おもいっきり人間の目線を通して《動物》の姿を描くことで見える、魅力的な関係 〜小川洋子『ことり』に見る名場面

9月9日(木)13時0分 婦人公論.jp

人をひきつける文章とは? 誰でも手軽に情報発信できる時代だからこそ、「より良い発信をする技法」への需要が高まっています。文筆家の三宅香帆さんは、人々の心を打つ文章を書く鍵は小説の「名場面」の分析にあるといいます。ヒット作『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』の著者の連載。第10回は「動物との関係」の名場面について……

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第9回「《友情》〜松浦理英子『最愛の子ども』に見る名場面」はこちら

小説で動物を中心に持ってきた物語は存在しないのか?


小川洋子の小説『ことり』は、あるひとりぐらしのおじいさんと、ある一羽の小鳥の、関係性と呼べるような呼べないような、それでも「関係」と呼びたいような関わりを描いた物語だ。

小説の中心に動物を持ってくることは、案外難しい。と私は思う。

映画ならよくある。「犬と人間」「猫と人間」の関係性というのは、しばしば夏休みに見るエンターテインメント映画たちのなかに入りこんでくるテーマではないだろうか。

漫画でもよくある。飼い主の猫への溺愛を綴ったエッセイ漫画は枚挙に暇がないし、それ以外にもフィクション・ノンフィクション問わず動物を中心に持ってくることは珍しくない。

しかしそれらが成立するのは、やはり圧倒的に、ビジュアルがそこにあるからだ。

当たり前のことだが、犬や猫に限らず、動物は言葉を持たない。彼らのビジュアルが、動きが、あってこそ、そこに存在感が出るのだ。

では小説で動物を中心に持ってきた物語は存在しないのか? と言われると、そんなことはない。動物と人間の関わりを描いた物語はたくさんある。『ことり』は、その代表作ともいえるほど、動物が魅力的に綴られた小説だと思う。

「小鳥の小父さん」の人生


物語は、あるおじいさんが亡くなった場面から始まる。

遺体を発見した新聞の集金人は、彼のことをよく知らない。親しい人は近くにほとんどいないようだった。

そのおじいさんは「小鳥の小父さん」と呼ばれていた。近所の幼稚園にあった鳥小屋を、ひとりでボランティアとして世話していたからだ。

おじいさんが亡くなった部屋には、小鳥がいた。一羽の小鳥が、鳴き続けていた。

小説は、彼の人生を振り返るかたちで進んでゆく。

彼には兄がいた。初めて鳥小屋に彼を連れて行ってくれたのも兄だった。

その兄は十一歳を過ぎたあたりから、ふつうの言葉を喋らなくなった。母親がいくら「正しい」言葉を取り戻そうと努力をしても、彼自身が独自に編み出した言葉で喋ることをやめなかった。そんな兄を彼は、小鳥とおなじで、さえずりのように言葉を喋っているのだと理解する。彼は大人になり、兄と二人暮らす。兄弟二人の生活にはいつも小鳥が共にいた。

けれどやがて兄も亡くなり、彼は静かにひとりになってゆく。友達や恋人もおらずひっそりと暮らし、兄の死後日課となっていた幼稚園の鳥小屋の掃除さえもとりあげられる。そんな彼が世話をすることになったのが、怪我をした一羽のメジロだった。


『ことり』小川洋子・著、朝日新聞出版

徹頭徹尾、小父さんフィルターで小鳥たちが描写


動物を小説のなかに登場させるとき、どうしても、その動物のことを描くには人間のフィルターを通さなくてはいけない。動物は自分で言葉を発さないから、人間からどう見えるか、というふうに描写せざるをえない。

『ことり』のすごいところは、主人公の「小父さん」からみたメジロの愛らしさが、小説から伝わってくることだ。つまり、徹頭徹尾、小父さん視点、小父さんフィルターで小鳥たちが描写されているのである。

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メジロを置いて外出するのはひどく辛いことだった。衛生面から新しいスポイトが必要になったり、郵便局へお金を下ろしに行くような時は、心配でたまらなかった。具体的に何が心配なのか自分でも上手く説明できないのだが、テープでぐるぐる巻きにされたメジロが一羽、家に取り残されていると思うだけでいたたまれない気持に陥った。小父さんは最短の時間で移動できるよう目一杯自転車を漕ぎ、テキパキと用事を済ませ、息を切らしながら玄関に駆け込んだ。段ボールを覗くと当然のようにメジロはそこにいて、
「一体どうしたんです? そんなに慌てて」
とでも言いたげな目で小父さんを見上げた。
「変わりはないか?」
「いいえ、何にも」
小父さんをもっとよく見ようと、メジロは何度も右に左に首をかしげた。どんなに翼が傷ついていようとも、空を飛べなくても、鳥の利発さを証明するこの仕草だけは損なわれていなかった。
(『ことり』p267-268、小川洋子、朝日文庫)


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たとえばこのシーンでは、前半部は小父さんのメジロへの想いが存分に語られている。

この場面、家にメジロが来たばかりで、小父さんはまだうろたえている段階なのだ。メジロは最初から怪我をしており、治療はしてもらったものの、小父さんは心配でたまらない。そんな様子が伝わってくる。

動物の愛らしさや魅力を伝える手法


そして後半部、帰ってくるとメジロはそこにいる。そして、小父さんから見たメジロの描写になる。

もちろん小鳥は言葉を喋れない。しかし、小父さんから見た小鳥は、言葉を持っているかのようだ。こんなふうに言葉が交わされる様子を読むと、小鳥と小父さんの間に関係性が築かれているのがわかるし、なによりも小父さんから見た小鳥の愛らしさがわかる。

こんなふうに、「人間のフィルターを通した動物の姿」を描くことで、その動物の愛らしさや魅力を伝える、という手法は、他の場面にも通じている。

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住まいや餌のことと関係があるのかどうか、鳥籠に移ってからメジロの歌はまた一段と上達した。一音一音を転がすスピードが増し、アクセントのつけ方が絶妙になり、声に甘さが加わった。最初の頃の危なっかしい感じはすっかり消えていた。
午前中の早い時間、二人は毎日練習した。バードテーブルにメジロが集まってくる朝もあったが、彼は集団のさえずりには耳を貸さず、小父さんの歌にだけ付き従った。二人の歌は徐々に近づき、ひととき溶け合い、分かち難く一つのメロディーを奏でた。
「今、上手くいきましたね」
そんな時メジロはクルリと瞳を動かし、合図を送ってきた。小父さんはうなずいてそれに答えた。二人だけの間に、暗号が通じ合う瞬間だった。
(『ことり』p277、小川洋子、朝日文庫)


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メジロが美しいさえずりを奏でるので、小父さんがいっしょに練習している場面だ。

「今、上手くいきましたね」そんなふうに小父さん目線の台詞をアテレコ的に出すことで、小父さんとメジロの間に、たしかにコミュニケーションが存在していることがわかる。

動物と人間では、言葉がないからコミュニケーションなどないと思われるかもしれない。だけどそこにはたしかに、本人たちにしかわからなくても、通じ合う何かがある。それを小説で表現するには、こんなふうに、おもいっきり人間の目線を通した動物の姿を描くことに徹することで、可能になるのではないか。

『ことり』を読むと、人間相手では通じ合うことが難しかった小父さんの真摯なコミュニケーションが、ちゃんと小鳥相手だと通じていることが、わかる。

それは誰にも邪魔されない、たしかに魅力的な関係性のひとつなのだ、と小説を読むとしみじみ思うのである。

婦人公論.jp

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