野坂昭如との思い出を娘が綴る「少年の顔に戻って天国へ旅立った父へ」

8月15日(土)8時0分 婦人公論.jp


麻央さんの七五三のお参りで日枝神社へ。若き日のダンディな野坂さん(写真提供:麻央さん)

幼い頃の戦争体験から、『火垂るの墓』など心に響く小説を残した作家。「焼跡闇市派」と称し、社会批判を行った政治家。家族思いの愛妻家。──さまざまな顔を持ち、ダンディズムを貫いた野坂昭如さん(1930−2015)の素顔を、長女の麻央さんが綴る。

* * * * * * *

泣きたきゃお泣きよ麻央


12月9日夜、私の携帯が鳴った。

「パパが亡くなったらしい」

妹からの電話だった。2003年に脳梗塞で倒れた父は、残された機能を衰えさせないようリハビリを続けながら、母から13年間の献身的な介護を受けてきた。

大好きな両切りピースもウィスキーも断って、三度の食事と規則的な睡眠、むしろ以前より肌艶が良いくらい。

それがこのところ、目に見えて身体が弱ってきていたのが分かった。どこが悪いというわけじゃなく、少しずつ灯が消えていく。

危ない、と告げられた時も乗り越えて、心の準備は出来ていたはずなのに、どうしても信じられない。本当に逝ってしまったの?

取るものもとりあえず一人で車に乗り、高速に入って運ばれたという病院を目指す。

ナビに従って運転したつもりだったが、どうやら出口を間違えた。気が付くと、向かうべきは新宿なのに五反田にいた。混乱した私はそれから1時間、夜の東京で道に迷っていたらしい。

泣きたきゃ お泣きよ 麻央
悲しい涙 怖い涙
涙の一つ一つを
 パパが拾ってあげるから
 星のみえない空もある
 花の咲かない庭もある
 泣きたきゃ お泣きよ 麻央
 いつでも麻央は 麻央なのさ
泣きたきゃ お泣きよ 麻央
さびしい夢や つらい夢
その夢の一つ一つを
パパが食べてあげるから
 一人ぼっちの道を行き
 冷たい森に まよいこみ
 泣きたきゃ お泣きよ 麻央
 いつでも麻央は 麻央なのさ
泣きたきゃ お泣きよ 麻央
いつでもパパが みてるから
涙の一つ一つで
 パパより大きく なるんだよ

生まれたばかりの私のために父が作ってくれた「プレイボーイの子守唄」。幼くして死んでしまった二人の妹への鎮魂歌の意味もあるという。

野坂昭如さんが残した随筆「プレイボーイの子守唄」はこちら

ええかっこしいの父は、私が誕生した夜、わざわざダークスーツに着替えに戻り、花束を抱えて逢いに来た。

スヤスヤ眠る私の顔に手をかざして、「大丈夫、息をしている」と一日中ベッドのそばを離れない。かつて少年の日、腕の中で妹を亡くした記憶からか、いつ死んでしまうかと常におびえ、何でもしてやろうと、はっきりいえば贖罪の心で育てている、とも書いている。


のさかあきゆき 1930年神奈川県生まれ。空襲で養父を失い、上京。シャンソン歌手を志して早稲田大学に入学後、中退。63年「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞作詞賞受賞。67年「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞受賞。社会評論も多数執筆し、タレントとしても活躍した。83年の参議院議員選挙に当選。2003年に脳梗塞で倒れ、リハビリを続けながら執筆活動を行っていた。15年12月9日、心不全のため死去。享年85

「きちんと食べているか」


「もう二度と、飢えた子どもの顔を見たくない」。これは、父が参議院議員選挙に立候補した際のスローガンだ。

思えば父は生涯、食べ物にこだわっていたと思う。

帰宅した父の手には、いつも家族のために美味しいお土産があった。

神楽坂の旅館でカンヅメになれば、「五十番」の肉まん、銀座方面なら「千疋屋」のフルーツサンド、講演先で見つけた駅弁。

そのくせ、それらを贅沢に食べ散らかす幼い私を憎んだ、と記しているのを読んだこともある。飢えて死んだ妹には、決して与えることのできなかったご馳走たち。

はたまた20歳前後、宝塚歌劇団に在籍し、一人暮らしをしていた頃のこと。父は何の前触れもなしに、夜、私の部屋のインターホンを鳴らす。

ドアを開けるとそこにはいつも、両手にビニール袋をいっぱい提げた父が立っていた。

中身はその時によって違う。お菓子だったりインスタントラーメンだったり。生のうどんすきセットが入っていた時は、一日持ち歩いた後らしくすでに匂っていて、とても口にできるものじゃなかった。

何しろ、きちんと食べているか、食べ物の備蓄があるかが心配らしい。シャイな父は、荷物を手渡すとすぐに、待たせていたタクシーに乗り込み帰ってしまう。

突然やって来られた私もつい邪慳にして、今から思えばもっと優しいやり取りがあってもよかったのだ。

私が結婚し出産した時もそうだった。

初孫を抱き再び、はかなく死んだ幼な子のイメージが蘇ったのか。「高価な洋服やおもちゃを買うくらいなら、子どもの食材にお金を払いなさい。きちんとした農業をやるには金がかかるんだ」。ファストフードなんてもってのほか、子どもの口に入るものは全て親の責任、とうるさくお説教。

そしてこれまた事前連絡なく、ふらりと赤ん坊の顔を見にやって来る。照れ隠しなのかたいてい酔っ払っているので、帰り際、

「ママには言うなよ」

と釘をさすのを忘れない。

父親参観と選挙カー


焼跡闇市派、無頼、破天荒と称される父だけれど、家庭では子煩悩、過保護気味な愛妻家。母に対して声を荒らげたり命令したり、名前を呼び捨てにした場面さえ見たことがない。

「あなた」と問いかけ敬語で話し、娘たちも小さなレディとして扱って、例えば父は私の目の前で着替えたことがない。

自分なりの「ダンディズム」に溢れた人だったと思う。

小学4年生の時、新しい試みで父親参観日というのがあった。父の日に合わせ6月で、折しも初出馬した参議院議員選挙の真っ最中。

父の周囲は熱い想いの若者たちで固められ、連日連夜の大騒ぎ。父と顔を合わすこともない日々だったのだ。

どうせ来られないだろう、私は学校からのお知らせの紙さえ見せていなかった気がする。

そして当日、教室の後ろにズラリと並ぶお父さんたち。もちろん父はいなかった。ちょっと残念でホッとしたような私。

参観授業の終了まで残り5分の頃だったろうか。ガラッと後方の扉が開いて、先生、父兄、生徒の視線が一点に集中した。

ま、まさか。恐る恐る振り返った私の目に飛び込んで来たのは、純白のスーツにハット、黒メガネできめた父の姿。

ざわつくクラス内を先生が諫め、授業が続けられた数分後、再び振り向くともう父はいなかった。今のは幻に違いない!

その後の休憩時間、校庭に出て遊んでいるとどこからか、「野坂昭如でございます」と選挙カーからウグイス嬢の声が聞こえてきた。

ああ、あれはやはり本物だったんだ、と妙な気分で納得、悪い気はしなかった。

父の口癖といえば「僕はベストドレッサーに選ばれているから」。オシャレなのだと言いたいようだ。

実際それなりにこだわりがあって、洋服でも毛皮でも自分で選んで買ってくる。

ブランド品は有難がって着るものじゃない、とびきり高価な服を無雑作に着て、ワンシーズンで捨ててしまうのがいいんだ、なんてうそぶいていた。

そういえば一緒にロンドンを旅行した時のこと、トレンチコートを買いたいという父を連れてバーバリー本店を訪ねた。さっそく店員に勧められたコートを試着し、「あっ、これで良い」。もっと他のも着てみれば、と思ったが、これにするの一点張り。その後に行った帽子屋も、靴屋でもそうなのだ。ファッションに一家言あるといいながら、最初に試したものを即購入。多分、試着が恥ずかしかったのでしょう。

照れ屋なくせに、人を驚かすのが好きだった。

ある年の結婚記念日には、母の留守中に幅2メートル近くある豪華な鏡台を内緒で運び入れプレゼント。以前、その鏡台の前で、素敵ねぇ、とつぶやいていたのを聞いたらしい。

クリスマスには、私の枕元まで重たい自転車を持ち込んだこともあった。部屋は二階で階段は狭いのに、イヴの夜、一人でどうやって運んだのだろう。

あの日のバラにお返しを


新潟3区の選挙戦で暴漢に刺されそうになった時はショックだったし、大島渚監督と殴り合った映像にも驚いた。しかしもちろんどんな出来事も、父が脳梗塞で倒れたことの衝撃には遠く及ばない。

私は父の手が好きだった。毛深いくせに、意外なほどしなやかできれいな指。

その手で三菱ユニの鉛筆を持ち、うずくまるように顔を近づけて一文字一文字、原稿用紙を埋めていく。


野坂昭如さんの作品は今も、読まれ続けている。「新編-「終戦日記」を読む」(著:野坂昭如/中公文庫)

リハビリを開始して13年間、再び自ら鉛筆を握ることはできなかった。

長い長い介護生活。母を中心に周りの者みんなで父を支えた。

一見悲劇的かもしれないが、自由奔放に生きてきた父が初めてもった穏やかな夫婦の時間ともいえる。生まれてすぐ実母を亡くした父は、妻との13年間で、すっかり昭如少年に戻って見えた。

私には父との忘れられない会話がある。

30年近く前、二人でリビングにいた時、女流作家の森茉莉さんの訃報が流れた。書斎で倒れ、発見されたのは死後2日目だった。

「麻央、ぼくはこんな風に死にたいからよろしく頼みます」

うん、わかった、軽く交わした会話だった。

誰だって長く寝付きたい人などいないし、思い通りに死ねる人もいない。

でも、父との約束は守れなかった。

私は父に会う度に、「どこか痛くない? 苦しくない?」と聞いたが、ただの一度も不平不満や愚痴をこぼしたことはない。

12月10日の朝、父が病院から戻って来た。

その顔は20歳くらい若返って笑みを浮かべているように、不思議なほど美しかった。

革ジャケットを着てボルサリーノハットを抱え、黒メガネをかけた父は多くの人が思い浮かべる野坂昭如そのもの。

私が結婚する日の朝、どこから調達したのか一本のバラを手渡して、幸せに、と言った父。パパごめんね、ありがとう、今度は私が一輪のカサブランカを、柩の中の冷たい頬に添えた。

野坂昭如さんが残した随筆「プレイボーイの子守唄」を併せて読む

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