中国共産党の拷問に耐えた“最後のサムライ” その壮絶人生

8月17日(金)7時0分 NEWSポストセブン

帰国後の父・善治氏と母。日本政府は冷淡だった

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 1945年8月15日以降も、シベリア抑留など、多くの日本人が「終戦」を迎えられなかった。だが、彼ほど最後まで戦った日本人はいない。最後の帰還兵・深谷義治氏の壮絶な人生を、息子の敏雄氏が語った。


 * * *

 日本国最後のスパイと呼ばれた父が亡くなったのは2015年春のことです。終戦後も中国に潜伏して諜報活動を続けた父と私たち家族が日本に引き揚げてきたのが1978年。それから36年。99歳で息を引き取るまで、日本のために戦い続けた人生でした。


 父の死後、私は島根県の実家を整理しました。すると戦前に父が頂いた叙勲賞状や明治天皇の肖像画などとともに、御朱印帳が保管されていました。それは、歴代天皇が眠る御陵のご朱印を集めた戦前の集印帳でした。


 遺品の数々を見て、分かった気がしました。なぜ父が最期まで日本に忠誠を尽くしたのか、と。


 1915年に島根県大田市で生まれた父は、貧しかったために中学を中退して大阪で働きはじめました。遺品のなかに当時の思い出を綴った広告チラシがありました。チラシの裏には、こう記されていました。


〈1カ月2回の休みのほとんどは近畿地方の御陵参拝に行った。朝、3時半ころ起床し、自転車で奈良の御陵に行き、参拝。次に京都の御陵に行き、さらに大津の御陵参拝を終え、夜9時半ころに大阪に帰ったときは自転車のサドルの摩擦で出血し、小便に困った。3年間の丁稚奉公の間に神武天皇以来、122代天皇の御陵のなか118代の天皇御陵の御朱印をもらった〉


 戦後も中国に残った父は最後のサムライとも呼ばれました。サムライが持つべき主君への忠誠心をそうやって培っていったのです。


 22歳のときに応召して中国大陸の戦場に向かった父は、翌年陸軍の憲兵試験に合格しました。その後、上海出身の母と結婚し、スパイとして中国の諜報活動や、現地の貨幣市場の混乱を狙った紙幣偽造などに従事しました。


 そして8月15日。敗戦後に上官が父に発した「上海で任務を続行せよ」との命。その命令が父と私たち家族の運命を大きく変えました。


◆10cm縮んだ父の身長


 中国人の尤志遠と名乗った父は、母との間に3男1女をもうけていました。子ども連れならスパイと疑われにくい。いま思い出すと私たちと出かけた先で、協力者と思しき人物と接触する父の姿を覚えています。


 けれど共産党政権になると反革命分子への風当たりが強くなりました。父は中国の公安警察に尾行されていると気づき、こんな懸念を持ったそうです。単なる戦争犯罪者ならすぐに逮捕するはずだ。でも泳がせて尾行を続けるのは、戦後もスパイを続けている疑惑を持ち、協力者も一網打尽にするつもりなのだろう、と。


 潜伏生活13年後の1958年。父はついに逮捕されてしまいました。私たちが暮らした家も捜索されましたが、証拠は何一つ出てきませんでした。父は必要な情報はすべて記憶に刻み込み、メモなどは残していませんでした。日本との連絡が断たれたあとも憲兵学校で学んだ工作員の基本を忠実に守っていたのです。


 父は取り調べで戦中のスパイ活動は認めたものの、戦後の諜報活動については一切を黙秘しました。白状すれば、すぐに釈放されたはず。なぜ、白状しなかったのか。それは、戦後のスパイ活動が国際法違反だからです。父は日本に泥を塗ってはならないと信念を貫き、口を閉ざしました。


 もちろん中国公安は納得しません。拷問が繰り返されました。零下6度から7度の獄舎で身につけていたのは1枚の衣類だけ。20年に及ぶ獄中生活の栄養不足と強制労働で、身長が10cmも縮んでしまいました。


 私たち家族も「日本の鬼の子」「反革命分子」と蔑まれ、差別を受けました。兄は無実の罪で9年間も投獄され、家財道具を売って手に入れたわずかな食べ物で餓えをしのぎました。


 父はすべてを白状すれば、拷問から解放されて、私たち家族や日本に残した祖母とも再会できると分かっていたはずです。家族との再会と国の名誉その2つの選択の狭間で父はとても苦しみました。


 20年ぶりに父と面会した私は、変わり果てた姿に驚きました。けれどこうも感じました。父はスパイとして、いえ日本人として信念を持っていたからこそ、拷問に耐え抜けたのではないか。その信念を支えたのが、子どものころから培った天皇陛下への忠誠心。戦後も帰国せず、たった1人で日本のための極秘任務を続けていたからこそ、純粋な忠誠心が薄れることがなかったのではないでしょうか。


 1978年の日中平和友好条約締結で父と兄は特赦を受け、私たちは帰国できました。でも何者かが父の軍人恩給を横領していたため、夢に見た祖国でも苦しい生活を強いられました。それでも父は戦後の活動については何も語りませんでした。死ぬまで秘密を守って、日本の名誉を汚さなかったのです。


 そんな最後のサムライに対して国は冷淡でした。私は生きているうちに国から父に「ご苦労様」と一言、労ってほしいと願っていました。でも実現されずに父は逝ってしまいました。私は父について語り、書くことで、父の思いを継いで、無念を晴らしたいと考えているのです。


●ふかたに・としお/1948年、中国上海生まれ。深谷義治氏の次男。1978年、一家で日本へ帰国。著書に、『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社文庫)がある。


■取材・構成/山川徹(フリーライター)


※SAPIO2018年7・8月号

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