絵画か、写真か、映像か? 小瀬村真美作品が示す、イメージの本質

7月21日(土)11時0分 文春オンライン

 年季の入った白いタイルで覆われた洋館は、夏のこんな強い日差しのなかにあってもどこか涼しげに目に映る。戦前に建てられ、もとは個人の邸宅だった建築はいま、現代美術専門の美術館として使われている。あらゆるミュージアム施設を見渡して、東京で最も居心地がいいのはここ、原美術館だろう。





 重厚かつ繊細な同館の雰囲気を、いっそう引き立てる展覧会が開催中だ。「小瀬村真美:幻画〜像(イメージ)の表皮」展。


美しいイメージのためなら何だってする


 原美術館の内側は、いくつもの小さめな展示室に分かれており、それぞれに小瀬村真美の初期作から最新作までが配されている。どの部屋も、以前からずっとこうして彩られていたんじゃないかというほど、空間と作品が溶け合っていて驚かされる。



 小瀬村が創り出すのはいつも、絵画とも写真とも映像ともつかぬ作品。絵筆で描いたのか撮影されたものなのか、遠目にも近くへ寄ってもわからぬことが多いし、静止画と思って眺めていてふと、「これ動いてる!」と気づきおののくこともしばしば。



 実際、たくさんの技法を織り交ぜてつくられていくので、どのジャンルに属する作品なのかはよくわからない。たとえば初期作品《薇》で彼女がまずしたのは、果物やコップや机を用いてオブジェを組み上げること。17世紀の画家スルバランによる静物画《オレンジ、レモン、水の入ったコップのある静物》を、忠実に再現していく。



 次いで、そのオブジェを撮影する。1枚だけじゃない。数時間ごとに幾日も、同じ角度と距離からシャッターを切り続ける。オブジェは当然、徐々に朽ちていく。その様子を収めた膨大な写真データは、小瀬村によって加工変形されつつ、繋ぎ合わされて動画へと生まれ変わる。


 なんとも複雑な過程を経て、ようやく人の目に触れる作品ができ上がるわけだ。これではジャンル分けなどしようもないのは当然だし、名付けたってとくに意味はない。欲しいのは静謐で、かつ動的な美しいイメージ。それを得るためならば、小瀬村真美は何だってするのである。



イメージを得るための人類の長い歴史


 そうして絵画、写真、映像のあわいを漂う小瀬村作品がわたしたちのもとに届き、観る側ははたと気づかされる。そうだ手法や技法じゃない、イメージだけが大切なんだということに。



 アートの歴史をさかのぼっても、彼女のしていることは至極まっとうなことだったりする。


 思いをかたちにするために、人は最初に絵を描いた。洞窟で暮らしていた太古の時代から、あちらこちらに動物や、遠く離れた大事なだれかの姿を描き、表現をせずにはいられなかった。


 時代を経るにつれ腕前は上がり、遠近感や立体感を出す描き方も開発され、外界とそっくりの世界を平面上に留められるようになっていく。


 すると欲が出て、もっと写実の腕を極められないか、簡単に外界を留める方法はないかと考えるようになった。19世紀になると、科学技術の知と力を活用して写真術が発明された。だれもが手軽に「そっくりの外界」を手に入れられることとなる。



 欲望はさらに膨らむ。外界では時間が流れ、事物は動いている。これをそのまま再現できないか。そこで、残像が残るという目の構造を利用して、写真を幾枚も組み合わせることで動画が生まれた。


 それぞれの時代においてあの手この手を駆使して、人はイメージを我がものにしようと試みてきた。それがアートの歴史をかたちづくっている。


 いまを生きる小瀬村真美は、人が長い歴史で蓄積してきたものを総動員して、自身が求めるイメージを得ようと創作に励む。その結果として絵画、写真、映像、それに彫刻なんかも含むユニークな作品が立ち現れるのだった。


 歴史ある原美術館の建築と拮抗する小瀬村作品、ぜひ実際に体験されたい。



(山内 宏泰)

文春オンライン

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