツやトドマツの枝や葉を敷き詰め、その上に雪を盛って踏み固め、更に川水をかけて凍らせ、何段かこの作業を繰り返して頑丈に仕上げるものである。厳寒の北国では、雪解けの3月一杯までこれで十分に橋としての機能を果たすのである。


 方々の部落でこの氷橋が完成するころには、馬橇の鈴音が辺りに響き、交通が一気に繁くなる。秋ころから納屋に眠っていた農作物が、連日のように村の市場に積み出されていくのだ。外部との往来が繁くなるのもこのころからである。氷橋作りは閉ざされがちな僻地農山村の交通には、なくてはならない重要な作業であった。


 六線沢の開拓部落においても、30キロメートルほど離れた中心地の苫前村に出るためには、部落の数キロメートル下流に横たわる本流の三毛別川を渡らなければならない。そこに氷橋を架けるのは共同作業ですすめられていた。1軒から1人ずつ出てりっぱな橋に仕上げるのだ。これは開拓民の男たちが一堂に会する村の大きな年中行事の一つでもあった。


 運命の12月9日は、開拓部落15軒から13人の男衆が出て、三毛別川に比較的近い辻橋蔵の家の裏山で、御料林の役所から払い下げられた橋桁材の伐採搬出作業をする当番日だった。この作業のため、どの家でも婦女や子どもが留守を預かることになっていた。



 その朝、太田三郎も作業の一員として出発の準備をしていた。そこへ、日ごろは後追いなどすることのなかった預かり子の幹雄が、「どうしてもついて行きたいよう」、と駄々をこねて困らせるのだった。「子どもだから駄目!」と言う内妻のマユと、「いいじゃないか、連れていく」と言う太田とで、ちょっとしたいさかいがあった。太田は日ごろからわが子のように幹雄を可愛がり、幹雄もまた生みの親同然に2人になついていた。子どもに恵まれなかった太田夫妻は、幹雄が6歳の時に知人の蓮見嘉七から強引に預かってきたのだった。しかし、いつまでも預かったままにしておくわけにはいかず、来年の春には入学ということもあって、力昼の実家に帰すことになっていた。


 太田家には寄宿人の長松要吉(通称オド)という男がいた。彼はこの日朝早くから、裏山に船のキール(竜骨)材の伐採に出かけ、家にはマユと幹雄の2人が留守を預かっていた。


 8時ころに太田三郎は明景安太郎と連れ立って出合い作業に出るため、松村長助の畠の前を通りかかった。すると、野積みになっていたトウキビの山が食い荒らされ、あたり一面に巨大な熊の足跡が入り乱れていた。だが、2人はそんな様子にもさしたる恐怖心も感じずに、「こんな大物ならさぞかし肉もうまかろう」と言い合う始末だった。出合い作業の一服休みにもこのことが話題にのぼったが、誰一人として不安を抱く者もなく、皆黙々と作業に励んだのだった——。



「マユ。マユはどこだ!」


 寄宿人のオドが山の作業現場から、いつものように昼食のため戻ってくると、なぜか妙に屋内は静まり返っている。囲炉裏の片隅には幹雄が前屈みに座り込み、じっとしたままだ。日ごろ茶目っ気の多い幹雄のこと、狸寝入りだなと思い、オドは大声で幹雄の名を呼んだ。


「おい幹雄、帰ったぞ。早く飯くうべ……。こら、狸寝入りしてもダメだぞ」


——返事がない。オドは幹雄の肩を揺すりながら顔を見た瞬間、ハッと息を飲んだ。


 幹雄の顔の下には固まった血が盛り上がり、しかも喉の一部は鋭くえぐられているのだ。さらに側頭部には親指大の穴が開き、すでに息はなかった。土間には小豆が一面に散らばり、まだ生暖かい馬鈴薯が2つ3つ炉端に転がっていた。


 オドの体はガタガタと震えた。あまりのことに茫然となったオドは、ようやく震える声を張り上げマユを呼んだ。


「マユ。マユはどこだ! オドが帰ったぞ!」


 だが、応えはない。ただ薄暗い屋内には異様な臭気が漂うばかりだった。


 オドは直ぐさま4キロメートル下流の出合い作業現場へと急いだ。走りながらオドは、朝方幹雄のことで夫婦が口争いをしていたことをふと思い出した。自分が家を出てから口争いが再燃し、あげくの果てに幹雄がそのとばっちりを受けてどちらかに殺され、驚いた2人が揃って行方をくらませたのではないか……、という考えが頭をよぎるのだった。


 しかし、出合い作業の開拓民たちが、太田家へ戻ってから状況を調べていて、幹雄を殺したのは熊の仕業であり、マユは熊に連れ去られたらしいことが分かってきた。幹雄の体温と馬鈴薯のぬくもりから、被害は午前10時半前後らしいことも分かってきた。


抵抗しながら激しく逃げ回ったマユ


 空腹を抱えて突如現われた熊は、まず山側の窓辺に吊るされたトウキビを食おうとして窓から部屋を覗いた。これに気づいたマユと幹雄の2人は驚き、大声をあげる。その声に逆上した熊は家の中に躍り込み、炉端の幹雄を一撃のもとに倒した。マユは燃える薪で立ち向かうが、巨大な熊にかなうはずもなく、片隅に追い込まれ撲殺された。薄暗い居間には燃えた薪が散乱し、屋内の隅には柄が折れ血糊に染まったマサカリが落ちている。その血糊の手形やおびただしい血痕からみて、抵抗しながらも激しく逃げ回った様子がうかがえた。どうやらマユはその場で一部食害されたらしく、夜具は、おびただしい鮮血に染まっていた。熊は入りこんだ場所からマユをくわえて連れ去ったらしい。窓枠には頭髪が束になって絡みついていた。足跡は血痕とともに向かいの御料林に一直線に続いている。この経緯の推測に、疑う余地はなかった。



 太田家の被災直後、知り合いの松永米太郎が乗り馬で同家の前を通った。この日は用事もたまっていたので彼はだまって通り過ぎたが、山裾から一直線に血痕が続いているのを見た。獲った兎をマタギが引きずって太田家に入り、一服しているものとばかり思った、という。



「なんとか使者を交替してくれないか」


 雪国の12月は日暮れが早い。午後も3時を回れば太陽はすでに山の端に傾いてしまう。追跡するにはすでに遅く、この日は手の打ちようがなかった。幹雄の遺体を太田家の寝間に安置し、集まった男たちはとりあえず近くの明景安太郎家におもむき夜が明けるのを待つことにした。隣家とはいえ、太田家と明景家は500メートルも離れている。その夜のうちに、太田家の凶報は三毛別部落内に伝わり、近隣は上を下への大騒ぎとなった。とにかく一刻も早くこの事を周辺に知らせ、マユの遺体を取り返し、熊を撃ちとらなくてはならないのだ。


 この地から最も近い羽幌警察分署古丹別巡査駐在所まででも19キロメートル、苫前村役場までは30キロメートルあまり、中間に点在する部落には通信手段などあろうはずもない。ひたすら深い雪道を歩くほかはない。しかし、家族を残してこの遠路を急使に出ようと名乗り出る者は1人もいない。だが、一刻も早く使者を決めなければならないため、クジで決めることに全員の意見が一致した。こうして使者に決まったのは、太田家のすぐ川下に住む中川孫一であった。



 だが中川はなんとしても気が進まない。


「なんとか使者を交替してくれないか」


 と、彼は斉藤石五郎に頼み込んだ。


「それほど言うなら、せめて家内や子どもを安全な場所に避難させてからにしてくれ」


 人の好い石五郎は条件付きで承諾した。


「そのことなら任せておいてくれ。マタギも大勢来ているし、大船に乗ったつもりでいてくれ」


 と中川は石五郎を安心させた。


 10日早朝の五時、石五郎は留守中の妻子のことをくれぐれも頼んで開拓地を発った。夫を送り出した妻のタケは、比較的安全と思われる900メートル川下の明景安太郎の家に、3男・巌と4男・春義を連れて避難した。最初、石五郎一家は最も安全といわれた三毛別分教場に避難するつもりであったが、石五郎が急に使者として出発したので、急遽、避難場所を変えることにしたのだった。「私の股なら肥えてうまいから、熊も食いごろだろうね」


 タケは明景家へ避難していく途中、わざわざ自分の太い股を叩いてみせ、同行した婦人と大笑いした。


 一方、大任を果たした斉藤石五郎は、この翌11日昼近く苫前村の小畑旅館を発ち、妻子が待つ六線沢のわが家に向かっていた。三毛別部落に入って程なく、彼を迎えたのは、あまりにもむごい妻子受難の知らせであった。その瞬間へなへなと雪上に崩れ伏した斉藤は、声を限りに号泣した。



胸に大きな白斑を交えた全身黒褐色の巨大な熊


 一方開拓部落の男たちは、三毛別から駆けつけた若者と合わせ30人あまりの捜索隊を作り、10日午前9時ころから連れ去られたマユの遺体を捜しに、雪深い林内に熊の足跡を追った。長柄の鎌を手にした三毛別の河端甚太郎を先頭に、マタギの金子富蔵、宮本由太郎、谷喜八、千葉幸吉、加藤鉄士ら銃手5人が従い、次いで刃物などの武器を手にした山本仁作ら20人ほどが3班に分かれて続いた。


 新雪の林内は歩きづらいことこの上ない。時折樹上から落下する雪にも全神経を尖らせながら、捜索隊は慎重に150メートルほどゆっくり進んだ。すると、やや小高い場所にそびえるトドマツの根元あたりが、黒く盛り上がっているではないか。


 それがたちまち巨大な熊となって躍り出た。一行はあまりに近くから熊が出たのに仰天し、あわてふためき一斉に銃口を向けたが、発射したのはたった1丁、谷の銃だけだった。3丁は不発で金子はいつものクセで銃の遊底に巻いていた布切れが邪魔をして撃てなかった。その当時は、付近の林内に熊が出ても深追いするようなことはせず、万一に備えて安心のために銃を置いているようなものだった。だから実弾も詰めっぱなしというずさんな扱いで、発火するのがむしろ不思議なくらいだったのだ。


 谷の銃が火を噴いたとたん、巨熊は猛然と彼らに立ち向かい、足元がおぼつかず逃げまどう宮本由太郎と河端甚太郎の2人に一撃を加えんばかりとなった。とっさに河端は大声を張り上げ、長柄の鎌に渾身の力を込めて振り回し、宮本は不発の銃を据えてしばし対峙した。この騒動に、ほかの若者たちは一目散に逃げ出してしまった。


 ところがどうしたことか、熊はやおら方向を変え、山の手に向かってそのまま走り去ったのである。立ち上がったときの丈は馬匹をしのぐ大きさで、胸には袈裟掛けといわれる大きな白斑を交えた全身黒褐色の巨大な熊だった。



 ほうほうのていで逃げ帰って来た若者たちの驚きといったらなく、顔面蒼白で口もきけないほどだった。クモの子を散らしたように逃げ帰ってくる様子は、太田家からもよく見えた。そうこうするうちに、身を案じられていた2人も戻ってきたので、みんなと無事を喜びあった。


 ほどなく関係筋に救援要請の使者が派遣されることになったが、熊の威に呑まれて、屈強の若者もただただ尻込みするばかりであった。そればかりか1人2人と近くの開拓農家に流れこみ、ついには誰もいなくなってしまうありさまだった。そうかといって、このまま放置しておくわけにもいかず、いったんは家にこもった者もぽつりぽつりと現場近くに戻ってきた。


 とにかく捜索隊はもう1度、山に向かうことになった。山あいの冬は日暮れが早く、すでに3時を大きく回った林内は薄暗くなっていた。


 山本仁作ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚無きまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剥がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状にただただ息を飲むばかりであった。


 夕刻5時ごろやっとマユの遺体は太田家に戻った。



『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(文春文庫)    村人たちは恐怖に震えながらもヒグマ退治に乗り出すが、冬眠しそこねて“穴持たず”となり凶暴化したヒグマは、悪魔のような知恵を働かせて、村人たちを次々と牙にかけていく——。死者8名という世界的にみてもヒグマによる食害事件としては類をみない最悪の惨劇となった「三毛別(さんけべつ)事件」の全貌を、生存者たちへの貴重な証言をもとに描き出す戦慄のノンフィクション。




「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図 へ続く



(木村 盛武)

文春オンライン

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