『白い巨塔』の変遷にみる 日本の希薄化【前編】

8月29日(火)7時0分 文春オンライン

複雑にして単純


 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。


 先日、ニューヨークに出張に行った際、帰りの飛行機の中でテレビドラマ『白い巨塔』の唐沢寿明版というのがあったのを知り、原作の続編に当たる第2部の11回分を一気に観ることができた(財前が教授になるまでの第1部は残念ながらなかった)。ニューヨーク→東京は14時間のフライトなので、全部観るのにちょうどよかった。


 山崎豊子の傑作長編社会派小説『白い巨塔』。ご存知の方も多いと思うが、「浪速大学」という国立大学の医学部を舞台に、同期生である2人の医師、財前五郎と里見脩二という対照的な人物の対立を通して、人と人の世の宿痾と矛盾をこってりと描く重厚なドラマである。


『白い巨塔』山崎豊子

 財前は食道噴門癌の若き権威として自他ともに認める浪速大学医学部のエース。卓越した技量と実績に裏打ちされた自信。これ以上ないほど野心家でアクが強い性格。ギンギラギンにさり気ある男である。


 一方の里見は正反対の人柄。慎重にして理知的な研究一筋の学究肌で、いつも患者を第一に考えて行動する誠実無比の人物として描かれる。


 作者の山崎豊子はやたらに冗長で説明的な書き方をする人で、紋切り型のフレーズも多用する。小説家としてはそれほど文章が巧いとは思えない。しかし、話がとにかく面白い。読みだしたら止まらない。一日で一気に読み終えたことを覚えている。


書斎で執筆中の山崎豊子 ©文藝春秋

 なんでこれほどまでに面白いのか。その理由は登場人物の造形がやたらと単純明快なところにある。財前はひたすら野心家で自信家なワル。里見はひたすら真面目で誠実で謙虚な学究の徒。財前五郎を庇護する義父の又一はひたすら強欲なカネと名誉の亡者。財前の所属する第一外科の主任教授の東はひたすらプライドが高く保守的な形式主義者。医学部長の鵜飼教授はひたすら学内政治にかまける権力主義者。


 それぞれに思考と行動の様式が一貫していて、その人の内部での葛藤や陰影というものがきれいさっぱり捨象されている。善人は徹底的に善良で誠実、悪い奴は徹底的に悪い。人物像の設定がいい意味で平板である。だからストーリーの軸となる対立と葛藤がわかりやすすぎるぐらいわかりやすい。読者はよどみなく読み進められる。この長く複雑な話に複雑な性格の登場人物が次々に出てこられたら、わけがわからなくなる。『白い巨塔』はそこが上手い。構成要素においては単純、プロセスにおいては複雑、最終的な提供価値においては再び単純。優れたエンターテインメント小説のひとつのパターンである。



昭和の濃さ


 小説があまりに面白かったので、翌日すぐにビデオを借りに行き(1980年代にはまだDVDはなかった)、映画版の『白い巨塔』を観た。これがまた小説に勝るとも劣らない大傑作である。当然のように、1966年のキネマ旬報ベスト・テンの第1位に選ばれている。


 社会派で鳴らした山本薩夫監督がその本領を十二分に発揮している。小説にほぼ忠実な筋書きは150分近くの長尺を必要としている。しかし、省略が巧い。場面の切り替わりのテンポがいい。劈頭から話がスピーディーに展開し、まったく飽きるということがない。長編映画の見本のような筋運びだ。


 何よりも秀逸なのがキャスティング。私見では、この映画の成功は7割がキャスティングに依存している。ご覧になった方は完全に同意していただけると思うが、田宮二郎の演じる財前五郎、これはもう世紀のハマリ役としかいいようがない。浪速大学という国立大学が実在して、その第一外科に本当に財前五郎というエグい助教授がいて、その人をそのまま撮影したドキュメンタリなのではないかという気にさせられる。田宮二郎こそ財前五郎。財前五郎こそ田宮二郎。完璧である。


田宮ニ郎こそ財前五郎 ©文藝春秋

 主役の田宮だけではない。鵜飼医学部長役の小沢栄太郎、前医学部長で学究肌の大河内教授役の加藤嘉、財前の情婦の花森ケイ子役の小川真由美、財前又一役の石山健二郎、医師会長の岩田重吉役の見明凡太朗、そして教授選で東教授と組む(つまり財前一派の敵方に回る)東都大学医学部教授にして日本医学会の大ボス、船尾教授役の滝沢修がそれぞれに濃厚な演技で火花を散らせる。とにかく演技の濃度が異常に高い。


 一方、里見役の田村高廣はいつものっそりとしていて生気がない。やる気があるのかないのかわからないような演技に終始するが、これもまた里見助教授らしくて悪くない。東教授の娘、東佐枝子役は若き日の藤村志保。このころはまだキャリアが浅かったからか、ほとんどセリフ棒読み状態なのだが、これもかえって堅い大学教授の家の真面目なお嬢さま、という感じがしてイイ。


藤村志保 ©文藝春秋

 東野英治郎の東教授は、その外見だけ見ればミスキャストだろう。代々続く医学者の名門一族の当主というよりも、田舎のおじさんにしか見えない(ただし、油断していると今にも印籠を出しそうなので観ていて緊張する)。しかし、そこは持ち前の懐深い演技力で乗り越えている。映画が始まって30分もたつと田舎のおじさんが権威主義的な老教授に見えてくるのはさすがだ。


 特筆すべきは石山健二郎と滝沢修の演技だ。昭和日本映画史に残る名演だと思う。「昭和オールタイム日本アカデミー助演賞」というものがあったとしたら、この2人は必ずノミネートしたい。


 石山は知る人ぞ知る昭和の怪優。黒澤明監督の『天国と地獄』の部長刑事役が有名だが、僕の大スキな東映仁侠映画にもちょくちょく脇役(たいていは太っ腹の親分や大物の役)で顔を出す。戦前の新国劇出身で、どんな映画に出てもとにかくアクが強い。『白い巨塔』でもそうなのだが、ときどきどこを見ているのかわからないような目線で演技をするクセがある。これがたまらなくイイ。


 滝沢は戦前に築地小劇場に参加したのを振り出しに、東京左翼劇場、新協劇団を経て、東京芸術劇場と劇団民藝の立ち上げを主導した筋金入りの演技派である。その重厚でリアルな演技は「新劇の神様」と称された。この人は芝居の基礎となる発声が抜群にイイ。船尾教授役は円熟期を迎えたリアリズム俳優の堂々たる演技で、心底シビれさせるものがある。


 娘婿の財前が晴れて教授に選出され、祝賀会で喜びのあまり踊り出し、「女の患者のドブ浚えしてカネ貯めた甲斐がおましたー!」と嘯く石山。終盤の誤診裁判の法廷で威風堂々と自説を開陳し、「財前教授にも責任がある!」と一喝する滝沢。この2つの場面は『白い巨塔』の白眉である。あまりにイイのでDVDで繰り返し観る。何度観ても練りに練られた名演に唸らされる。



大衆のハートを鷲づかみ


 このシリアスな作品がエンターテインメントとして当時の幅広い層の観客に受けたのは、上述した人物造形のシンプルさに加えて、「持てる者対持たざる者」というストレートな対立の図式が大衆の心情に大いに訴えたからだと思う。財前親子や鵜飼、東、岩田といったワル連中は地位も権力もカネもある。それと対峙する里見や後半の誤診裁判の原告になる佐々木庸平の遺族、支援する弁護士、こうした反財前の側に立つ人々はいずれも清貧で欲がなく、コツコツと真面目に働く善良な市井の人である。


「サンデー毎日」での小説の連載が1963年から65年、映画の公開が66年。「総資本対総労働」の激突となった三池争議の余韻が世の中に残っている時代である。現在の日本でも「格差社会」が問題になっているが、ジニ係数(所得格差を示すのに使われる代表的な指標で、値が大きいほど格差が大きいことを示す)でみれば1960年代前半の日本は今よりも格差社会だった(ちなみに戦前の日本のジニ係数はさらに大きかった)。持てる者と持たざる者の開き、エラい人とフツーの人の距離は今よりもずっと大きかったのである。


 権力者や資本家は地位とカネにものを言わせていい思いをしている。高度成長期の歪みの中で、善良な労働者や市井の人々は犠牲となり、ワリを食っている。持てる者の腐敗と欺瞞を糾弾し、持たざる者の誠実と善良に光を当てる人間ドラマは、さぞかし当時の人々の心に刺さったことだろう。実際に『白い巨塔』はその後の東大医学部に端を発する東大紛争にも大きな影響を与えたといわれている。


東大紛争で逮捕される学生 ©文藝春秋

 小説の『白い巨塔』はそもそも財前五郎の誤診裁判の第一審の無罪判決が出るところで完結していた。財前が完全勝利を収め、里見は一人さびしく白い巨塔を去る。ところが、このエンディングに対して読者は悲憤慷慨した。「悪辣な財前が勝ち、善良な里見がすべてを失う。こんなことがあっていいのか! 神も仏もないじゃないか……」というわけだ。


 こうした声を受けて、山崎豊子は『続 白い巨塔』、すなわち財前が二審で一転して敗訴し、無理がたたって癌に倒れるという続編を書かざるを得なかった。小説作品としては正編でスパッと終わる方がイイに決まっている。山崎にしても続編は本意ではなかった。しかし「作家としての社会的責任を考えれば、小説の成果の危険をおかしてでも書くべきである」として、続編の執筆に踏み切っている。「社会的責任」を作者に感じさせるだけの反響があったということだ。


 シリアスな社会派ドラマでなくても、60年代までの日本の娯楽映画には大衆=労働者をターゲットとしていたものが多い。この傾向は(またしても僕の趣味の話で恐縮ですが)東映仁侠映画でいよいよはっきりする。「東映は背広を着てネクタイを締めて出てきただけでもう悪役」というのは、僕の大スキな映画史研究家、春日太一氏の洞察である。


「とにかく労働者をスカッとさせる」「日常生活の憂さ晴らし」、東映の経営陣はこれを映画製作の基本方針としていた。身も蓋もない話だが、そこが娯楽映画のマス・マーケットであり、いちばん儲かるからである。


 東映と比べると東宝の娯楽映画はずっと都会的で洗練されていたが、それでも「無責任男」の植木等は社長や上司のお偉いさんを徹底的にコケにしていた。60年代の東宝の屋台骨を支えた「若大将」の加山雄三は老舗のすき焼き屋の坊ちゃんにしても、恋人の澄ちゃんは職業婦人、ありていに言って労働者である。大会社の社長の息子、青大将の田中邦衛はもちろん間抜けな役どころ。東宝映画だから青大将は「いろいろバカなことをしでかすけれど、最終的には憎めないイイ奴」で済んでいるが、これが東映だったらイの一番に高倉健(もしくは鶴田浩二か藤純子)にぶった切られているはずだ。


(後編につづく)


(楠木 建)

文春オンライン

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