中村メイコ「79歳でトラック7台分を処分。でも、美空ひばりさんとの思い出は棺桶に」

7月29日(木)12時30分 婦人公論.jp


たくさんの宝物を処分したメイコさんでも捨てられなかったものとは(写真提供:講談社)

今、終活としての断捨離や、親が元気なうちに親家片(おやかた。親の家の片づけのこと)を始める人が多いとか。一方、1934年生まれの中村メイコさんのご自宅にも榎本健一さんからもらったキューピー人形や、東郷青児さんが書いてくれた似顔絵など、たくさんの宝物があったそうですが、79歳の時に決断。「思い出深いものから捨てないと人生の最後を身軽に生きられない」とトラック7台分のモノを手放したそうです。そんなメイコさんでも捨てられなかったものはあったそうで——。

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田中角栄さんからもらったお皿


捨てたり、あげたりして、あらゆるものを手放してきたが、手放せないものもある。田中角栄さんからもらったお皿がその一つだ。ご自身のサインの上に「メイコちゃんへ」と書かれてある代物だ。

角栄さんは昭和三十二年に戦後初の三十代の国務大臣として郵政大臣に就任して、テレビ局の放送免許を管轄するトップになった。ちょうどその頃、雑誌で対談していたら、いったん席をはずした角栄さんが興奮した顔で戻ってきて、「今、テレビの民放を認可した。メイコ、お前は記念すべき日にここにいた。テレビの申し子だ」と言われた。

自分で言うのもおこがましいが、私と角栄さんとは気が合った。毀誉褒貶のある方だったが、私にとってはきっぷのいいおじさんで、魅力的なかわいい人だった。夫はよく「中村メイコと一緒に暮らせるのは、自分以外では角栄さんしかいない」なんて言っていた。

異常な額のお年玉


子どもたちを連れ、目白の自宅まで年始の挨拶に行ったこともある。

「ほら、カンナちゃん、ハヅキちゃん」と娘たちにお年玉をくださるのだが、その額が異常に大きい。

「こんなにおカネをあげるなんて、子どもにとってよくないんですよ。これだけちょうだいします」と私がお札を一枚だけとって、残りを返すと「そうか。そういうものなのか。じゃあ、メイコちゃんにも用意しておいたんだけど、同じ額にしよう」と言われてしまった。

今さら「いえいえ、大人はたくさんもらってもいいんですよ」とも言えず、焦ったものだ。角栄さんとの愉快な関係を伝えるものとして、お皿は手元に残しておきたいと思っている。

徳川夢声さんからもらった虫眼鏡で見たもの


徳川夢声さんの虫眼鏡も手元に残してある。昭和十七年五月、私は徳川夢声さんの一座と興行で九州に向かっていた。その途中、乗っていた列車が爆撃を受けた。

九死に一生を得た私たちがなんとか下関に着き、門司港で汽船を待っているときのこと。ちょうどその日が私の誕生日で、いつもだったら家でパーティをしてもらうのに、戦時下のわびしさに心がふさいだ。

そんな私の気持ちを知った夢声さんが私を街に連れ出して買ってくれたのが、銀色の携帯用虫眼鏡だった。私はもっと女の子っぽいかわいいものが欲しかったのでふくれっ面をしていると、夢声さんはこんなことを言った。

「虫眼鏡は何でも拡大して見えるんだよ。楽屋の畳のヘリでもアリンコでも、見てごらん」

その興行の間、私は何でもかんでも拡大して見た。それはことのほか面白く、私の世界を広げてくれた。

後年、結婚の仲人を夢声さんにお願いしたとき、私はこんなことを言った。

「先生にいただいた虫眼鏡で拡大してよく観察した結果、この人と結婚することに決めました。つきましてはお仲人をお願いできないでしょうか」

虫眼鏡は小さな品なので、捨てずに残してある。今でもときどきその虫眼鏡で、家の中のいろいろなものを拡大して見て楽しんでいる。

正反対だったからこそ気が合ったひばりさん


そしてなにより、美空ひばりさんとの思い出の品々も手放すことはできないものだ。手紙や小さな時計などかさばらないものばかりなので、「私が死んだら一緒にお棺に入れてちょうだい」と長女に頼んである。


大事なものから捨てなさい−メイコ流 笑って死ぬための33のヒント(著:中村メイコ/講談社)

ひばりさんと知り合ったのは、私が十六歳、彼女が十三歳のときだった。『月刊平凡』で彼女と対談した私は開口一番こう言った。

「私たちもお休みのときくらい、ボーイフレンドとデートして、お揃いのセーターを着たり、腕を組んだりして歩きたいわよね」

すると彼女は、しっかりした口調でこう答えたのだ。

「私はそうは思わないわ。私たちは夢を売る商売なのだから、ファンの皆さんが嫌がることはするべきじゃないわ」

なんて気味の悪い、憎たらしい女の子だろうと思ったものだ。

その後は忙しくて顔を合わせることもなかったのだけれど、成人して再会すると、些細なことから意気投合して二人でお酒を飲み歩くようになり、親友になった。

ひばりさんは年下だが、弟と妹がいるので「しっかり者のお姉さん」。一方私は「一人っ子の甘えん坊」。性格は正反対だったが、だからこそ気が合ったのかもしれない。

ひばりさんが入院前日にかけてきた電話


昭和六十三年四月、大病したひばりさんが東京ドームで復活公演をしたときは、このまま元気になってくれると期待した。ところが翌年、年号が平成に替わった二月から始まった全国ツアーは、わずか二回で中止になった。

肝硬変が悪化したのだ。療養中のひばりさんは自宅で好きな絵を描いて過ごしていたようだが、再度入院することが決まった。

入院前日の夜、私のもとに電話がかかってきた。

「メイコ、今、試しに布団を被って、『リンゴ追分』を歌ってみたんだけど……。ワンコーラス歌うだけで息が苦しいの。あの美空ひばりが、だよ」

電話を切った後、私は娘のカンナの部屋に行って一晩中、泣いた。

ひばりさんがくれた宝物が道しるべ


ひばりさんが亡くなったのは、それから間もなくのことだった。亡くなったという知らせを受けて病院に駆け付けたところ、息子の和也さんから渡されたモノがあった。黒いサングラスと黒いハンカチだ。そしてそこには、ひばりさんの字で書かれたメモが添えられていた。

「泣き虫メイコが来たら、これを渡してください」

そのサングラスで隠し切れないくらいの涙を、私は流した。

ハッピーに生きてきた私にとって、ひばりさんの死はいちばん悲しい出来事だった。

でも、ひばりさんのおかげで死ぬことが怖くなくなった。だって死ねば、美空ひばりに会えるのだから。

ただ心配なのは、ひばりさんがちゃんと迎えに来てくれるかどうかということだ。彼女も私もとんでもなく方向オンチだから。ひばりさんのくれた宝物が、道しるべになってくれるかな。

※本稿は、『大事なものから捨てなさいーメイコ流 笑って死ぬための33のヒント』(講談社)の一部を再編集したものです。

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