カミングアウトしたデストラーデの元通訳が語る、あの頃のライオンズと私

7月9日(火)11時0分 文春オンライン

 ライオンズファンの間で、「歴代最強助っ人」といえば、間違いなく1、2位に名前が挙がるのがオレステス・デストラーデだろう。1989年から1992年、1995年に西武ライオンズに在籍。90年から92年の、3年連続本塁打王を獲得し、チームの3年連続日本一に大貢献した。その通訳として、常に隣で支えたのがコウタ(当時:石島浩太)だった。


「常勝軍団」と言われた黄金期ライオンズの猛者たちの中で、戦友の一人として共に闘っていたが、その胸の内には誰にも言えない“本当の自分”を隠し続けていた。幼少時から気付いていた、男性として生きている違和感。「性同一性障害」を自覚していながらも、プロ野球界という社会の中で認めてもらうためには、絶対に気付かれるわけにはいかなかった。必死で男性であり続けた。


 1997年に西武を退団したのち、ニューヨーク・ヤンキース、ニューヨーク・メッツ、読売巨人軍と渡っても同じだった。だが、2003年、ついに性転換を決意し、本格的にホルモン治療を開始。そして2008年、女性としての人生を歩み始めた。以後、野球界時代の自分は完全に断ち切ってきた。


 しかし昨年、18年ぶりにメットライフドームに足を運んだのを機に、初めてじっくりと「人生で最も充実していた頃(コウタ)」の自分自身と向き合った。あの頃、隠し通した“女性”からの視点で、黄金時代のライオンズを振り返る。


◆ ◆ ◆


「私は男性ではない、私は女性なんだ」


 2003年、私がプロフェッショナルの野球界を去って早16年が経った。


 それは、男性から女性への性転換ホルモン治療を開始し、それまでの全てを封印し人生を一変させ「女性」としての新たな一歩を歩き始めた年でもあった。


 主に通訳としてダイエーホークス、西武ライオンズ、ニューヨーク・ヤンキース、ニューヨーク・メッツ、そして最後は読売巨人軍の5球団に在籍し、世界の球界で貴重な経験を得た、恵まれた野球人生であった。しかし本当の自己を隠蔽し、事実にフタをしていた無理にやがて大きな反動が訪れた。


 当時、第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の企画運営に関わっていた際、いよいよ自分にウソがつけなくなって追い詰められていた。仕事はすこぶる上手く行っていたが、メンタル的にはデンジャー・ゾーンに入り込んでいた。『私は男性ではない、私は女性なんだ!』。


 そして、トランスジェンダーを専門とする医師を訪ね、ホルモン治療を開始した。


 治療開始後、野球もベースボールも一切観ることはできなかった。2008年に帰国してミュージシャン・女優・表現者として活動してからは、特に一線も二線も引いていた。


 しかし、有り難いことに「コウタはどうした、コウタはどこ行った?」と球界では私を探し始めてくれていた。


 数年が経ち、選手の世代が入れ替わり、やがて私は一ファンとして少しずつテレビ等で試合を観戦できるようになっていた。


 そして昨年、親友のジャーナリストの粋な計らいで、古巣であり球界人コウタのルーツでもあるライオンズ球場(あえてこう呼ばせていただく)に招かれた。18年ぶりだった。関係者入り口でもあるバックスクリーンから球場入りし、あの懐かしの打撃練習のインパクト時の木製バット音を聞いた際、思わず涙がこみ上げた。屋根こそかかっていたが、そこはまさに“私のライオンズ球場”だった。


 ネット裏の急な勾配の階段を、初めてハイヒールで、転ばないように恐る恐る降りて行く。そしてフィールドへ。ホームのダグアウトこそ三塁側だったが、景色も匂いも何も変わっていない。


 その日はワンピース姿だったが、思わずグラブを手にしてグラウンドに飛び出して行きたい衝動に駆られた。


 そしてふと、通訳として公私にわたって長い時間を共有したオーレ(オレステス・デストラーデ)の笑顔が脳裏を横切った。同い年で、また、共にアウトサイダー(彼はキューバ出身米国には移民として移住)としてニュージャージー州のフォート・リー市に住んでいたオーレとは相性が合った。プレイヤーとしてだけではなく、非常に聡明だった彼とは、世相からサブカルまで色々な話題で盛り上がった思い出がある。



「オーレ」の愛称で親しまれた元西武・デストラーデ ©文藝春秋


ダグアウトで蘇った当時のライオンズの記憶


 毎日の練習時、最初にオーレとキャッチボールするのが私の仕事だった。いや、あれは仕事ではなかった。コミュニケーション、その日のお互いの会話の相場を計る術だった。


 キャッチボールで相手の気分、体調などが分かる。オーレだけではない。練習中の私の持ち場はファーストで、石毛宏典氏、田辺徳雄氏、奈良原浩現中日ドラゴンズコーチや辻現監督の送球を受け、コミュニケーションを深めた。石毛さんや辻さんはいつでも捕りやすいボールを投げてくれていた。


 オーレは、私の球歴の中でも誰よりもチームに溶け込んでいて、皆に好かれた外国人選手であった。クラブハウスの中でも先輩の石毛さんに、「ヘイ、ハチ!(石毛さんのニックネーム)」と平気で呼んでも御咎めなし。いつもジョークを交わしては笑っていた。しかもここぞという時には実力を最大限に発揮出来た素晴らしい選手だった。


 これは、あの当時のチームカラーが、自然とオーレをそうさせていたのだと思う。キャプテンであった石毛氏や辻現監督、投手陣では鹿取義隆氏や工藤公康現ソフトバンク監督らが率先して、明るくも緊張感を保ち、全選手を引っ張っていた。陳腐な形容になるが、その光景はすがすがしいものに私には映っていた。


 人間が数人集まれば派閥も生まれ、それぞれの好き嫌いが当然のごとく摩擦を呼ぶ。しかし、当時のライオンズは、一旦ユニフォームを着用すれば、お互いのエゴが生まれるような要素が皆無であった。チームの勝利のための各々の役割を全員が熟知しており、選手たちはその「役」に没頭するのみであり、それは秋山幸二清原和博、工藤、渡辺久信現GMらのスター選手やサポートするスタッフも皆同様であった。


 ダグアウトで練習を見つめ、オーレの思い出からチームの匂いまでが蘇っていた。


 感無量で胸を詰まられていると、さらに多忙な練習中にも関わらず、辻現監督が時間を割き、わざわざ声をかけに来て下さった。現役時代には、私が毎日辻さん専門で打撃練習前のトスを上げさせていただいていた。さまざまな話をする中で、野球のいろはを教わった。私の野球知識の多くは、辻さんから学んだと言っても過言ではない。


 その日は、他にも、当時の親友だった田辺徳雄前監督、西口文也投手コーチ、松井稼頭央現二軍監督、さらに潮崎哲也前二軍監督や高木浩之二軍野手総合コーチ、そして今や中日ドラゴンズのスカウトを勤める垣内哲也氏とも旧交を温めることができた。皆、昔と変わらず温かく笑顔で接してくれた。感激だった。「女性になった私を、きっとみんなは受け入れてくれないだろう」勝手に決めつけ、野球を遠ざけていたのは私だったのだ。


 そう思えた途端、無理やり封印し続けてきた様々な感情、記憶までもが一気に溢れ出し、追憶は止まらなくなった。




「常勝チーム」としての自覚が生み出した「美意識、自意識」


 私が在籍していた1992年から1996年までの西武ライオンズは、圧倒的な強さでパ・リーグ他球団の追従を全く許さない存在だった。それでもライオンズ球場での観客動員数は、他の球団よりは良かったものの、セ・リーグの下位チームにも及ばないことも多々あった。


「ライオンズは強いけど、辻が塁に出れば、平野(謙)がバントで送り、それで秋山か清原で還すっていう、いつものパターンでしょ? 面白くないよ」などと暴言を吐くTV解説者もいたほどだった。しかし、そのパターンを確立したチームを作るのに、どれほど球団全員で日々努力したことか。


 森祇晶監督と東尾修監督の時代、選手、裏方、球団職員の間には隔たりが無く、全員が一丸となり、リーグ優勝を目指していた。その中で、何よりも、あの頃のライオンズにはチームとして「様式美」のような美しさが存在した。私は、その美しさの中で仕事ができる幸せを噛み締めていた。それは「常勝チーム」としての自覚が生み出した、個々の選手の「美意識、自意識」でもあったと言っていいだろう。


 その一つとして、例えばユニフォームの着こなしである。当時はまだストッキングを着用するのが常であり、そのアブミの部分を延ばして、アンダーストッキングの白い箇所を誇張するのが流行りであった。そして、そのストッキングの延ばし方は、個々の体形なり、思いでそれぞれが異なっていた。その形状とアンダーストッキングのホワイトに、清潔な美を私は見出していた。


 また、選手たちの守備にも、歌舞のような煌びやかさを感じていた。ダブル・プレー時の田辺、奈良原浩、辻さん、石毛宏典さんたちの流れるような美しさにぞっこん惚れ込んでいた。野球の美しさは「流れるような動作」であると私は信じている。


 今思えば、こうした、男性だけの世界の中で感じ取る“美”に魅せられていたのも、自分の中にあった女性ならではの視点だったのかもしれない。


日米で同じ球団を古巣に持つ松井稼頭央との思い出


 1993年秋からハワイ・ウィンター・ベースボールという日米双方の有望な若手マイナー・リーガーを集めるウィンター・リーグが発足することとなる。当時のライオンズも参加することになっていた。そこから、垣内哲也や高木浩之、松井稼頭央らが育ち、その後のライオンズの中核を担っていった。


 それまで通常のシーズン中は、通訳として外国人選手 (ほぼ歳上)に集中するのみであったが、引率者、マネージャーも兼務として派遣されたハワイ・ウィンター・ベースボールでは、初めて歳下の選手たちを扱うことになった。それも、私が長年育ち、慣れ親しんだ米国においてである。彼らにとっては異国の地。試合の後、マウイの球場から宿泊していたアパートまでの40分弱の距離、私が運転する車の中で眠る彼らを見て、初めて「守ってあげなければならない」と思ったことを思い出す。同じ歳下でも、おっさんのような垣内や、大人びた竹下潤は別として(笑)、まだ少年のようなあどけなさがあった、浩之や千原淳弘、稼頭央には、特に母親的な感情を有して接していたように思う。この時の体験がきっかけとなり、自己内に深く隠蔽していた女性面がどんどんと成長していったのであろうと、我がことながら、今こうして封印し続けてきた当時の自分自身と初めて正直に向き合ってみて、思い至る。


 その後、私が球界を去るのとほぼ同時期に、稼頭央が、私が在籍していたニューヨーク・メッツに移籍した。もはや第三者としてではあったが、彼のことも、さらにはメッツというチームのことも熟知していただけに、気になっていた。「大丈夫だろうか?」。そして実際、やはり壁に直面した。


 しかし、そこから自らの力でその壁を乗り越え、文字通りのメジャーな男としてひと回りもふた回りも大きく進化し、リーダーとして開花した姿に、言葉にならない喜びを感じた。そして、今年からは指導者として新たな道を歩み始めている。


 昨年、選手としての晩年を迎えていた稼頭央と再会して、走馬灯のようにをあの頃を思い出した。僭越ながら、立場は違えど、ライオンズとメッツ、日本とメジャーとも同じ球団を古巣に持つのは彼だけである。やはり、ひとしおの思い入れがある。指導者として、『育てる喜び』を感じていることと思う。ぜひ、日本プロ野球、MLBで経験してきた全てのノウハウを若い選手に伝えてほしいと、心から願っている。


 このコラム執筆を機に、本能が完全に眠りから覚めた。西武ライオンズは、私にとって野球人としての原点である。あの当時は、もちろん自分の持てる100%の力で尽くしてはいたが、“本当の自分”だけは閉じ込めていた。でも、こうしてトランスジェンダーであることをカミングアウトした上で、かつての仲間皆が受け入れてくれたからこそ、今度は一切の偽りなく、今の自分の全てを懸けたい。どういう形でできるかわからない。だが、もう一度、“野球界”のために貢献したいというのが、私の夢である。



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(コウタ)

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