戦後日韓裏面歴史 最強在日ヤクザと司馬遼太郎との邂逅

7月20日(金)7時0分 NEWSポストセブン

日韓交流には秘められた歴史がある

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 最強の「在日ヤクザ」と恐れられた柳川次郎(梁元錫)は1969年に組を解散し、堅気となった。そして、実にこの男らしい方法で日韓交流に邁進する。韓国のKCIA(中央情報部)やポアンサ(韓国軍の保安司令部)といった情報機関をカウンターパートとして、柳川は国家を動かすほどの力を得ていった。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。


 * * *

 男は、柳川と大阪のミナミで合流すると、紙を渡されたという。


「向こうからの通達や。分析してみい」


 韓国情報機関のペーパーだった。


「私の任務の多くは、様々なルートで機関に上がってくるタレコミを調べよ、というものでした。韓国への祖国訪問団は、日本から電化製品を持ち込んでも人道上の措置として非課税になった。それを悪用して商売する者がいる。そんな情報を裏取りして本国に報告し、民団から締め出すのです」 


 柳川次郎の元秘書で、韓国軍の情報機関であるポアンサのエージェントだったMは、かつての活動をそう振り返る。Mは民団幹部でもあった在日韓国人だ。大阪・梅田の喫茶店で初めて会って以来、幾度も取材を重ねた。


「会長に守ってもろうてたんです」


 Mは柳川との関係をそう説明する。きっかけは、1977年頃のことだった。ある日の晩、Mは梅田で宝石店のショーウィンドウをのぞき込んでいた。いきなり男たちに車に押し込められた。必死に抵抗し、阪神高速に入る手前でドアをこじ開けて飛び出した。男たちが何者かは分からずじまい。が、思い当たる節があった。総連のふくろう部隊に違いない。


「ふくろう部隊」とは総連の武闘派組織の通称で、尾行や盗聴など、秘密工作に通じていたとされる。冷戦真っ盛りの1970年代、朝鮮半島の南北で対立する二つの国家は、日本を舞台に熾烈な工作戦を展開していた。


 北朝鮮は日本を対南工作の拠点と捉え、次々と工作員を送り込む一方で、韓国の情報機関もカウンター工作を展開した。とりわけ在日が多く住む大阪は、その主戦場といえた。在日社会は韓国系の民団(在日本大韓民国民団)と北朝鮮系の総連(在日本朝鮮人総聯合会)に分かれ、切り崩し工作が繰り広げられていた。


 Mは朝鮮大学校出身で、朝鮮学校にも長く勤務したが、総連内部の権力闘争の煽りを受け退職した。これに目をつけたKCIA出身の韓国の領事から「韓国に行ってありのままを見てこないか」と熱心に口説かれた。韓国各地を自らの目で確かめることで、北朝鮮のキャンペーン(「資本主義に搾取された貧しい南朝鮮」)が偽りであることを悟った。


 日本に戻りKCIAに協力するようになった。与えられた役目は総連関係者を訪韓させ、転向を促すことである。総連に太いパイプを持つMは、早速、20人を超える関係者を密かに訪韓させた。これが発覚し、総連のふくろう部隊から襲撃されたのではないか、とMは考えた。


 大阪の韓国総領事館の幹部に報告すると、ある人物を紹介された。それが柳川だった。会うなり柳川はいった。


「あなたのことは聞いています。これからはあなたの身は、ワシらが守りましょう」


 1969年に柳川組を解散して以来、韓国政府との結びつきを深めていた柳川は、自然とKCIAとも関係を持つようになった。任侠出身の柳川は頼られ、Mのような協力者たちの身辺警護を託されるほどになっていた。


司馬遼太郎と意気投合


 柳川はことあるごとに「あいつには手を出すな」と触れ回った。その大きな力によって、Mが争いごとに巻き込まれることはなくなった。恩義を感じたMは柳川の秘書となった。柳川のもとで、Mは在日社会の有力者や文化人の訪韓を実現させていく。Mから教えてもらった訪韓者の面々は、錚々たるものだったが、その中に一人、意外な名前があった。作家・司馬遼太郎である。


 実は、司馬は韓国政府から要注意人物としてマークされていた。全斗煥政権による野党指導者の金大中への死刑判決に対する司馬の言動が問題視されたためだ。司馬は1980年11月に金大中の助命を嘆願する書簡を当時の首相鈴木善幸らに送ったばかりか、朝日新聞に次のコメントを寄せていた。


「私は他国の国内での政治事象について、とやかくいいたくありませんが、しかし、だれが見てもバランスを失したかたちで一人の政治家が殺されることについては、市井人としての憤りと当惑とやるせなさを感じます。もし(金大中が)死刑になれば、韓国はただの人間の常識が生きているはずの国際社会の一員である場から大きく後退せざるを得ないでしょう」(1980年11月4日付)


 その司馬に韓国取材が持ち上がったのは1985年のことである。『街道をゆく』は、1971年から1996年まで続いた「週刊朝日」の紀行連載である。列島各地ほか台湾やニューヨークなど各国をルポルタージュした。このとき司馬が望んだ取材地は、済州島である。ただでさえ司馬の訪韓は快く思われないだろうに、四・三事件など韓国現代史の舞台となった同島での取材は困難が予想された。実際ビザが出ない。


「柳川と会ってみたらどうか」


 そう助言したのは、親交が深かった歴史家の姜在彦だ。姜は在日社会に大きな影響力を持っていた総合誌「季刊三千里」の編集者でもあった。実は、姜もかつて柳川の力で韓国を訪れたことがあった。姜の相談を受けたMが柳川に司馬の意向を伝えると、二つ返事で会おうということになった。待ちあわせは新宿の京王プラザホテルだった。しかし、待てども待てども司馬は姿を見せない。Mが回想する。


「30分くらい待ち、『もうけえへんから帰ろう』という時に、姜さんと司馬さんが歩いてきた。どうも待ち合わせ場所を勘違いしてたらしいんやけど、それを知った会長は『お前の手違いやろう』とカンカンになって私に怒り出した。それを見た司馬さんも『そんなことで怒るな』いうて怒りだす。もう無茶苦茶でしたよ(笑)。


 姜さんと私が必死になって二人をなだめ、とにかく高輪のコリアンハウスで夕食をしようとなった。4人でタクシーにぎゅうぎゅう詰めで向かううちに、どちらからともなく『あんたも大概短気やな』と言うと、二人はお互い笑みがこぼれてね、それで意気投合したんです」


 柳川の尽力によってビザは無事に発給。司馬は姜在彦とともに済州島にわたり取材は果たされた。


◆韓国独裁政権に加担した


 本誌SAPIO前号で述べた通り、1979年に朴正熙大統領暗殺事件によってKCIAが影響力を失うと、軍の情報機関ポアンサが対日工作を担うようになる。日本での人脈に乏しかったポアンサは柳川を頼り、柳川はポアンサの駐日代表と称されるほどの実力者となっていく。


 当時をよく知るポアンサの元幹部にソウルで会うことができた。


「フェジャンを我々が運用して問題ないか審査したことがある」


 柳川をフェジャン(=会長)と呼ぶ元幹部は、密かに柳川の資格審査をしていたと明かした。


「金浦空港のポアンサの出先で出入国者を監視していると、彼はいつも大勢を引き連れて日韓を行き来していた。興味を持ったが、KCIAが使っていた彼について、詳しい情報を持っていなかった。そこで生い立ちに始まり徹底的に調べ直した。ヤクザの過去は問題ない。むしろ愛国心を持っているかどうか。審査の結果、十分に愛国者たり得ると判断した」


 元幹部はすでに高齢だが、記憶は鮮明だった。日本で取材した関係者の多くが柳川を「伝説上の人物」として讃えるのに対し、この男が柳川の限界を冷徹に指摘してみせたことが興味深かった。


「フェジャンの周辺には参謀と呼べるような者が少ない。日本での情報収集は、我々が求める専門的なレベルのものまでは期待できないことが次第に分かってきた。彼の腹心の中には、怪文書の域を出ないような資料を持ってくる者までいて、我々も惑わされた」


 北の工作員の摘発を任務とする韓国のKCIAは、1971年に北のスパイ団として在日の留学生ら20人以上を摘発。リーダーとされた人物は工作船に乗って北朝鮮に渡り訓練を受けたことを公判中に認めた。一方で、拷問による虚偽の自白に基づいた捏造だったとして再審で無罪判決を得た者もいる。情報機関によって事件が「作られる」ことも少なくなかったのだ。


 その実態を暴露したのが、在日の作家・金丙鎮だ。1983年に留学先の韓国でポアンサによって北のスパイとの容疑で拘束されながら、その後、通訳としてポアンサに勤務するという数奇な経験をした。1986年に大阪に戻るとその体験を『保安司─韓国国軍保安司令部での体験』として綴った。


 同書にたびたび登場するのが、柳川とその腹心で右翼団体「亜細亜民族同盟」会長の佐野一郎だ。例えば、ある在日の元留学生に関する捜査の関係者として浮上したO氏なる人物について柳川らがポアンサに通報する経緯が出てくる。


 実際にはO氏は、スパイと疑われた元留学生の勤め先の経営者に過ぎなかった。だが、O氏と北朝鮮との関係を指摘する柳川らの通報が決め手となり、この在日の元留学生は逮捕されてしまう。その通報たるやひどい代物だったという。


〈梁会長(梁元錫のことを保安司令部ではこう呼んでいる)の率いる右翼団体、亜細亜民族同盟とか個人としての協助網から送られてくる日本語の「資料」は、(中略)誤字脱字が目立ち、なにが主語でなにが述語なのかもわからないありさまだった。そして結局、これら「資料」の言っていることが私には理解できなかった。おぼろげに浮かぶ言いたいことの中身も、たいしたことではなかった。韓国国軍保安司令部への忠誠を表すためにだけ作成され、送られているのに違いなかった〉


 Mも同じ指摘をしたところ柳川が情報提供者に「ガセネタをもってくるな」と怒りをぶつけたこともあったという。


 金丙鎮を堺市の自宅に訪ね、話を聞いた。『保安司』の出版前、自宅近くを背広姿の男たちが監視するかのようにうろつき、柳川の手下ではないかと怯えた日々を振り返った。さらに金はこう吐き捨てた。


「梁元錫の行動は、日韓の友好や愛国心のためではない。ポアンサの後ろ盾を得ることが目的だったはずです。その威を借りて自らの影響力を強めたわけです。本国の独裁政権の取り締まりに加担したことで、在日の歴史に拭い難い汚点を残したと思います」


 穏やかな語り口ながらも柳川を本名で呼び捨てにする金丙鎮からは、強い憤りが感じ取れた。


 柳川の行動を逐一検証する材料は乏しいものの、ポアンサの後ろ盾を得た柳川が、もはや在日社会だけでなく、韓国政界にまでその名を轟かせるようになったのは確かだ。1980年代に入ると、柳川は毎年のように数百人規模の訪問団を引き連れ韓国に行くようになる。ソウルの国立墓地にある朴正熙の墓で手を合わせては、陸軍の部隊を慰問する。陸軍にテレビやバイクなどを寄贈して回り、陸軍士官学校の体育館の建設費まで寄贈した。


◆ソウル五輪の貴賓席


 一行の訪韓のたびに宴会を催して歓迎したのが、大統領の全斗煥の末弟の全敬煥だ。全斗煥時代に農村振興を目的とするセマウル運動の本部長となった全敬煥は、大統領の弟として絶大な権力を振るっていた。


 弟を仲介役にしながら全斗煥とも親交を重ねた柳川は、1984年には大統領直属の諮問機関である平和統一政策諮問会議の委員となった。朝鮮半島をめぐる安全保障上の理由から韓国との関係を悪化させたくない日本政府にとっても、柳川は無視できない存在となっていた。


 1983年に実現した、中曽根康弘による戦後初の訪韓にも柳川の「お膳立てがあった」と語る関係者も多い。中曽根訪韓の詳細は次号に譲るとして、この時期の柳川の威光を目撃したのが、写真家・山本皓一である。


 中曽根訪韓と同じ1983年のことである。北朝鮮に取材で渡航した過去が問題視されたのか、韓国での取材を希望する山本にどうしてもビザが下りなかった。そこで知人に紹介されたのが柳川だった。


「柳川さんに韓国で取材したいと訴えると、『これから行けるか』と聞いてくる。『行けます』と答えると、次の日にはビザを取得せずに柳川さんと一緒に出発することになりました。


 金浦空港に着くと驚いたことに、いきなり貴賓室に通され、パスポートを預けてお茶を飲んでいると入国手続きが済んだといわれた。空港から定宿だという最高級の新羅ホテルまでは青信号でノンストップ。ホテルのスウィートルームでは灰皿からグラス、ガウンに至るまで金文字で柳川さんの名前が書いてあり、この国では特別待遇なんだと実感しました」


 1988年に開幕したソウル五輪は、南北の体制間競争で韓国が圧倒的に優勢に立ったことを証明するものとなった。開会式で柳川に用意された貴賓席は大統領からわずか3列後ろ。その権勢は、頂点を極めた。しかし、韓国の民主化とともにやがて陰りが見えるようになる。


【PROFILE】 たけなか・あきひろ/1973年山口県生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院修士課程中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、「週刊文春」記者などを経てフリーランスに。近著に『沖縄を売った男』。


※SAPIO2018年7・8月号

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