“セガが好きすぎるセガ社員”奥成さんってどんな人? セガのやり過ぎ(!?)企画の裏につねにこの人あり!

9月9日(月)11時36分 電ファミニコゲーマー

 昔ながらのセガファンには、独特の“熱量”がある。

 そしてセガもまた、その熱量に応えるかのように、ファンを唸らせ、狂喜させるクラシック企画を送り出している。
 熱いファンに応えることのできるセガ社員もまた同じように──いや、それ以上に“熱い”に違いない。その一人が奥成洋輔氏だ。

奥成洋輔氏

 中学生のときにセガ・マークIIIと出会った奥成氏は、『北斗の拳』『ファンタジーゾーン』に大ハマリ。地元の友人たちに布教をはじめ、「みんながファミコンではなくセガ・マークIIIを持っている」という世界を実現させていた。
 
 大学時代は家に友達を呼んで、徹夜でメガドライブを遊ぶという暮らしを送る。そんなセガ三昧の青春を送った奥成氏の持つこだわりと知見は、コアなセガファンを唸らせ、 “やり過ぎ(!?)”と賞賛されるものを世に送り出してきた。
 
 ニンテンドー3DS『セガ3D復刻プロジェクト』や、プレイステーション2での「SEGA AGES 2500」後期プロデューサーを務め、セガのクラシックタイトル復刻系プロジェクトで“こだわりの影に常にこの人あり”と言われる存在となっている。

 あふれるセガ愛とこだわりによって、またしても往年のゲームファンを熱狂させた「メガドライブミニ」。その収録タイトルを決めていたのは奥成氏だ。

『メガドラタワー』を再現できるデコレーションキット『メガドラタワーミニ』まで発売!思わず笑ってしまうような“やり過ぎ”が、ゲームファンを喜ばせる
(画像は『メガドライブミニ』びっくり話 – YouTubeより)

 その“暴走っぷり”に往年のセガファンからは、「俺たちが好きだったセガ!」、「セガは頭がおかしい!(!?)」といった言葉が贈られた。

 奥成氏のセガへの強いこだわりはどこからきたのか?
 そのルーツを探るべくインタビューを行い、どんな少年時代を過ごし、いかにしてセガファンとなっていったのか、入社後の歩みから、現在の仕事に至るまで、たっぷりとお聞きした。

 “セガが好きすぎる社員” 奥成さんのヒミツに迫った!

聞き手/山村智美、なかJ
文/山村智美
編集/実存


往年のセガファンを熱狂させた『メガドライブミニ』収録タイトルには、奥成氏の「これぐらいしないと!」という気持ちがこめられている

中央が奥成洋輔氏
(画像は『メガドライブミニ』びっくり話 – YouTubeより)

──SNSを見ると、『メガドライブミニ』収録タイトルの発表を観ていたユーザーの皆さんがとても盛り上がっていて、変な言い方になってしまいますが、「メガドライブが好きな人ってこんなにいたのか!」とあらためて驚かされたほどでした。
 奥成さんは、そうしたセガのクラシックタイトルを楽しみにしているユーザーの数や、その性質について、どのように考えられているのでしょう?

奥成氏:
 以前に調べてみて面白いなと感じたことなのですが、セガサターンで発売された『SEGA AGES スペースハリアー』と、ニンテンドー3DSでのセガ3D復刻プロジェクトで『3D スペースハリアー』を出したときの販売本数は、そんなに変わらなかったんですよ。

 それを見て、「実は、同じ人たちがずっと買っているだけなんじゃないか!?」って(笑)。

──そんな(笑)。

奥成氏:
 実際は25年ほどの間に、ゲームを卒業した人もいれば、戻ってきた人もいるんですけど。本来はクラシックゲームを求めるユーザーさんって基本的に増えることはないんですよね。減ることはあっても。
 なので『スペースハリアー』ファンは不滅なんだなあと。それがセガファンなのかもしれません。

 セガは自社ハードを展開してゲームを出していた時代があり、ハードがいわばシンボルでした。そのシンボルと共に当時のセガのゲームを楽しんだ人は原体験をそのままに、今でもセガのことをどこかで気にしてくれているのかなと思うんです。

 『メガドライブミニ』の発表では、皆さんの中にあるそういう「セガ愛」がうまく蘇ってくれたのではないかなと思いますね。

──奥成さんが直接的にプロデュースに関わっている仕事は、“やり過ぎ!(!?)”と反応されるぐらいに、当時ファンだった人達の満足度が高いと感じます。どんなことを意識されているのでしょう?

奥成氏:
 “当時、このゲームのこういうところが好きだって感じていたなぁ”から入って、それを軸に「これぐらいしないとっ!」っていうことをいつも考えていますね。
 「これぐらいしないとファンの心は動かないだろう」っていうポイントってあるじゃないですか? 限られたリソースでそこを上手く期待を越えられるようにプロデュースしていかなければと思ってやってきました。

 あとはもちろん、私のやりたいことをセガがやらせてくれていて、チャレンジさせてもらえてるところも大きいですね。「損しないならやればいいじゃん」、「それでお客様が喜ぶのならやってもいいんじゃない」という感じで。

 そういった面で他社よりもやれることの自由度が高かったんじゃないかなって思うんですよ。
 もちろん目標などノルマもありますが、それ以外の隙間のところでうまくやれば、いいものができるというか。出てきやすいのかなって思います。

──このゲームのこういうところが好きだったと感じていたものを今も軸にできている……。その“好きだったところ”は、かつての“セガらしさ”だったり、ひいては“テレビゲームらしさ”を感じられるポイントと同じところかもしれないですよね。

奥成氏:
 ターゲットが当時の自分なのでわかりやすいですよね(笑)。でも他社で同じ仕事を任されたとしても、同じようにやれるかどうかは分からないですよね。

 そこはセガという会社が、或いは私の仕事してきた環境が、自由にやらせてくれてきたからこそなんだと思うんです。
 そのおかげで、自分がプロデューサーとしてクレジットされているタイトルについては、自信を持ってお出しできたと思っています。

──なるほど。奥成さんの今のお仕事についてですが、Nintendo Switch『SEGA AGES』ではスーパーバイザーとしての参加で、あくまで別の仕事がメインにあるんですよね? どんなお仕事なのでしょうか?

奥成氏:
 現在はアジア事業部というところにおります。台湾や香港、韓国などに、セガ以外の日本の他社さんのゲームをお借りして、ローカライズして発売する仕事です。

──それは、セガのクラシックタイトル展開とはまただいぶ違った仕事ですよね?

奥成氏:
 はい。アジアのお客さんの嗜好を理解しようと日々奮闘中です。ですがこれがまた、ひょんなことからメガドライブ関連の話が転がり込んできたんですよ。
 というのも、うちの部署では、AtGamesという海外の会社へのメガドライブのライセンスアウトの窓口もやっていたんです。

──AtGamesというと……『メガドライブミニ』以前に、海外向けのメガドライブ互換機だった『セガジェネシスフラッシュバック』を手がけていた、あの会社ですか?

奥成氏:
 そうです。で、私がアジア事業部に異動してきたのがそれの完成間近という頃で、ちょうどいいからと社内レビューを僕が書くことになりまして。それなら本気を出そうと、色々と改善要望も出しました。
 ただ、実際はもう製品の完成間際でしたので、ほとんど間に合わなくなくて。「こういう話がまたあるようなら、今度は立ち上げ時から参加させて欲しい」と部長にお願いしていたんですよ。

 そうしたら、しばらくして会長の里見治紀から、「『メガドライブミニ』をセガフェス2018で発表するぞ!」という鶴の一声がありまして、そこでうまいこと僕もプロジェクトの立ち上げに加わることになったのです。

2019年にセガファンを熱狂させている話題と言えば、『メガドライブミニ』。こだわりと収録タイトルに、奥成氏の知見や積み重ねが集約されている
(画像はメガドライブミニ | セガより)

──『メガドライブミニ』の最初の発表時点から奥成さんは参加していたんですね。

奥成氏:
 実はそうなんです。以前のままの開発部門にいたなら、参加してなかったかもしれませんね。

──発表当初、AtGamesが『メガドライブミニ』の開発をするという噂はどこからか流れていましたよね。それで、クオリティに不安があるという声も挙がっていたと記憶しています。

奥成氏:
 
 僕も『セガジェネシスフラッシュバック』を発売前から見ていたので、海外の人はおおらかだなとは思っていました(笑)。
 ところが発表したら、海外からの要望の声が凄くて。結局その声に動かされるかたちで、国内版だけでなく海外版も製作することにまでなったんですよ。

──アジア事業部でライセンス品の評価をしていた結果、『メガドライブミニ』のプロジェクトにも奥成さんが加わっていけたというわけですね。

奥成氏:
 気がつくと自分でメガドライブを作れることになって。不思議な感じでしたね(笑)。ちなみに『メガドライブミニ』はひとつの部署でやっているわけではなくて、いろんな部署からのメンバーが集められているんですよ。

──精鋭というか、『アベンジャーズ』みたいな。

奥成氏:
 参加メンバーの癖の強さということでなら、ある意味そうかもしれませんね(笑)。『メガドライブミニ』では、部長とか平社員とかも関係なく、その分野に精通しているメンバーが集められているんです。

──奥成さんは『メガドライブミニ』では、どういうポジションになっているのでしょう?

奥成氏:
 『メガドライブミニ』では、“コンテンツリード”というソフトウェア側の責任者です。ハード設計やデザインの責任者は僕ではなく、別のエキスパートがおります。あくまでソフトウェア……つまりエムツーさん【※】が作っている部分の責任者です。

※エムツー
千葉県我孫子市にあるゲーム制作会社。代表の堀井直樹氏とセガの奥成氏とのコンビで、セガの数々のクラシックタイトル復刻に取り組んできた。『メガドライブミニ』の収録タイトル移植は全てエムツーが手がけている。

──なるほど。『メガドライブミニ』は、まさに奥成さんとエムツーさんがこれまでにやってきたメガドライブタイトル移植の、ひとつの集大成と言えますね。

奥成氏:
 そうですね。いろんなことをやってきたら、全部の仕事が繋がっていたというような。

──ちなみにアジア事業部での普段のお仕事も、今もあるんですよね?

奥成氏:
 それはもちろんあります。でもここ半年ぐらいはメガドライブミニの仕事しかしてなくて、上司は「早く帰ってきてー!」って言ってます(笑)。

──(笑)。奥成さんは現在はアジア事業部の人でありいろんなタイトルのアジア展開をプロデュースしつつ、『メガドライブミニ』ではコンテンツリードとしてソフト開発をして、Nintendo Switch『SEGA AGES』ではスーパーバイザーをしていて。いろんな顔があるわけですね。

奥成氏:
 そうですね。Nintendo Switch『SEGA AGES』では、本当に部分部分で口を出しているだけなので、開発しているというのはおこがましいですけどね。あ、公式サイトの紹介文を書いたり雑用だけなら少々(笑)。

──奥成さんは、プロデューサーをどのような仕事と思われているのでしょう?

奥成氏:
 プロジェクトの支配者であり、雑用係です(笑)。どのプロジェクトでもプロデューサーがプロジェクトを興さないとスタートしませんし、プロジェクトを自分の好みで構成することができるのですが、そのためにはクリエイティブなこともそうでないことも全部決めて実行しないといけません。

 プロデューサーの仕事やパブリッシャーの名前って、ゲームファンにとっては軽視されがちな部分だと思うんですよね。「このゲームは誰が作ったの?」って話になったときに、「セガと書いてあるけど開発はエムツーだよね」って。

──デベロッパー側のディレクターが、本当の意味で作った人だ、という。

奥成氏:
 実際おおむねその通りなんですけど、例えば映画で言うと、同じ監督の映画でもプロデューサーがスピルバーグだったりすると、普段のその監督の映画とは違った作風になってたりするじゃないですか。
 ああいう感じでゲームのプロデューサーやパブリッシャーも、少しだけチェックしておいてほしいなって思います(笑)。

──エムツーの堀井さんが、メガドライブミニの収録タイトル最後の発表のあとに、まさにそのようなことを考えさせられるようなツイートをされていましたね。

奥成氏:
 これが一人なのか1つのチームなのかはともかく、今回のメガドライブミニは、セガの強い熱意に応じて、エムツーさんが素晴らしい仕事をしてくださったことは間違いないですね。

──『メガドライブミニ』の収録タイトル選びや、3DSでの『セガ3D復刻プロジェクト』でのこだわりなど、奥成さんのセガのクラシックタイトルへのこだわりには、セガタイトルへの愛というか、セガのゲームが本当に好きなんだなと感じさせるものがあります。
 そもそも、はっきりとセガのハードやゲームが好きだなと思えるようになったのは、いつ頃だったのでしょうか?

奥成氏:
 セガのゲームやハードをしっかりと自分で認識して購入したのは、中学3年生の時に買ったセガ・マークIIIですね。それからはセガ・マークIIIの素晴らしさを周りの友達にも教えてあげた結果、友人みんなをセガ・マークIIIユーザーにしてしまいました(笑)。

──友達みんなをセガ派に!

奥成氏:
 メガドライブももちろん購入して。ずーっと僕の家がたまり場になっていて、徹夜してゲームで遊んでたんですよ。

──普通なら、お母さんにゲームし過ぎで怒られたり、ゲーム機を隠されたりなんていうのが「あるある」なのかと思いますが……。

奥成氏:
 そうですね。いろいろと特殊というか、遊びに理解のある親だったと思いますね。

──どんな子供だったのかが気になります。奥成さんはそもそも何年生まれですか?

奥成氏:
 1971年です。

──ご出身はどちらでしょう?

奥成氏:
 生まれは東京なんですけど、育ちは神奈川の葉山です。

──ということは、奥成さんの原体験は神奈川周辺が基本ということになりますね。最初に触れたビデオゲームというと、記憶にあるのはなんでしたか?

奥成氏:
 一番最初に遊んだゲームの記憶としてはっきりと覚えているのは、やっぱり『スペースインベーダー』ですね。7歳の時です。

──小学1年生の頃に『スペースインベーダー』の熱狂的なブームがドンピシャでやってきた世代というわけですよね。ゲームセンターの元祖と言える“インベーダーハウス”が各地にできていた頃ですね。

(画像はSPACE INVADERS|スペースインベーダー公式サイトより)

奥成氏:
 ですね。なので、最初のゲームエンターテイメント体験というかムーブメントというのはそれでした。当時、仲良くしていた友達の家がスナックで、お店に『スペースインベーダー』があったんですよ。
 なので、たまに遊びにいって、その友達と一緒にスナックが開店する時間まで遊んでました。コインボックスを開けてクレジットを入れまくりのプレイし放題!

──最初から、筐体を持っている知人の家でタダゲー!(笑)。

奥成氏:
 夢の環境ですよね(笑)。あとは、自宅のすぐ近くが海水浴場なのですが、ある夏、海の家の中にもインベーダーハウスが出現したんです。

──えー!ゴザが敷いてあってカレーライスとかラーメンを食べるような、あの海の家ですよね?

奥成氏:
 そうです。そういう海の家が何軒か並んでいる中に『スペースインベーダー』のアップライト筐体やテーブル筐体がひしめきあっているインベーダーハウスがひと夏だけあったんですよ。あの光景は忘れられないですね。

 実際は何台あったかわかりませんが、まだ子供でしたから、そのインベーダーハウスの光景は、まるで筐体が100台ぐらいあるかのように思えて、圧倒されたんですよ。

──それが初めての“ゲームセンター的な光景”だったわけですね。それにしても夏の海水浴場にインベーダーハウスとは……。
 当時いかに大流行していたのかがわかるエピソードですね。

奥成氏:
 夢の空間でしたね。で、そこには『スペースインベーダー』だけがいっぱいあるわけですけど、その中には……普通ではない“いろんなインベーダー”があるわけですよ、タイトー以外の(笑)。

──亜種的なものが(笑)。

奥成氏:
 なにしろ子供なので、会社名なども意識せずに「このインベーダーは絵がカワイイ」とか、「このインベーダーは難易度が低い」とか思っていたんですよ。

 そして、そういういろんなインベーダーが何十台もあるうちの1番すみっこに、セガのアーケードゲームの『ヘッドオン』『スペースアタック』の2in1の筐体があったんです。

 もちろん当時はゲーム名もちゃんと意識できていないんですけど、『ヘッドオン』だけはインベーダーとは違うゲームが遊べるということで、「面白そう〜」と食いつきました。

 『スペースアタック』も、他のインベーダーは黒い画面だけどこれは青いなーって思っていて。グラフィックはしょぼいけど……「絵がちょっとかわいいし音もスカスカしているけど、味があっていいなぁ」って感じたのを覚えてます。

 それが僕のセガゲームの原体験です(笑)。まぁその当時はセガを全く意識してなかったですけどね。

『ヘッドオン』
(画像はヘッドオン | 株式会社セガ・インタラクティブより)
『スペースアタック』
(画像はスペースアタック | 株式会社セガ・インタラクティブより)

──海の家に混じっていたインベーダーハウスの片隅で……とは、意外な出会い。

奥成氏:
 その頃にはコロコロコミックで、すがやみつる先生の『ゲームセンターあらし』の連載が始まるんですよね。僕も1話からずっと連載を読んでいて、インベーダーブーム後のゲームセンターというものに興味を持ち始めるんですけど、葉山は田舎なのでその後も長いことゲームセンターはできなくて。

 通学路の途中にあった文具屋の横にプレハブの物置が立ってテーブル筐体のゲームが2〜3台だけ置かれていて大喜びしました。『クレイジークライマー』に初めて出会った記憶があります。
 すぐに無くなってしまいましたが。

 あとは、『ハイスコアガール』のように駄菓子屋の軒先にアップライト筐体があって。そういうゲームをよくギャラリーとして見ていて、たまに自分でもプレイしてみたり。

──いわゆる駄菓子屋ゲームですけど、それも出始めの初期の頃ですよね。アーケードのビデオゲームが急激に拡大していく最中で、ものすごくスピード感と刺激があった頃。

奥成氏:
 ですねー。『ゼビウス』がヒットすると、僕のところにも知人から『ゼビウス1000万点への解法』【※】のコピーがまわってきて。
 僕がもらったコピーはもう、コピーにコピーを重ねているもので表紙もなく、中扉あたりからの数ページだけみたいなものでした。「これは一体誰が書いたんだろう?」、「うまいなー、この地図!」なんて思いながら見てましたね。

 ちなみに、その時のコピーは、テレビ東京系列で放映された『ノーコン・キッド 〜ぼくらのゲーム史〜 』【※】にご協力させて頂いていたときに、「当時はこんなのもあったんですよ」って監督に見せたりしてました(笑)。

伝説のミニコミ誌として、今も語り継がれる攻略本『ゼビウス1000万点への解法』。
※『ゼビウス1000万点への解法』……大堀康祐氏が高校生の頃に中金直彦氏と共に発行したミニコミ誌。当時のミニコミ誌としては異例の大ベストセラーとなる。その再版には株式会社ゲームフリークの代表取締役社長である田尻智氏も関わっていた
(画像はゲーメスト関係者の方から創刊号超美品や各種ゲームグッズをお譲り頂きました!|BEEPより)

※『ノーコン・キッド 〜ぼくらのゲーム史〜』
テレビ東京系列で、2013年10月4日から12月20日まで放送された、80年代のゲームを題材にしたテレビドラマ。奥成氏はSpecial thanksにクレジットされている

──『ゼビウス1000万点への解法』は1983年とかですから、35年以上前ということに。そのコピーを今も保管されているんですか!

奥成氏:
 あります(笑)。

──奥成さんは物持ちがいいというか、昔のものを驚くほどしっかり保管されていますよね。

奥成氏:
 父が著述業でして、生まれた時から本が山ほどある家だったんです。仕事柄本を捨てなかったんですよ。
 また新聞をスクラップしたりもしていました。それで、僕も気になったものは“なんでもとっておく”っていう人になったんです。

──なるほど。理解があるというか、職業的に取り扱い方や価値観が一般の家庭とは違う感じだったんですね。

奥成氏:
 ですね。“物を大事にしなさい。大事に保管しなさい”と言われていたので、雑誌とかはもちろん、ゲームソフトの箱とか付属物もできる限り保存しておきました。

 今でも、たまに当時の資料をインタビュー等に持っていったりしていますけど、その影響が開花している感じですよね(笑)。
 SEGA AGES 2500に「ギャラリー」といって当時のマニュアルやチラシを閲覧できる項目があったんですが、始めた頃はほとんど私物を使っていました。

──奥成さんの物持ちの良さは、お父さんの影響が大きかったのですね。

奥成氏:
 ですね。父は“人の繋がり”というか、コミュニケーションも大事にしていて、私が友達を家に招いて徹夜で語り合ったりテレビゲームしている……なんていうことにも肯定的で、たまに会話に加わったりしながら興味を持って見守っていました。おかげで自然と友人たちがよく集まるようになっていったんですよね。

意外にセガと出会わなかった少年時代。だが、『Beep』の特集記事『対決!! 北斗の拳 ファミコンVSマークIII』が、その後の人生を一変させる

──最初に所有したゲームは何だったのでしょう?

奥成氏:
 そこはもうやはり、任天堂の『ゲーム&ウオッチ』ですね。いわゆる電子ゲーム、LSIゲームです。流行ってきたときに『ファイア』を買ってもらって。

 小学校内で瞬く間に流行って、「俺はボールだ」、「俺はバーミンだ」と、それぞれ分担するみたいに買っていくんですよ。他にも、その当時に流行っているものは友達の誰かしらが買ってもらっていたので、貸し借りしたりして楽しんでいましたね。

任天堂が1980年代に販売した電子ゲーム『ゲーム&ウオッチ』より『ファイア』。奥成氏もこのラインナップから「ファイア」を購入していたそうだ
(画像は社長が訊く「ゲーム&ウオッチ」より)

──なるほどー。

奥成氏: その頃から、いよいよテレビゲームの時代がやってくるんですよね。任天堂の「テレビゲーム15」とかです。
 エポック社が1981年に発売した『カセットビジョン』もありましたけど、高かったので私が買うことはなくて。

 最初に我が家にやってきたテレビゲームは、それより少し前の任天堂の『ブロック崩し』でした。家のテレビでゲームが遊べるのすごいなーって思った記憶がありますね。ずっと遊んでました。今でも実家にあります。

 ちなみに、この頃には家庭用パソコンブームも並行してやってきているんですよね。JR-100(松下通信工業)とか、その前にもMZ-80(シャープ)とかもあったわけですけど、さすがに小学生だったので手は出すことはなかったです。

 それで……ファミコンやSG-1000が出る直前の1983年頃になると、いろんな会社からカセット交換式の家庭用ゲーム機がいろんな会社から発売されていったわけですが、そこで僕が「これだ!」と選んだのは……バンダイの『アルカディア』【※】だったんですよ。

──アルカディア!

※『アルカディア』……1983年3月にバンダイが19,800円で発売した家庭用ゲーム機。同年7月にファミコンが発売される。

奥成氏:
 ファミコンの発売を横目に、セガハードも眼中になく(笑)。

──(笑)。

奥成氏:
 その頃、近所の駄菓子屋に、ある難しいゲームがあって。それがなんとアルカディアなら家で遊べるということをCMで知って買ってもらったんですよね。
 そのゲームが『ジャンプバグ』だったんです。開発がアルファ電子(後のADK)とコアランド、発売はセガのアーケードゲームですね。

──ここで奥成さんとセガの繋がりが!

奥成氏:
 とは言っても当時はセガだっていうことは意識してなかったですけどね(笑)。ちなみにアルカディア版ではなぜか『ホッピーバグ』っていう名前になって発売されていました。アルカディアに移植されていたのみでファミコンには出てなくて、「これはもうアルカディアを買うしかない!」となったんですよ。

 それからアルカディアでは、『超時空要塞マクロス』とか『機動戦士ガンダム』とか、『R2D タンク』とかコナミの『ジャングラー』とか遊びましたね。アルカディアはバンダイらしいキャラ物がある一方で、アーケードのマイナーゲームの移植が結構あったんですよ。
 当時はアーケードゲームが家でできるというのは花形でしたからね。

 そんなわけで、任天堂の『ブロック崩し』から、初めてのカセット交換式の家庭用ゲーム機は『アルカディア』だったんです。

──その頃は、駄菓子屋とかにあったアーケードゲームも結構やっていたのでしょうか?

奥成氏:
 そこが実は残念なところで、アーケードゲームはほとんどやっていないんですよ。その後も長く、アーケードでは見てるばかり自分ではやらない方で。
 1プレイにお金を使うよりも、貯金して物理で残る方がいいと思うタイプだったんです。

──体験よりも手元に残る物にお金を使う。

奥成氏:
 そうそう。お金を貯めて電子ゲームを買った方がいいって思って。ここは多分、同年代の他のゲーム好きな人と分岐しているポイントだと思うんですよね。『ゲームセンターあらし』も読んでいたけど、我慢して貯金してゲームを買う方になってました。

──その後も、ゲームセンターにはあまり行かなかったのですか?

奥成氏:
 高校生になって小遣いもそれなりにある頃にプレイもするようになりましたね。通学途中の駅前にインベーダーハウス上がりのタイトー系列のゲームセンターがあったんですよ。そこには毎日のように行っていました。

──タイトー系列だったんですねー。ここも意外とセガ系じゃない(笑)。

奥成氏:
 『メガドライブミニ』の収録ソフトとも話が繋がってきますが、『ダライアス』がありましたね(笑)。初めて見たときには「おー!」っとなりましたね。

 タイトー系ですからセガのゲームは全然入らなくて、『ダライアス』があって、『フルスロットル』があって、テーブルゲームも、タイトー、セタ、アイレム、アルファ電子といったタイトー系列に東亜プランとかテクノスジャパンとかカプコンのゲームがありました。
 そこで『ニンジャウォーリアーズ』『1943』をクリアしたり、いろいろ遊んでましたね。

──なるほどー。ですが、この調子で行くと、奥成さんはタイトーやバンダイに憧れて入社するという世界線に……。

奥成氏:
 ですよね(笑)。セガハードに触れるのは当時のゲーム雑誌の『Beep』の影響なんですよ。家ではアルカディアを楽しんでいたわけですが、だんだんとソフトが発売されなくなっていって。そこにファミコンがブームになり始めて、“あの『ゼビウス』も家で遊べます!”という話が出てくるんですよ。

 それで、「これはファミコンを買わなければ」となって。しょうがないから、アルカディアから宗旨替えをしてファミコンを買うんです(笑)。

 ヨドバシカメラ横浜店で最初に買ったのですが、カセット3本を一緒に買うと安いということだったので、『ベースボール』『マリオブラザーズ』『ポパイ』だったかな。やっぱりアーケードのゲームが家で遊べるっていうのに惹かれて『マリオブラザーズ』がやりたかったんですよね。

──まだファミコンが大ブームになる前ですかね?

奥成氏:
 当時としてもヒットはしていたと思いますが、本当にすごかったのは『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)が発売されたときですかね。

 買うきっかけは友達の家で遊んだ『マリオブラザーズ』をやりたいというところでしたね。

──『マリオブラザーズ』からの『ゼビウス』という流れで奥成さんの心がファミコンへ。

奥成氏:
 なぜ『Beep』を読むようになったかというのも、創刊3号だったかな?『ゼビウス』の特集記事が巻頭にあったんですよ。それがきっかけで。

 それから毎月『Beep』を買うようになったのですが、そこにはパソコンのゲームもたくさん載っていて「こういうのいいなぁ……」と思いつつ、でした。パソコンは買わなかったので友達の家で『MZ700』とか『パソピア』とかをちょっと触らせてもらった程度でしたね。

 それで……、ある月の『Beep』に『対決!! 北斗の拳 ファミコンVSマークIII』っていう記事が載るんですよ!当時は週刊少年ジャンプの黄金期ですし、僕も毎週読んでいましたしから、「北斗の拳のこのゲーム、面白そう!」っと食いついて。

 そして、ファミコンからセガ・マークIIIに乗り換えるんです。

奥成氏の人生を変えたゲーム雑誌『Beep』。この1986年9月号に掲載されている『対決!! 北斗の拳 ファミコンVSマークIII』によって、奥成氏がセガハードへ傾倒していくことになる。
(画像はBeep 1986年9月号 ビープ | 予約 | ゲーム雑誌 | 通販ショップの駿河屋より)

──先にハードを持っていたファミコンではなく、セガ・マークIIIへいくんですね。

奥成氏:
 『Beep』の記事ではその対決は引き分けとなっていたと思うんですけど、誌面だけでも明らかにビジュアルに差があったんですよね。これはもうセガ・マークIIIを買うしかないだろうとなったんです。

──そこでセガ・マークIIIを本体ごと。

奥成氏:
 そうです。放送作家の岐部昌幸さんとお話したときにもお見せしましたが、セガ・マークIIIを買ったときのレシートもありますよ。

 あったあった、これがセガ・マークIIIを買ったときですね。1986年の8月14日で、セガ・マークIII本体とソフトが3本。
 『テディーボーイ・ブルース』と『北斗の拳』と『ファンタジーゾーン』ですね。

1986年8月14日の購入レシート。奥成氏が中学3年生のときにセガ・マークIIIとソフト3本を購入したときのものだ

──うわあ、レシートに『テディーボーイ』って品名が書いてある……!

奥成氏:
 セガ・マークIII本体が1万2,000円で、ソフト3本で1万円ぐらいなんですけど、店員さんと交渉して5,000円ぐらい割引してもらったんですよ。

──あ、本当だ!レシートにも割引5,140円って書いてありますね!

奥成氏:
 本体とソフトをセットで買うと元々割引きがあったところを、さらに引いてもらいました。これが中学3年生の時ですね。

──ここが奥成さんの人生を大きく変えたポイントだったわけですね。

奥成氏:
 そこがきっかけでしたねー。セガ・マークIIIを買って『テディーボーイ・ブルース』はあまりプレイしなかったんですけど、『北斗の拳』と『ファンタジーゾーン』はかなりプレイしましたね。

 その2本があまりにも素晴らしかったので、家に遊びにくる友達に「お前ら、このゲームすごいぞ!」って、エバンジェリスト(伝道者)となってすすめて。その結果、みんなセガ・マークIIIと『北斗の拳』や『ファンタジーゾーン』を買ったんですよ。

──ある時期、葉山のセガハード普及率が強烈に高かった時代が……!

奥成氏:
 (笑)。そうすると、もう僕は自分で『アレックスキッド』を買わなくてもいいんですよ! 友達とお互いに貸し借りすればいいので。
 僕は『阿修羅』を買って、友達が『アレックスキッド』を買いましたし、友達が『ダブルターゲット』を買って、僕が『スペースハリアー』を買いましたね。

──ファミコンカセットの貸し借りはよくある話ですが、セガ・マークIIIではなかなか……特殊な環境ですよね。

奥成氏:
 そんなことないと思うんですけどね−……。確かに、「当時セガ好きだったけど友達とは一緒に遊べなかった」っていう話をよく聞くんですけど、僕の周りは全然そんなことなかったんですよ。

──そんな世界線が……。それにしてもこのレシート、いっぱいありますよね。どれも当時にゲームを買ったときのものですか?

奥成氏:
 そうです。ヨドバシカメラのレシートには商品名にゲームタイトルがちゃんと載っているんですよね。それが「かっこいい!」と思って、嬉しくて。それで自分のものとして取っておくことにしたんです。

──このレシートは……『プロヤキュウ』と『アウトラン』とありますね。プロヤキュウは7,000円になっていますけど、ちょっと高いような?

真ん中のレシートは奥成氏がセガ・マークIII用の『ザ・プロ野球 ペナントレース』と『アウトラン』を購入したときのものだが、『ザ・プロ野球 ペナントレース』は友人の分も一緒に2本購入している。布教によりセガ・マークIIIをみんなが持っていたという世界は実在したのだ

奥成氏:
 これは『ザ・プロ野球 ペナントレース』ですが、確かに高い……思い出した!これは友達のぶんも一緒に2本買ってますね!

──2本分!なるほど電車賃とかもかかるから!

奥成氏:
 葉山から横浜のヨドバシカメラに行ってますからね。友達に頼まれていたぶんもまとめて買っているんですよ。

 このレシートは、僕の周りにセガ・マークIIIユーザーがたくさんいたことの証拠ですね!!

──証明された(笑)。


美大生時代の徳間書店でのアルバイトが初めてのゲーム業界での仕事。MSX・FANで記事を書き、卒業後にセガへ

奥成氏:
 中学生の頃に『Beep』に洗脳されてセガ・マークIIIを買ったら、それが大当たり! それからはセガ・マークIIIのゲームをどんどん買っていったんです。
 それが、ある頃になると、『Beep』に『セガ・マークV予想!』なんていう記事が出てくるんですよ。いわゆる次世代機、後のメガドライブですね。

──マスターシステムをセガ・マークIVという扱いにしてのセガ・マークVというハードの予想ですかね?

奥成氏:
 おそらくそうだったと思います。実際後から知りましたが開発コードネームもM5でした。

──1988年頃ですよね。その頃になると奥成さんは、ファミコンはもうあまりプレイされなくなっていたんですか?

奥成氏:
 いや、並行して遊んではいましたし、ちょこちょことソフトも買っていたのですが、主軸はセガ・マークIIIになっていましたね。

──セガ・マークIIIをマスターシステムに買い換えたりもしなかった?

奥成氏:
 しなかったですね。FMサウンドユニットを買っていましたし、マスターシステムは必要ないなと。
 僕の周りは何人かマスターシステムを買ってましたけどね。僕は「もうすぐ新しいハードが出るんだ……これは繋ぎだ!」って見切っていました(笑)。

──(笑)。

奥成氏:
 高校の頃には、メガドライブを買ってさらにハマっていく。メガドライブを買うあたりのお話は、電ファミさんで2016年に放送作家の岐部さんと対談させて頂いたときにも話していますので、そちらをご覧頂くのがいいかなと思います。

──メガドライブを買うあたりの心境はどうだったんでしょう?もう迷いもなく発売日に買うぞっていうテンションだったんですか?

奥成氏:
 「セガの新しいハードなんだから買う」っていう感じでしたね。セガ・マークIIIのゲームに大満足していて、そのセガの、さらにすごいハードが出るという話だったわけですから。

 確かにその頃、PCエンジンが登場(1987年)していたりして、友達の何人かはPCエンジンを買っていたから『ビックリマンワールド』などを遊ばせてもらったんですよね。
「これはすごいハードが出てきたなー」って思ったんですけど、きっとセガは新ハードを出すだろうから、そうなれば、それはもう絶対にPCエンジンと同等かそれ以上のハードに違いないって思うじゃないですか?

 なのでもう、問答無用で買うわけですよ(笑)。

──だいぶ今の奥成さんになってきていますよね(笑)。ちなみにその頃はセガ・マークIII〜メガドライブの流れですが、アーケードには『アウトラン』とか『スペースハリアー』が登場していますよね。そちらをプレイしに行くというようなことはあまりなかったのですか?

奥成氏:
 それはさすがに憧れてプレイはしたんですけど、1時間かけて横浜まで行かないと置いているゲームセンターがなかったんですよね。たまに行ってプレイするぐらいでした。

 ゾルゲ市蔵さんの著書の『8bit年代記』を読むと、「『スペースハリアー』に感動して帰りの電車賃まで使ってしまった……」みたいなエピソードが載っていたりしますが、僕はそういうタイプではなかったですね。
 そんな感じで、アーケード版もプレイはしているんですけど、やりこむのは主にセガ・マークIII版でしたね。

(画像は8bit年代記 (GAME SIDE BOOKS) | ゾルゲ市蔵 |本 | 通販 | Amazonより)

──メガドライブを1988年の10月に購入されてからはもうメガドラ一色の生活に?

奥成氏:
 10月にメガドラ本体と『スーパーサンダーブレード』を買って、その時に売り切れて買えなかった『スペースハリアーII』を11月に購入して。でも、12月に買っているのは『おそ松くん』……ではなく、ファミコンの『グラディウスII』だったりするんですよ。ファミコンでも面白いものが出れば買いますっていう感じでしたよね。

──なるほどー。でも、もうこの頃には『Beep』の影響もあってかアーケード移植に目がいくようになっていて、基本的には“セガすごいぜ”っていう人になっていたわけですね。

奥成氏:
 そうですね。メガドライブを17歳の高校2年生の時に買って、大学時代もずっとメガドライブのゲームにハマっていって。スーパーファミコンが発売されても買わずに、ずっとメガドラでしたね。

──スーパーファミコンもずっと買わなかったのですか?

奥成氏:
 発売の頃は興味がなかったですね。『スーパーマリオ』シリーズももう『2』で止まっていて『3』はやってなくて。『スーパーマリオワールド』も全然やったことがないです。

 ただ、気になるゲームはもちろん出るんですよね。『スーパーアレスタ』が出たり、『重装機兵ヴァルケン』が出たりして。

 その中でも特に『弟切草』【※】が発売されたときに「これは面白そう!」と思って、まず友達に本体ごと借りて、一晩遊んだらあまりに面白かったから、結局は本体ごと買ったんですよ。

※『弟切草』……チュンソフト(現 株式会社スパイク・チュンソフト)より1992年に発売されたサウンドノベル「弟切草」。ゲーム画面で演出やサウンドと共に文章を読み、分岐によって変化する物語を楽しむ
(画像は弟切草 | Wii U | 任天堂より)

──『弟切草』で本体買い! たしかにあれは衝撃でした。それまでになかったゲームですしね。

奥成氏:
 本体を買ってからはスーパーファミコンのゲームもちょこちょこはやってましたけど、セガハードをずっとやっていたからか、RPGにはあまり興味が湧かなかったんですよね。

──当時はRPG作品が大ヒットを連発していた頃ですが、そこに興味を持たなかったのは当時のセガっ子感がありますね。ちなみに大学生になってもPC系のゲームにはいかなかったんですか?

奥成氏:
 家にPCが無かったんで、結果的に縁がなかったですね。

 PCといえばこの前、NHKラジオ第一で『ラジオで平成ネット史(仮)』が放送されましたけど、そこで『Ingress』『ポケモンGO』を作られたナイアンティックの川島優志さんが、「自分のプログラムの原体験はSEGA SG-1000IIとセガキーボードのSK-1100の組み合わせだった」とお話しされていて。

 「ファミコンが欲しかったのに親が間違えて買って来ちゃったからしかたなく触って、キーボードを買ってもらって、そこからプログラミングを覚えた」ということでした。
 だから、セガがなかったら『ポケモンGO』や『Ingress』はなかったと言えます!おそろしいことですよ(笑)。

──(笑)。

奥成氏:
 実は僕はファミコンの『ファミリーベーシック』を買ったんですよ。ファミマガの創刊号に載っていたプログラムを動かしてみたり、ハドソンが出していた「少年メディア」のプログラムをロードしてみたりしたんですけど。

 あれは、キャラクターをマリオとかにして動かせるので、画面の見た目は「面白そう」って思えるものにできるんですけど、実際に遊んでみると全然面白くないんですよ(笑)。
 『マリオ』とか『ドンキーコング』みたいなゲームがたくさん遊べるんだろうとか思っちゃうんですけど、全然そんなことはなくて、これは僕にはダメだーって断念しちゃいました。

 ソフトに飢えていたSG-1000IIとかなら「もう、自分で作るしかない」みたいな気概が出てきたのかもしれないですけど、ファミコンは面白いゲームがいっぱいありましたから、わざわざ自分で作らなくてもいいやってなると思うんですよ。

 そういう意味では、『ファミリーベーシック』で育ってIngressくらいのものが作れるようになったプログラマーはいないんじゃないかなって思いますよ。

──たしか……、『スマブラ』の桜井政博さんが『ファミリーベーシック』をきっかけにゲーム開発を志した人ですね(笑)。

奥成氏:
 桜井さんかー! しまったー!

 まぁ、桜井さんは『ファンタシースター』の続編アイデアを募集するシナリオコンテストで入賞されていたりもしますからね! さすがです!

──(笑)。

奥成氏:
 話をPCゲームの話に戻しますと、X68000とかFM TOWNSとかが出てくると、持っている友達の家で遊ぶとかはしてましたけど、自分では高くて買えなかったですね。家庭用ゲーマーでした。

 そんなわけで、大学生の頃も、家に友達を呼んで酒を飲みながら徹夜でメガドライブを遊ぶという暮らしでしたね。

──友達とよくプレイしたなーっていうタイトルは何になりますか?もう対戦ものとかも増えてますよね、だいぶ。

奥成氏:
 やっぱり『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』ですよね。あれはもう無限に遊んでしまう。一人の時は『コラムス』とかもよくやってましたね。

 うちには友達が入り浸ってましたから、多人数で遊べるものがやっぱりよくて。PCエンジンの『モトローダー』とか『ボンバーマン』とかも無限に遊んでましたね。
 そこにセガハードでは『パーティークイズ MEGA Q』とか、『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』で。

最大4人で対戦が可能だった『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』。セガサターン発売間近に登場したメガドライブソフトであり、名作として語り継がれる1本。『メガドライブミニ』にも収録される。
(画像は幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜 | メガドライブミニ | セガより)

──『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』だと1994年ですから、もう大学を卒業されていますか……?

奥成氏:
 卒業して、その年はもうセガに入社してましたね。でも、社会人になっても学生時代の友人達とスキー旅行に行ったりしたのですが、夜はナイトスキーもナンパもせずに部屋でゲームでしたよ!

──ゲーム合宿じゃないですか(笑)。

奥成氏:
 日中はスキーをして、ご飯食べて、部屋でおもむろに僕が持ってきたメガジェットを取り出して。そこからセガタップが伸びていて、コントローラーがたくさん繋がっていて。
 それで『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』、疲れたら『パーティークイズ MEGA Q』にして、その2本を延々とプレイしてました(笑)。

──『メガドライブミニ』でも、まさにそれができると(笑)。その時はもうセガに入っていたんですよね。

奥成氏:
 そうですね。なので、純粋にユーザーとして遊んでいたのは、その頃のメガドライブの最後あたりまでなんですよ。
 セガサターンが1994年に発売されて今年は25周年なわけですが、僕も同じ年にセガに入社していて、入社25年目なんです。

──大学生からセガに入社するまでの間はどんな感じだったのでしょう?ゲーム業界を志したきっかけは?

奥成氏:
 僕は美大の2部で夜学だったんですよね。それでアルバイト情報誌を見ていたら『徳間書店インターメディア』の求人があったんですよ。「あ、『メガドライブFAN』を出している出版社だ!」と思って申し込んで、卒業まで徳間書店でアルバイトしてたんです。

──徳間書店! それが初めてのゲーム業界関連の仕事になったんですね。

奥成氏:
 ですね。「メガドライブ好きでーす、メガFAN読んでまーす!」って面接で話して。ただ、『メガドライブFAN』みたいな月刊誌とか『ファミマガ』みたいな隔週の雑誌だとフルで働かないといけないから、学生だと難しいだろうということで。

 当時は隔月発行だった『MSX・FAN』で働くことになったんですよ。そこで約2年、編集アシスタントとして働きました。自分でページレイアウトを切ったり、文章書いたり。

──ページのラフを切ってデザイナーさんに回して、自分で文字数を埋めていく。いわゆる雑誌ライターですね。

奥成氏:
 そうですそうです。その頃は、『MSX・FAN』の編集部の隣がパソコンゲーム雑誌の『テクノポリス』で、その反対側は『スーパーファミコンマガジン』っていうゲームミュージックの音楽CD付き雑誌でしたね。

──『スーパーファミコンマガジン』!買ってましたー、CDを繰り返し聴いてましたね。

奥成氏:
 隣の建物では『PCエンジンFAN』に『メガドライブFAN』、『ファミマガ』の編集部があって。そのへんもウロウロしていましたね。
 たった2年ではありましたけど、ある意味初めてのゲーム業界だったので結構濃い経験をさせてもらった時期だったなと思います。その頃に知り合った人たちとは今でも交流があるんですよ。

──なるほどー。ちなみに担当された記事で何か覚えているものとかありますか?

奥成氏:
 最初に任されたのが『スーパーバトルスキンパニック』のMSX移植の紹介記事でしたね。その時に記事の書き方を教えてもらって。
 3DOが発売されるときには3DOマガジンが創刊されて、創刊準備号では僕も記事を書いてたりしたんですよ。

──3DOマガジンの創刊準備号……! その後は大学卒業、新卒でセガへというわけですね。

奥成氏:
 そうですね。美大だったので普通の会社の募集ってあまりなかったんですよね。でも、この年、うちの大学の卒業生を一番多く取っていたのがセガだったんですよ。これはもうセガを受けるしかないだろうと思って。94年に企画(プランナー)で入社しました。22歳でした。

セガサターンタイトルの広報をすることでセガ内の開発者と繋がりが生まれる。分社化・再統合の流れのなかでだんだんとプロデューサーに転身

──奥成さんが1994年にセガに入社されて、ここからお仕事編に入ります。最初はどんなお仕事をされたのでしょう?

奥成氏:
 プランナーとして入社したのですが、その頃のセガの開発は、AM(アミューズメント、アーケードゲーム)とCS(コンシューマー、家庭用ハード)があって、僕はCSに配属されたんですね。

 CSの開発チームは1研から5研にわかれていて、1研と2研がセガサターン、3研と4研がメガドライブ、5研はゲームギアでした。スーパー32Xも3研4研に入っていましたね。

 それで僕は、1研に配属されたんです。ちょうどセガサターンが1994年の11月に発売される半年ぐらい前でしたから、同年の12月に発売された『クロックワークナイト ペパルーチョの大冒険』をはじめ、翌年1月に発売された『ビクトリーゴール』や3月の『パンツァードラグーン』を一生懸命作っているところでした。

 新人ですから研修受けながら基礎的なお手伝いをしていましたね。『クロックワークナイト ペパルーチョの大冒険』のムービーのエンコードをやったり……と言っても、ただPCを軽く操作して後はただエンコードが完了するのを待つだけだったんですけど。

奥成氏:
 そんな頃に、最初に僕が参加するプロジェクトが出てくるんです。それが、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を手がけた大島直人さんが企画していた、新しい格闘アクションゲームだったんですよ。

 ただ、大島さんと一緒に作っていた先輩プランナーさんが別のプロジェクトに異動させられちゃうんです。そこに「じゃあ、代わりに新人を3人ぐらい入れるから」というやり取りがあったみたいで。なんだかひどい話だなって思いますけど(笑)。

 その新人3人というのが、新人プランナーの僕と、同期の新人プログラマー2人だったんです。その3人のまとめ役として、AMから移ってきた鶴見六百さん【※】がお目付け役として入って。

※鶴見六百
1989年にセガに入社。『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』やスター・ウォーズ アーケード』などのアーケードゲーム開発に参加。その後、ソニー・コンピュータエンタテインメントに移り、『クラッシュ・バンディクー』や『ラチェット&クランク』などの日本語版を監修する。

奥成氏:
 それで、「2カ月後には本部長プレゼンがあるからゲームを形にしろ!」って言うんですよ(笑)。新人の僕が仕様をまとめて、新人のプログラマーがセガサターンの開発機で、ポリゴンのプログラムを組んで(笑)。

──……いろいろ厳しい!

奥成氏:
 でまぁ、見事にそのプレゼンは落ちました(笑)。

 この話は裏があって、実は『ソニック&ナックルズ』(1994年10月)をアメリカで作っている頃だったんですが、その開発を終えた中(裕司)さんがセガサターン用タイトルの開発のため日本に帰国するという話になっていたそうで。
 上層部的には「中さんと大島さんを再び組ませたい」と考えていたみたいなんです。

 そのプロジェクトが後の『NiGHTS into dreams…』になるのですが、そのためには大島さんが抱えている仕事を終わらせなければいけないと会社が考えて、大島さんがその時に取り組んでいた格闘アクションゲームを終わらせるために、新人の僕らがあてがわれたんです。

(画像は【連載】セガハードストーリー第5回 家庭用ゲーム機新時代の幕開け『セガサターン』 | セガより)

──うーん、なるほど。プランナーとしての初仕事は、なかなか複雑な事情に巻き込まれたものだったんですね。

奥成氏:
 ともかく、それが終わると僕は体が空いちゃってたんですよね。そうしたら部長に呼ばれて、「奥成はゲーム雑誌の仕事してたんだって?」と聞かれて、「ちょっと来てくれ」と入った部屋には竹崎(忠)さんがいたんです。

──当時、セガ広報部門の顔と言われた竹崎忠さんですね。

奥成氏:
 竹崎さんからは「セガサターンが1カ月後に発売されます。アスキーさんやソフトバンクさんなど、いろんな会社がセガサターンの雑誌をやると言ってくれているのに、AM2研が用意してくれた『バーチャファイター』以外の載せる情報がCSから全く出てこない。このままでは雑誌が作れません。誰か開発の窓口になって素材を集めてきてください!」というお話をされて、そこに僕があてがわれたんです(笑)。

──入社前はゲーム雑誌の編集部にいた適任者だったと。

奥成氏:
 そうなんですよね。僕が連れてこられて竹崎さんは大喜びでした。僕の方は「ゲームの開発をするためにセガに入ったんですから、一段落したら開発に戻らせてくださいね!」なんて部長に約束させました。

 でも結局は……、セガサターンが終わるまでその仕事を続けるハメになったんです(笑)。

──(笑)。

奥成氏:
 なのでプランナーとしてセガに入社したのに、やっていたのは半年だけ。それからは毎日のように、各タイトルのチームリーダーのところに通って、新人の僕が「早く雑誌用の素材ください!」って言うわけです(笑)。

 すると「そもそも、どういう素材を出せばいいのか分からない」という話をされて。「じゃあ、それを一緒に考えましょう」ということで、僕がプロデューサーやディレクターと話して決めていくようになりました。

 そんなこんなをやっているうちに、セガサターンの開発チーム全部と繋がりができていったんですよ。 

 そのうちに僕の他にも同じ仕事を担当する4人ぐらいの同僚や上司ができていったのですが、私以外のメンバーは『サクラ大戦』『プロサッカークラブをつくろう!』などの大作タイトルを担当して、僕は残りの2/3ぐらいの細々したものを担当してましたね。

──パブリシティ、いわゆる広報活動の全般をやっていたんですね。

奥成氏:
 そうです。

『Beep』、『BEEP!メガドライブ』を経て、セガサターン発売に合わせて誌名が変更された『セガサターンマガジン』。こうしたセガサターンを扱う雑誌に掲載される情報や開発中ゲームのリリースや資料、画面素材を、当時の奥成氏が手がけていた。
(画像は付録無)SEGA SATURN MAGAZINE 1995年12月8日号 Vol.13 セガサターンマガジン | 予約 | ゲーム雑誌 | 通販ショップの駿河屋より)

──僕もまさに『セガサターンマガジン』などの当時の雑誌を食い入るように読んでいましたが、そのあたりの記事は奥成さんが仕掛けていたんですねー!

奥成氏:
 大作以外ですけど(笑)。ゲームの紹介文とか、チラシに書くキャッチコピーなんかも書いてたりしてました。

──そんなことまで。

奥成氏:
 まぁ、昔はそんなもんですよ(笑)。そんな調子でパブリシティをやっていたら、そのうちセガサターンの専門誌が最大で7誌ぐらいになって、しかも隔週化だ、次は週刊化だと盛り上がっていて。
 僕の仕事もものすごく大変になっていくんですよ。とてももうプランナーに戻れるような状況ではない(笑)。

──広報さんってただでさえ忙しいのに、それだともう寝る時間もないですよね……。

奥成氏:
 その一方で開発との窓口みたいになって次第に社内のコネクションができていって、そのうちUFOキャッチャーのプライズ担当の人と仲良くなって、『パンツァードラグーンツヴァイ』のTシャツを作ったり、『NiGHTS into dreams…』のぬいぐるみを作ってもらったりもしましたね。

──なるほどー。その頃のやり取りがあって、奥成さんは、セガ社内のいろんな人と繋がりを持っている人になっていったんですね。

奥成氏:
 それが結果的に、いろんなタイトルを復刻するときに当時の開発者を探したり、資料を探したりする際のツテを頼れるという今に繋がっていますね。

──それがセガサターンの頃のパブリシティ時代ですね。次に仕事のスタンスが変わってくるのはいつ頃だったのですか?

奥成氏:
 ドリームキャストの頃ですね。

 ドリームキャストが1998年に発売されてから、2000年頃には各開発部が分社化されるという動きがありましたが、その分社化の動きの前に、セガの社内ではドリームキャストの立ち上げのために組織改変が行われたんですよ。

 そこで僕はパブリシティではなく、いろいろあって『エターナルアルカディア』を開発していたCS7研(第7ソフトウェア研究開発部)で 小玉(小玉理恵子氏)プロデューサーのアシスタントをやることになったんです。

2000年に発売されたドリームキャスト用のRPG『エターナルアルカディア』。これが奥成氏にとってアシスタントではあるが、初のプロデューサー業務となった
(画像はAmazon | エターナル アルカディア | ゲームソフトより)

──『エターナルアルカディア』が奥成さんのプロデューサーとしての初仕事だったんですね!しかも小玉さんと一緒に。

奥成氏:
 そうなんです。とは言ってもアシスタントですから、小玉の指示で雑用をやるみたいな仕事でした。そんな『エターナルアルカディア』の完成と並行して、開発の分社化【※】という動きが起きるんですよね。

※開発の分社化
2000年にセガの開発部が独立して分社化された。ヒットメーカー、セガワウ、SEGA-AM2、アミューズメントヴィジョン、スマイルビット、ソニックチーム、デジタルレックスなどがあったが、2004年に再びセガに統合されている。

奥成氏:
 僕はオーバーワークスから始まって、その後セガワウになって、そこで2004年にプレイステーション2用で発売された『サクラ大戦V EPISODE 0 〜荒野のサムライ娘〜』というアクションゲームのプロデューサーをやったんです。

──『サクラ大戦』シリーズのひとつが初プロデューサー作品だったというのは意外です。

2004年に発売されたプレイステーション2用ソフト『サクラ大戦V EPISODE 0 〜荒野のサムライ娘〜』。奥成氏がメインでプロデューサーを務めた初めての作品となった
(画像はサクラ大戦V EPISODE 0 〜荒野のサムライ娘〜より)

奥成氏:
 当時のセガワウは恵比寿にあったのですが、僕はセガ本社に行く用事があると自分の知ってるいろいろな部署に顔を出して回って、「三河屋でーす、何かご用はありますか?」みたいに社内の情報をヒアリングしていたんですよ。

 そんなときに、“セガとD3パブリッシャーさんとの合併会社『3D AGES』で、SEGA AGES 2500というシリーズをスタートする”という話を、準備中の下村(下村一誠氏)から聞きつけまして、これは何か新しい仕事になるんじゃないかなーっと思ったんです。

──ついに奥成さんとセガのクラシックタイトル復刻もののプロジェクトが出会いましたね。

奥成氏:
 そこで、「セガワウで『ドラゴンフォース』とか『ベア・ナックル』を作らせてー!」って企画書を下村に出したんですよ。

──おおー!

奥成氏:
 結局『ドラゴンフォース』だけ外注開発という形で採用されて、仕掛中のサクラと並行して開発をスタートさせたんです。
 ですが、この『ドラゴンフォース』の開発が大変で、サクラの方が終わった後もなかなか終わらなくて。その間に分社が、セガに統合されることになるんですよ。

 そこで上司から、「統合後に組織が再編されるから、プロデューサー職の人は今の仕事続けられる保証はないので、自分で仕事を探しておいてください!」と言われたんです(笑)。

 そこで再び下村のところへ行って、「分社が無くなるのでこっちに移って最後までプロジェクトの面倒見させて下さい」とお願いに行きました。

 そうしていたら今度は、SEGA AGES 2500の発売元である『3D AGES』が、発展的解消をするということになって。SEGA AGES 2500自体も今後どうなるのか……という状況になってしまったんです。

 一方で、営業から「SEGA AGES 2500シリーズは結構売り上げがいいから続けて欲しい」っていう話が出ておて、「じゃあこれからはセガ単独で続けよう、プロデューサーはここに経験者がいるから」っていうことになり、僕が新たなSEGA AGES 2500のプロデューサーになったんです(笑)。

“過去の名作を復刻させる”というコンセプトの仕事に奥成氏が初めて取り組んだのは、PS2での『SEGA AGES 2500 Vol.18 ドラゴンフォース』だった
(画像はSEGA AGES 2500 ドラゴンフォースより)

──なるほどー 分社化の激動でかなり紆余曲折ありましたね。でもこれで、SEGA AGES 2500から、セガエイジスオンライン、セガ3D復刻プロジェクトにメガドライブミニなど、今に至る奥成さんの仕事の入り口にたどり着きましたね。

奥成氏:
 そうですね。そのときは「企画制作部」というものができて僕はそこの所属になったのですが、その時に各分社にいた中でも特に団体行動が苦手な人たちが、この企画制作部に集まりまして(笑)。

──アウトローチームみたいな(笑)。

奥成氏:
 『セガガガ』を手がけた岡野哲(ゾルゲール哲)『バーチャロン』シリーズの亙重郎とか、ひとクセあるメンバーが集まるんですが、この時の部長が今回の『メガドライブミニ』の仕掛け人である宮崎(宮崎浩幸氏)だったんですよ。

──なんと!

奥成氏:
 ここまでが、セガサターンの広報時代からドリームキャスト時代に分社化して、今に繋がっていったあたりの流れですね。

PS2『SEGA AGES 2500』を引き継ぐ形でプロデューサーに。開発会社エムツーとの出会いも

PS2『SEGA AGES 2500』より、「SEGA AGES 2500シリーズ Vol.30 ギャラクシーフォースII スペシャル エクステンデッド エディション」の公式サイト
(画像はSEGA AGES 2500 シリーズ Vol.30 ギャラクシーフォースII スペシャル エクステンデッド エディションより)

──奥成さんがPS2のSEGA AGES 2500のプロデューサーになったのは2005年ですよね。SEGA AGES 2500シリーズの仕切り直しという展開だったわけですが、その頃は今ほどクラシックタイトルへの注目というものは高くなかったと思います。
 逆に言えば、その頃からの奥成さんをはじめとした様々な人たちの移植・復刻のがんばりによって、クラシックタイトルへの注目度が高まっていったなとも思うんです。その当時は、どのようなアプローチで行くべきだと考えていたんですか?

奥成氏:
 SEGA AGES 2500のコンセプトは“セガの過去の作品を現代の技術で再生し、広く知らしめる”でしたけど、それまでに発売されていたタイトルは、いわゆる“リメイク路線”でポリゴン化をしていて、ユーザーさんの反応も賛否両論でした。

 それで、僕が引き継いだときには、“お客様の満足度を上げる”ことになりました。僕が引き継ぐ直前に『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.16 バーチャファイター2』が発売されていたのですが、これだけはリメイク路線ではなく忠実移植をしていて、ユーザーさんの反応もよかったし売り上げも良かった。
 それで、これ以降のラインナップも“忠実移植”の方向で行きましょうとなったんです。

──復刻するなら、現代風にリメイクするべきか、オリジナル完全移植か、という選択は今でもありますが、やはり忠実移植が一番求められるということに。

奥成氏:
 当時は試行錯誤していたというか、できる限りを全部チャレンジしていたんですよね。いろいろやるのは良いと思いますが、やはり、まずはオリジナルの忠実移植があってこそだと言われていましたね。

──そこは今のクラシックタイトル系の展開でも重要視されていますよね。そしてここでSEGA AGES 2500シリーズには、ついに開発会社のエムツーさんが登場してきますよね。【※】

※『SEGA AGES 2500シリーズ』では、エムツーが『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.20 スペースハリアーⅡ スペースハリアーコンプリートコレクション』以降のタイトルを多数手がけている。

奥成氏:
 SEGA AGES 2500の展開を一度リセットしていたので、ほぼ一から開発会社を探していたのですが、エムツーさんはその候補の中にいたんですよ。

 先日『M2: Complete Works』というドキュメンタリー映像がYoutubeに公開されていて、そこでも語っていましたが、その頃のエムツーさんは、ちょうどPS2向けの『セガラリー2006』のおまけソフトとして、アーケード版『セガラリー』を別ディスクで同梱するということになり、その移植版の方の仕事をやっていて、それが完成するかしないかという頃だったんです。

奥成氏:
 そこでエムツーさんに話をきいたら、「うちはこういうのもできます!」と、SYSTEM16基板の『獣王記』『忍 -SHINOBI-』をPS2で動かしたものを見せて頂いて。

 「これを『SEGA AGES 2500』で売れないだろうか?」という話になったのですが、その2本では売れないだろうと思って、別のゲームにしようということになりました。

 それで、SEGA AGES 2500リスタートの記念に、過去に出して不評だった『スぺハリ』のやり直しをするのが良いだろうということで、シリーズ作をたっぷり収録した『スペースハリアーII 〜スペースハリアーコンプリートコレクション〜』と、アーケード作品を2つ収録した『SDI&カルテット 〜SEGA SYSTEM 16 COLLECTION〜』をリリースしたんです。

──2,500円でパッケージ販売していたものですし、今ではできないぐらいに豪華な収録内容にしていますよね。

奥成氏:
 お客さんにもう一度振り向いてもらうにはそれぐらいにしないとって思ったんですよね。他にもエムツーさんには開発を『ガンスターヒーローズ』『ギャラクシーフォースⅡ』『テトリスコレクション』『ラストブロンクス』と4タイトルを任せて、1年ぐらい続けて上手くいったらさらに続きをやりましょうと話していたんです。

 ですが……、エムツーさんの仕事が終わらなくて!

 「毎月2本出せますよ!」って言ってて、「じゃあ、余裕を持って3カ月ペースで」ってお願いしていたものが、1年経っても完成しなかったり。そういうのが始まるわけですよ!

──(笑)。

奥成氏:
 まぁ、エムツーさんの話はまた別の機会に(笑)。そうして動き始めた僕がプロデューサーになってからのSEGA AGES 2500だったのですが、“お客様の反応はすこぶる好評だけど売れない”という結果が出てくるんです。

──うーん、辛いお話。

奥成氏:
 例えば、『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.23 セガメモリアルセレクション』という、『ヘッドオン』とか『トランキライザーガン』などの80年代前半までのゲームを、オリジナルとリメイクを両方収録というものをやってみたんですけど、これは全然売れなくて。

 『スペースハリアーII』はそこそこ売れましたが、『SDI&カルテット』は全然売れない。一方で『ダイナマイト刑事』は結構売れてくれた。
 そういう感じにいろいろと結果が出てくるんですよね。

──そのあたりのお話って2005年とか2006年ぐらいですけど、その頃でも既に80年代タイトルより、セガサターンぐらいの90年代タイトルの方が売れる傾向があったんですね。

奥成氏:
 ですね。セガサターンのリメイクぐらいが一番反応も売り上げも良くて、80年代前半のタイトルとかになっちゃうと厳しい。

 なんとかリスタート後の2期も続けられましたが、結果は同じでした。エムツーさんはその頃、いつまで経っても完成しない『ギャラクシーフォースII』を作り続けていました。【※】

※『ギャラクシーフォースII』はエムツーが3ヵ月ぐらいで開発する予定だったが、開発が延びに延び、最終的に約2年後に発売されることになった。

──伝説のエピソードですね(笑)。

奥成氏:
 でもエムツーさんは最初から長期的なスパンで開発を見据えていまして、「SYSTEM16と、MODEL2と、メガドライブと、セガ・マークIIIと、ゲームギアは、エミュレーションエンジンを作ったので移植できます」と最初から話していたんですね。

 「じゃあ、ちょっとがんばればEボード(マークIIIと互換性の高いアーケードシステム基板)もできますよね?」といったお話を増やしていきまして、そこから、「次はこのシステム基板のエミュレーションを……」というように、“エムツーさんが移植できるセガのシステム基板を増やしていこうプロジェクト”が始まるんですよね。
 それは今も続いています。10年以上かかって、ようやくMODEL 1まで来ました。

──先ほどエムツーさんは候補のひとつだったということで、開発会社は他にもいろいろあったと思いますが、奧成さんとエムツーさんのやり取りは今も続いています。エムツーさんとはウマが合うというか、やりやすかったのでしょうか?

奥成氏:
 堀井さんとは最初に会ったときからやりたい方向性が同じで、意気投合しましたね。

 あと内部的な事情としては、SEGA AGES 2500ってなにしろ定価そのものが2,500円と安かったですから、開発費も安いんですよ。
 なので、収録タイトルのうちの1本だけを開発してもらうとかだと開発費が足りないんです。

 そこで、何本かまとめて引き受けてもらって、共通のエンジンで作っていくというやり方をすることでカバーしました。それで、自然とエムツーさん開発のタイトルが増えていったんですよね。

──開発が重いタイトルや軽いタイトルもいろいろ混じってくるけど、それらひとまとめで引き受けてもらって、そのぶんまとまった開発費を出すというような。

奥成氏:
 そうですね。あと堀井さんには「開発費は十分に出せないんだけど、その代わりにエムツーの宣伝をしますから、知名度が上がって仕事が増えてきたら、他から大きな仕事をもらってください!」という話もしたんですよね(笑)。

──そこは、実現されましたし、今に繋がっている感じがありますねー。

奥成氏:
 そこは元々のポテンシャルがあってこそなので「エムツーはワシが育てた!」などというつもりもありませんが、その後パブリッシャーデビューもされて、エムツーさんは大物になりましたね。

──そういえば、SEGA AGES 2500の頃って堀井さんは雑誌やゲームメディアなどの表に出てこなかったですよね?

奥成氏:
 もともとインタビューも宣伝費が無いので始めたのですが、当時は僕だけが出ていましたね。堀井さんは顔を出したくないって嫌がっていたんですよ。

 だけど、SEGA AGES 2500の最後のタイトルになった『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.33 ファンタジーゾーン コンプリートコレクション』を発売するときに、池袋GIGOでイベントをやることになりまして。

 『サンダーフォースVI』『雷電IV』と『ファンタジーゾーン』とで『3大シューティング祭り』というイベントが開催されたんですけど、そこのステージにサウンドを担当していた並木学さんに出演してもらうことになったら、並木さんが「俺が出るのになんで堀井さん出ないの? 出ろっ!」って言って(笑)。

2008年に開催された「3大シューティング祭り」。このトークショーに奥成氏とともにエムツーの堀井氏も(おそらく初)登場している
(画像はオパオパ、『雷電』、『サンダーフォース』——池袋のSTG祭りをレポート!! – 電撃オンラインより)

──それが最初だったんですか(笑)。

奥成氏:
 並木さんの言葉もあって無理矢理ステージに出てもらって、それからは「一度出ちゃったんだし、これからはインタビューとかにも出ましょうねー」と話して。それからは機会があれば堀井さんにも表に出てもらうようになったんですよね。

Wii&3DS『バーチャルコンソール』、3DS『セガ3D復刻プロジェクト』、オンラインゲームの立ち上げ、アジア事業部を経て、巡り巡って『メガドライブミニ』へ

Wiiやニンテンドー3DSで提供されたバーチャルコンソール。このVCのセガハード枠を奥成氏とエムツーが手がけたことで、各セガハード作品、特にメガドライブタイトルの移植技術がさらに磨かれていくこととなった
(画像はSEGA バーチャルコンソール公式Webサイトより)

奥成氏:
 SEGA AGES 2500は長く続きましたが、私のやっていた2期が採算分岐ギリギリというところで、PS3への移行期になっていたこともあり、3期はもうできないなという雰囲気になっていたんです。

 そのタイミングにWiiが発表されたんですよ。そして、Wiiでは『バーチャルコンソール』というクラシックタイトルの配信を大々的にやるということで、任天堂さんからお誘いを受けたんです。

 それまでセガではクラシックタイトルを扱うプロジェクトとして、SEGA AGES 2500以外にも、『ソニックメガコレクション』シリーズなどをいくつか別々の部署でやっていたんですが、「バーチャルコンソールをやるなら、今SEGA AGES 2500で絶賛稼働中のエムツーさんしかない!」って社内で売り込んで。見事採用となりました。

 ここまでのノウハウを駆使して、Wiiのローンチからメガドライブのゲームを毎月バンバン出していこうとなったわけです。

 おかげでWiiは大ヒットして、セガのバーチャルコンソールタイトルも好評を頂いて、ここでようやく会社で「『メガドライブ』は今でも商売できるんだ!」と理解してもらえることになりました。
 翌年にマスターシステム、さらにアーケードも追加して、5年間で100タイトル以上を配信しましたね。

──よくよく考えると、バーチャルコンソールにセガハードの枠があって、そこの配信タイトルを奥成さんとエムツーさんとで全部やってるんですもんね。ものすごい量。

奥成氏:
 国内だけでなくアメリカやヨーロッパ向けにも配信していましたから、合わせると300タイトルぐらいになるんですよ。それをずーっと、SEGA AGES 2500の2期のタイトル開発とクロスする感じにスタートしていって。

 それによって、エムツーさんのメガドライブタイトルの移植技術にさらに磨きがかけられていくわけです。なにしろひたすら移植してますから。

──なるほどー。そんなことをしている開発会社さんは他にいないですもんね。

奥成氏:
 そうなんです。また同時に、“どのタイトルがお客様に求められているか”といった知見も貯まっていったんですよ。人気ゲームが何か、当時とどう変化したかというのが分かってきました。

──そのあたりは、今のメガドライブミニの収録タイトル選びにも活きている感じがしますね。

奥成氏:
 その通りです。そんなわけでバーチャルコンソールは非常に好評頂いたわけです。

 その次は、PS3/Xbox 360で展開した『セガエイジスオンライン』ですね。バーチャルコンソールは当時のものをそのまま配信するというレギュレーションでしたので、何十本も開発しているともうちょっと手のこんだものもやりたいよねというところもあったんです。

海外主導だった『セガビンテージコレクション』も、第3期から『セガエイジスオンライン』としてPS3/Xbox 360で提供された
(画像はSEGA AGES ONLINE -セガエイジスオンライン- 公式Webサイト|SEGAより)

 その頃、『セガビンテージコレクション』というクラシックタイトルの配信がアメリカ主導で先に行われていたのですが、それを日本と統一してエムツーに任せようという話を、今のセガゲームス会長である里見治紀が取り付けてきてくれまして。

 それでやることになったのが、『セガエイジスオンライン』ですね。

──里見会長が推してくれたんですね。

奥成氏:
 里見は当時アメリカにいたのですが、エムツーさんの実力を早くから気付いてくれて、千葉にある会社へも挨拶に行きました。

 エムツーさん以外ですと、ドリームキャストタイトルのPS3/Xbox 360への復刻もこの時期にやりました。こちらの開発はSEGA AGES 2500の『ダイナマイト刑事』や、PS2『NiGHTS into dreams…』を手がけたセガ上海が担当しています。

PS3/Xbox 360で展開された『セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト』
(画像はドリームキャストの名作がよみがえる! −セガ−より)

──PS3/Xbox 360にはセガサターンやドリームキャスト、MODEL2タイトルを移植した『MODEL2 COLLECTION』もありましたし、今思えばかなり充実していましたよね。

奥成氏:
 そして、この後でいよいよニンテンドー3DSが出てくるんです。そこでもやはりバーチャルコンソールでゲームギアのソフトを出すということだったのですが、ゲームギアだけをやっていてもきっとたかが知れているだろうから、それはそれでやりつつ、3DSはせっかく3D立体視があるのだし『スペースハリアー』の3D立体視版をやってみたいって里見に話したんです。

 3DS用バーチャルコンソールのプロジェクトにくっつけてさりげなく、後に『セガ3D復刻プロジェクト』の第1期になるタイトルの企画を忍び込ませて、通したんです(笑)。

──さりげなく(笑)。

奥成氏:
 それで堀井さんに、「うまく会社に取り付けてきたから、3D立体視の『スペースハリアー』を作ろうー!」と話したら、「3D立体視の研究に1年欲しい!」っていうので。
 じゃあ1年はゲームギアのバーチャルコンソールでがんばって、その間に完成させようということになったんです。

 案の定、ゲームギアのバーチャルコンソールだけではさすがに売り上げは乏しかったのですが、そこでようやくセガ3D復刻プロジェクトの第1弾である『3D スペースハリアー』が完成するんですよ。

──開発や研究のための1年の間にバーチャルコンソールをやれていたのは、その後のセガ3D復刻プロジェクトにとって、かなり重要だったわけですね。

奥成氏:
 なのに、エムツーさんを追ったドキュメンタリー映像『M2: Complete Works』だと、そのゲームギアのバーチャルコンソールだけが省かれていたのでちょっと不満だったんですけど(笑)。

──あれがあったからできたんですよ的な(笑)。

奥成氏:
 『セガ3D復刻プロジェクト』の第1期は、Wiiのバーチャルコンソールで好調だったタイトルと、さらに3D立体視にしたら見栄えが良さそうなものを出すという、それまでの知見で得たタイトルを選びました。

 第1期は3D立体視化することだけでいっぱいいっぱいで、それまでに移植していない新規のタイトルの解析には手が回せなかったんです。なので、なんとか最初のタイトルを成功させて、新規タイトルは次回以降にやろうと堀井さんと誓って。
 おかげで第1期はなんとか利益が出たので、新規に待望の『3D アウトラン』とか『3D アフターバーナーⅡ』を作ることもできました。

奥成氏がプロデューサー、開発をエムツーが手がけた『セガ3D復刻プロジェクト』。奥成氏は、第1期タイトルから初パッケージの「セガ3D復刻アーカイブス」までを手掛ける。その後の単体DLの「3D ベア・ナックルII」、「3D ガンスターヒーローズ」、「3D ソニック・ザ・ヘッジホッグ2」や『〜アーカイブス2』以降は実質的にはスーパーバイザーとして参加。
(画像はセガ 3D復刻プロジェクト|セガより)

──そのあたりはもう2014年頃ですし、今のユーザーさんの記憶にも新しいところですね。

奥成氏:
 実情としては『セガ3D復刻プロジェクト』は第2期が利益的に難しくなり、ちょうど私も他の部署に異動になることになって、シリーズを終えることになりました。
 最後に、ファンサービスをしようと『セガ3D復刻アーカイブス』というパッケージを作ったところで私の仕事も終わりました。エムツーさんと打ち上げもやって(笑)。

 ところが配信が少し遅れていた欧米の実績が出るとなかなか好調で、メガドライブタイトルを3本追加で作ってほしいというリクエストがあったんですね。
 ではそこだけは続けようと、僕の後任に下村をプロデューサーとしてアサインしてもらい、3本をボーナスステージ的に開発することができました。

 それを出し終える頃になると、今度は『セガ3D復刻アーカイブス』の実績が悪くないので、来年も出さないかというオファーが国内営業からありまして、僕が離れた後も『セガ3D復刻アーカイブス2』『セガ3D復刻アーカイブス3』、今のNintendo Switchでの『SEGA AGES』へと続くことになるのです。

──その後、再度の異動を経て、冒頭にお聞きしたようにアジア事業部にいる頃に、『メガドライブミニ』のプロジェクトが始まって、今に至るわけですね。

奥成氏:
 振り返ると、セガ好き・メガドライブ好きのお客さんたちがずっと支援してくれたおかげで、こうしてセガがメガドライブを蘇らせることができたと言えるかもしれませんね。

奥成氏は、紆余曲折を経てセガに詳しくなった、あの頃のセガが大好きな“セガのおまわりさん”

──奥成さんはTwitterアカウントのプロフィールに“ゲーム考古学を専攻しています”と書かれていますけど、ゲーム考古学っていう言葉はどこから考えたものだったのですか?

奥成氏:
 はっきりとは覚えていないですが、Twitterアカウントを作ったときに、プロフィールに何を書いたらいいか悩んで、思いついただけです。

──奥成さんはいつ頃から、そのようにプロフィールに書くぐらいに80年代〜90年代のものを集めたり、注目するようになったのでしょう?

奥成氏:
 うーん、そもそも集めてはいないんですよ。“当時に買ったものを捨てていない”っていうだけで、仕事で必要なものを買ったりとかはあるんですけど、収集したりというのは全然ないんですよ。

──確かに、奥成さんは自分の思い出の品は取ってあるものの、いわゆるコレクター的な趣向はあまりないですよね。

奥成氏:
 僕以上にコレクターな人が僕の周りにたくさんいますから。何かあったときにはそういう方に貸してもらえばいいやみたいに思っていますね。

──そのあたりは学生の頃に友達としていたことと共通していますね。

奥成氏:
 僕自身は、ただ親の影響で当時の物をよく取っておいただけなんですよ。

──いやー、30年前のレシートを保管しているのは普通ではないと思うんですけどね(笑)。そうしたところから、今ではクラシックタイトルのことなら奥成さんに任せようというところもあるわけで。

奥成氏:
 そこは、最初にセガに入ったときからいろんなところに広くウロウロしてた結果、社内のコネクションができて結果的に“セガに詳しくなった”のも、大きいと思うんですよね。

 社内では“交番のおまわりさん”みたいになっているんですよ。

──おまわりさん?

奥成氏:
 「あのゲームを作った人は誰ですか?」って聞かれたら、その方は今はあの部署にいますって教えたりするんです。退社された開発者の連絡先とかも(笑)。

──おまわりさんですね(笑)。セガ愛というか、セガが好きだなという気持ちはどうなのでしょう?

奥成氏:
 愛社精神という意味で言えばもちろんですけど、個人的なところで言うと、セガ・マークIIIとメガドライブでセガが好きになって、セガに入社しているので。やはり好きの原点はそこなんですよね。

──自分が一番夢中だった頃ですね。

奥成氏:
 そうですね。セガサターンやドリームキャスト以降は、もう仕事として関わっていますから。ちょっと見え方は違いますよね、やはり。会社が変わったとかじゃなくて、僕の立場が変わった。

──なるほど。最後にもうひとつだけお聞きしたいのですが、『メガドライブミニ』の反響の中には“バカな頃のセガをひとりで背負って立つ男がいる”という声がありました。これについてはどう思われますか?

奥成氏:
 それを僕のことだと思われるなら、明確に否定します。監督である宮崎のもと、百戦錬磨のメガドライブ好きが集まってこだわりを存分に発揮したのが『メガドライブミニ』ですので、そのツイートの“一人で背負って立っている”とするなら宮崎のことですね(笑)。

 会社の中で、発言権のある人がバカをやるとこういうものが生まれます……というものが『メガドライブミニ』かなと思いますよ。

──なるほどー。そこに、いつもここぞというところで後押ししてくれている会長の里見治紀氏も。

奥成氏:
 もちろん、そうですね。いずれにしろ一人じゃできません。

──そういう人達がいてくれて、奥成さんもやりたいことができる。セガは今もセガらしいことができる会社である、と。

奥成氏:
 そういうことですね!(了)


 奥成洋輔氏は、幼少期にゲームと出会い、友達とともにセガ・マークIIIやメガドライブに明け暮れ、ひたすらに楽しんだ末にセガへ入社。セガサターン時代を支え、激動の時代を経て、セガのクラシックタイトルを扱うプロジェクトへたどり着く。

 そこには常に、少年時代から変わらず根底にある“ゲームへの想い”があり、今の奥成氏を、そしてセガのクラシックタイトル復刻のプロジェクトを支えている。
 また、その姿勢が開発会社エムツーと共鳴してこだわりを生み出していることを感じられるインタビューとなった。

 奥成氏が収録ラインナップを手がけている『メガドライブミニ』のコンセプトは、“メガドライブの時代そのものを再現する”というものだが、アーカイブ的な意味合いだけでなく、奥成氏を含め、当時にメガドライブを楽しんでいた人の“あの時の記憶”を蘇らせるということなのだろう。
 ゲームに一番夢中だった頃の気持ちを蘇えらせるような“お祭り”だった。

 受け継がれたもの、共に楽しみ、がんばってきた仲間たちによって、それは実現されている。

 奥成氏をはじめとした、“バカな頃のセガをひとりで背負って立つ男たち”によって……もしかしたら“あの頃のセガ”が、また蘇ってくるのかもしれない。

 それをいつでも、心待ちにしていたい。

インタビュー収録日は奥成氏の誕生日が近かったこともあり、特製LOVE SEGAプリントのケーキを贈らせて頂きました!
『メガドライブミニ』公式サイトはこちら

【この記事を面白い!と思った方へ】

 電ファミニコゲーマーでは独立に伴い、読者様からのご支援を募集しております。もしこの記事を気に入っていただき、「お金を払ってもいい」と思われましたら、ご支援いただけますと幸いです。ファンクラブ(世界征服大作戦)には興味がないけど、電ファミを応援したい(記事をもっと作ってほしい)と思っている方もぜひ。
 頂いた支援金は電ファミの運営のために使用させていただきます。

支援金を送る(PayPal.Me)

※クレジットカード / 銀行口座に対応

メッセージと支援金を送る(Ofuse)

※クレジットカードにのみ対応

インタビュアー・文
山村智美
フリーランスのゲーム関係専門ライターとして、GAME Watchにて約17年ほど、各種の連載やレビュー、インタビュー記事を執筆。現在は幅広く活動中。かつては『バーチャファイター』シリーズなどの3D格闘ゲームのプレイヤーで、その後「ファイナルファンタジーXI」等のオンラインゲームを廃人的に遊びこんだ経験を経て、今ではオールジャンルにゲームを遊ぶ雑食ゲーマーに。ゲームに注いだ情熱やこだわり話が大好物。
Twitter:@PommTomo
インタビュアー
なかJ
「電撃セガサターン」、「電撃PS2」、「電撃オンライン」、「電撃レイヤーズ」、「iモードで遊ぼう!」、「mobileASCII」、「デンゲキバズーカ!!」と数々の媒体を渡り歩いて来た40代ファミコン世代の編集者。好きなハードは「ファミコンバージョンのゲームボーイミクロ」。
Twitter : @nkjdfng
編集
実存
哲学科を卒業後、ディオゲネスのような暮らしを送っていたが、2017年11月より電ファミニコゲーマー編集部に加入。
ローグライクやシミュレーションなど中毒性のあるゲーム、世界観の濃いゲームが好き。特に『風来のシレン2』と『Civlization IV』には1000時間超を費やしました。最も影響を受けたゲームは『夜明けの口笛吹き』。
Twitter:@ex1stent1a

電ファミニコゲーマー

「セガ」をもっと詳しく

「セガ」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ