司馬遼太郎と最強ヤクザ「殺しの柳川」の知られざる交遊

8月16日(金)16時0分 NEWSポストセブン

柳川次郎(撮影:山本皓一)

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 山口組きっての武闘派・柳川組を率いて、「殺しの柳川」として恐れられた柳川次郎(1991年没)は、堅気になった後、一転して日韓の橋渡しに奔走した。生前、柳川と交流した人物は、スポーツ選手から韓国大統領まで多士済々だ。なかでも異色の存在は作家・司馬遼太郎だった。ジャーナリスト竹中明洋氏が綴る。


 * * *

 司馬の代表作に国内外を訪ね歩いた『街道をゆく』がある。このなかに韓国を取り上げたものが2巻ある。1972年に単行本が出版された『韓のくに紀行』と、1986年に出版された『耽羅紀行』(たんらきこう)だ。耽羅とは、古代から中世にかけて済州島を支配した王国のことである。司馬は1985年に2回にわたってこの島を訪ねて取材した。


 だが、実際には司馬はビザの取得に難儀していた。申請したがすんなり出なかったのだ。今でこそ日本人が韓国に行くのに、ビザの取得は不要だが、日韓が相互にビザを免除するようになったのは、2006年からのことだ。


『韓のくに紀行』取材の際には、ビザは問題なく出た。なぜこの時はそうはいかなかったのか。どうやら、80年に司馬が当時の首相の鈴木善幸と外相の伊東正義宛に送った書簡が問題視されたようだ。


 クーデターで政権を奪取した全斗煥が野党指導者の金大中に死刑判決を出したことを受けて鈴木と伊東宛に書簡を送り、その助命を祈るとしたためていた。司馬は朝日新聞(1980年11月4日付)に、「だれが見てもバランスを失したかたちで一人の政治家が殺されることについては、市井人としての憤りと当惑とやるせなさを感じます」とも語っている。


 全斗煥政権は司馬を危険視したのだろう。このままでは取材に行けない。その司馬に「(全斗煥と繋がりの深い)柳川と会ってみたらどうか」と助言したのが、かねてから司馬と親交が深かった、ある在日の文化人だ。司馬からの打診を人づてに聞いた柳川は、すぐに会うことを決めた。柳川の元側近によると、「会長は意外とミーハーなところもあって、えらいはしゃぎようで喜んでましたわ」。


 さっそく、新宿の京王プラザホテルで午後6時に待ち合わせすることになった。だが、待てども司馬は現れない。時間に厳しい柳川は、約束の1時間前には到着する。そして相手が10分でも遅れるようなら怒りだすところがあった。


 約束から30分ほど経たあたりだろうか。司馬と、紹介者の在日文化人が悠然と歩いてくる姿がみえた。どうも待ち合わせの場所を勘違いしていたらしい。元側近は、「それを知った会長は私に向かって『お前の手違いやろう』とカンカンになって怒り出したんです。それを見て司馬さんも『そんなことで怒るな』いうて怒りだして。もう無茶苦茶でしたよ」。


 とにかく泉岳寺のコリアンハウスで夕食をしようということになって、タクシーで向かった。助手席に柳川が乗って後部座席に残る3人がぎゅうぎゅう詰めで座った。そうこうするうちに、車内に不思議な笑いが起き始めた。


「どちらからともなく、『あんたも大概短気やな』と言い出した。大の大人がこんなことで言い争いしててもしょうもないということにやっと気付いたんでしょう。それからは急に意気投合したんですわ。泉岳寺につくなり司馬さんらの話を聞いて、会長は『分かった』と頷いてましたわ」


 すぐに柳川の根回しでビザが下り、司馬は、在日文化人とともに取材旅行に向かうことができた。在日が多く住む東大阪に居を構えた司馬には、在日の友人が多い。大阪には「4・3事件」(1948年4月に済州島で起こった民衆蜂起と、その武力鎮圧にいたる一連の事件)によって、韓国を出た済州島出身者が多い。いわば、この書は友人たちの祖国を本人たちに代わって訪ねる書でもあり、島の習俗を観察する司馬の優しい目線が印象的である。


 元ヤクザと国民作家、互いに共通する何かを感じ取ったのだろう。立場も出自も異なれど、志さえ共有できれば人として接することができる。それが昭和という時代だった。


*『殺しの柳川』(小学館)を再構成。同書刊行イベント「最強の武闘派ヤクザ・柳川次郎とは何者か」(竹中明洋氏×山根明氏対談)が8月23日にジュンク堂書店大阪本店にて行われます。(詳細→https://honto.jp/store/news/detail_041000036076.html?shgcd=HB300)

NEWSポストセブン

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