賛否両論の「全裸監督」原作ファンが見た、ドラマ化で失われたもの、立ち表れたもの

9月5日(木)11時0分 文春オンライン

 村西とおる。裏本の時代においては、SPAと呼ばれるユニクロやGAPさながらに、制作・印刷・流通・小売を一手におこない、アダルトビデオの時代になると、まだ撮影機材が軽量化される以前にもかかわらず、監督みずから大きなカメラを担いで出演。「ナイスですね」で知られる軽妙な喋りで「セックスという世界に、初めて笑いを持ち込んだ人類史上初の男となった」(注1)であった。


 いうなればエロメディアの変革者であった。そして逮捕を繰り返しながら帝王と呼ばれるまでに登りつめていった。しかし型破りな人間の常で、そこから反転、会社倒産で借金50億円を背負うまでに堕ちる。それでも挫けることなくパンツ一丁でカメラの前に立ち続けるのであった。


 こうした浮き沈みの記録を、村西とおるを追い続けた本橋信宏がまとめたのが『全裸監督』(太田出版・2016年)である。この8月、それを原作にした同名のドラマがNetflixで公開されるなり、賛否両論を巻き起こす。






舞台設定からして原作とは違う


「村西軍団が事務所を構える歌舞伎町のセット。あれはそのまま再現したというより、当時の新宿のいかがわしい場所を集約した感じになっています」と、ドラマ「全裸監督」の総監督・武正晴は雑誌のインタビューで述べている(注2)。


 ドラマでの「サファイア映像」のモデルとなる「クリスタル映像」は、実際は神楽坂の矢来町などに所在した。しかし作劇においては舞台を歌舞伎町にする。クリスタル映像が歌舞伎町の風俗店「クリスタル」に由来していることもあろうが、80年代という時代の特異性を現すためであったろう。



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 80年代、とりわけその前半というのは、ノーパン喫茶が一世を風靡し、写真週刊誌「FOCUS」が発行部数200万部を記録する、いわば狂乱とスキャンダルの時代である。しかもそれは滅びに向かう、退廃の色をおびた熱狂であった。ドラマはこの強烈な時代そのものを歌舞伎町という街で表現しているともいえよう。


 舞台を変えるばかりではない。ドラマは原作なり事実なりとだいぶ異なる。



 原作をどこまで脚色していいかは原作者の許す限りにおいてであるが、本作はかなりそれを行っている。言い出せばきりがないが、ドラマでは勝負を賭けてハワイロケを敢行するが、実際は原作にあるように頻繁に海外ロケをおこなっているし、ドラマの肝となる「SMぽいの好き」は黒木香の初めてのAV出演作として描かれるが、実際はそれ以前に他のメーカーのものに出演している。



 主要な人物についても同様で、敵役・ポセイドン企画の池沢のモデルに相当する人物はいない。そのものはいないが、原作にも登場する「裸の巨人」(注3)・山崎紀雄をモチーフにしているだろう。


 山崎紀雄はシャガールやルオーなどの絵画を愛し、オフィスでピアノを弾くなどした芸術肌の人物で、美少女もののAVメーカー・宇宙企画やエロ本「デラべっぴん」の版元である英知出版の経営者であった。ドラマを見た方は、ちりばめられた山崎紀雄に由来するモチーフにピンとくるに違いない。


Netflix版「全裸監督」は「実録もの」だ


 いわばドラマ「全裸監督」は「実録もの」である。“実録”と言われると事実に沿ったものだと思おうか。しかし「実録もの」は言うほど事実に沿いはしない。


 たとえば東映実録路線のひとつ「北陸代理戦争」は北陸の帝王と呼ばれたヤクザの半生を描いたものだが、伊藤彰彦『映画の奈落』(国書刊行会・2014年)が綿密に検証しているように時系列を壊して、順番を入れ替えながら作劇していったものである。すなわち事実を再構築しながら創作する手法ともいえる。


 ドラマ「全裸監督」は80年代という時代そのものの「実録もの」であったろう。それはVHS・ベータ戦争という日本の家電メーカー同士の覇権争いがおこなわれるなど日本経済の絶頂の時代を背景に、裏街道をいくエロ事師たちが合法・非合法の境界線上をたくみに駆け抜けようとするピカレスクである。そして「」つきの「村西とおる」に、80年代という時代性を照射したのである。



 これがなぜ賛否両論を引き起こすのか。



 その昔のAVをめぐる問題というのは、ボカシが濃い/薄い、本番/疑似本番といったものだ。その境界線を越えると世間は熱狂するいっぽうで、警察はそれを「わいせつ」と見なしては取り締まる、すなわち表現の問題であった。今となっては牧歌的な話である。ところが今日における論点は、出演強要が「女性に対する暴力」にあたるとして政府が乗り出すなど、人権の問題となっている。


 こうした今の時代にドラマ「全裸監督」である。ひとによってはここに警察と対峙しながらもエロに生きる男たちのピカレスクの物語を見るが、ひとによってはそこに人権問題の不在を見るのであった。


作中ではAV業界の影も描かれるが……


 そこではAV業界の光と影の、影が描かれていないわけではない。とはいえ、裏流出や警察の買収などを他の人物に背負わせることで「村西とおる」を主人公として守ったかのようである。


 たとえば最近の事例だと映画「破門」の主人公はヤクザ者であっても、カタギから金をむしったり、クスリをシノギにはしない。だからメジャー映画の主人公に据えられる。いうなればコンプラ的なアウトローだ。





 そんなふうに、ドラマの「村西とおる」もアウトローの世界のなかでの正義として存在する。逮捕は逮捕でも、裏本のわいせつ図画販売目的所持罪やハワイでの逮捕は描かれても、未成年者のAV出演による児童福祉法違反での逮捕が取り入れられていないのは、笑えないからだろう。


村西とおるは象徴であっても、勝利者ではない


 また原作では、村西とおるの現場になんの撮影かも知らずにきて、錯乱し童謡を歌い出す者までいたとの逸話を引き合いにして、著者の本橋信宏は「彼女たちが所属するプロダクションは撮影現場で何をするかわかっていたが、現地でなんとか村西監督に説得してもらえば脱ぐだろうという、他人任せのところもあった」と記す。いわば村西とおるは出演強要のための機能でもあった。そうしたことは当時のAV業界においても「黒い噂」として捉えられていたとある。


 ドラマに対する批判は、むかしからAV業界が内包してきた問題そのものへの批判でもある。そうした問題もあって、業界自体が衰退に向かう。そんなAVの歴史を俯瞰で見れば、村西とおるはひとつの時代の象徴ではあっても、勝利者ではない。


 では誰が勝利者なのかといえば、DMMの亀山敬司だろうか。AVでの利益を原資にして金融やゲーム、はたまた自然エネルギーや葬儀など事業を広げてコングロマリット化に成功し、見事、勝ち逃げしようとしているのだから。


(注1)本橋信宏『全裸監督』太田出版・2016年

(注2)BRUTUS特別編集「合本 危険な読書」マガジンハウス・2019年

(注3)山崎紀雄の評伝に阿久真子『裸の巨人』双葉社・2017年がある。



(urbansea)

文春オンライン

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