僕らはいつも「輝く賢介」を待っている——ファイターズ・田中賢介という内野手の回想

9月16日(月)11時0分 文春オンライン

 9月12日、今シーズンの東京ドーム最終戦(楽天25回戦)だ。試合前、大型ビジョンに思い出のシーンが映し出され、田中賢介の「東京ドームラストゲーム」セレモニーが始まった。花束贈呈のプレゼンターは1999年ドラフトで賢介を引き当てた大島康徳・元監督だった。大島さんはガン闘病を公表されており、どんなご様子かなぁと心配したが、チームを指揮されていた頃と変わらないビッグスマイルだった。賢介の肩を抱き、記念写真を撮った。それだけで胸がいっぱいになる。


3球団競合で獲得も…ドラフト時に抱いた複雑な感情


 タテ縞ユニホームのファイターズを思った。大島さんは2000〜2002年シーズン、つまり東京ドームを本拠地にしていた最後の時代の監督さんだ。2003年からチームを指揮したトレイ・ヒルマンは「東京ドーム最後の監督さん」でもあるんだけど、イメージ的には北海道移転後、06年日本一の「シンジラレナーイ!」の胴上げ監督だ。大島さんが出てきてくれたのは意味が深い。気分は苦闘つづきの東京ファイターズにタイムスリップだ。小笠原道大が孤軍奮闘していた時代。僕も「中日、西武と3球団競合の末、うちが獲得したドラフト2位・田中賢介(東福岡高)」に夢を託した1人だ。


 ドラフト時のテレビ映像を鮮明に覚えている。確かクジを引き当てた瞬間、ファン仲間から「やりましたね!」と電話が入ったはずだ。中日はともかく、西武のハナをあかしてやったのが万歳だった。いやもう西武にはね、80年代からコテンパンにやられていたから。「やりましたね!」「田中君、楽しみですね」、何本かそんな電話が入った。で、皆、その後、判で押したように「田中君の細眉」を指摘した。制服姿の田中賢介君は眉を整え、もう長野オリンピック、スキージャンプの船木選手みたいな細眉なのだった。「これまでのドラフトでいちばんの細眉ですね」「3球団競合で細眉獲得ですね」「期待の細眉ですね」、そんな話だった。


 ただ個人的に東福岡高の田中賢介君獲得には、多少複雑な感情も混じっていた。僕は1年前から日暮里・絵理花の常連になり、圧倒的に森本稀哲推しだったのだ。ヒチョリは肩痛で入団1年目を棒に振っていた。2軍戦でもバット下げ要員だ。ドラフト3球団競合の内野手が入団しちゃったらやばい。帝京高で鳴らした遊撃手の座が危うくなるぞ。せっかく「金子誠のバックアップ」を狙ってたんだけどなぁ。


  案の定、翌シーズン、ヒチョリは外野手にコンバートされた。ファイターズは糸井嘉男や陽岱鋼もそうだけど、コンバートの名外野手を輩出している。ヒチョリの前には石本努の例があった。不思議なことに石本もヒチョリも肩を壊してから外野手に転向している。


 じゃ、1年先輩のヒチョリを外野に押しやった3球団競合ルーキーが「ポスト金子誠」の座を占めたかというと、ことはそう簡単じゃなかった。ヒチョリも賢介もプロの壁にぶつかる。彼らが飛び込んだのば甘い世界じゃなかった。



田中賢介 ©文藝春秋


2軍戦でほぼ毎試合エラーしていたあの頃


 なーんて回想していたら、上層階自由席の通路をお誂(あつら)え向きの顔が通った。すんごい久しぶりだなぁ。鎌ケ谷やマリンでよくお会いした女性ファンだ。仲良しお母さんと娘さん、いつも一緒に動いておられた。僕らの前列に来たからお声掛けした。どうもです。賢介の東京ラストゲームなんて実感わかないですね。


 で、みなさん席でタテ縞ユニを着たんだけど、それが見事だった。「ATSUZAWA 19」「IKOMA 13」「KOMAKI 41」、むせ返るように懐かしい。往時の鎌スタのギンギラ照りつける太陽を感じた。今みたいにカッコいいビジョンなんかない頃だよ。DJチャスもまだいない。太陽と汗。そのなかでヒチョリも賢介も頑張っていた。飯山も實松も真っ黒に日焼けしていた。あ、それは2軍コーチとして今もそうだね。



「賢介、守備ホントに下手でしたねー」


 前列の女性ファンに話かける。みんな肩を揺すって笑った。


「ホントですよー、捕るまではいいんだけど、どこに投げるかわからない」


「賢介のとこに飛ぶと、球場全体が、あぁ〜って」


「アウトが取れないんだもん」


 そうなのだ、3球団競合の俊英は守備に問題を抱えていた。実際は「捕るまで」だって危なっかしかったのだ。が、「捕ってから」はもっとだ。あれはイップスの類だったのかなぁ。暴投また暴投。2軍戦でほぼ毎試合エラーしていた。賭けてもいい。あのとき、「ATSUZAWA 19」「IKOMA 13」「KOMAKI 41」も賢介が後に名手と呼ばれるなんてこれっぽっちも思わなかった。ていうか、鎌ケ谷の常連は皆、こりゃダメだと思っていた。


 それがゴールデングラブ賞をもらうんだから練習は偉大だ。今、渡邉諒が守備でチームの足を引っ張ったりしているが、そんなことで凹んじゃダメだ。あの頃、鎌スタで見た賢介よりずっとマシだよ。やれば必ず上手くなる。練習はウソをつかない。僕はチームが北海道へ移転した後、大きく飛躍した賢介を誇らしく思うけれど、いちばん思い出に残るのは鎌スタでエラーしていた姿なのだ。あの一生懸命な若者なのだ。諦めたら終わっていただろう。賢介は努力を重ねた。


 田中賢介は天性のバットコントロール感覚に恵まれた選手だ。持って生まれたものがある。が、それ以上に努力した選手だ。練習した選手だ。ちゃんとステップを一段ずつ上っている。何度も何度も壁にはね返され、06年シーズンの途中、ついにヒチョリと2人でスタメンを掴んだ。そこからはみんなが知ってる賢介だ。1番打者として打線を牽引し、2番で犠打の記録をつくり、3番で返すバッティングをした。驚いたことに1シーズン刻みで役割を変えるのだ。堅守巧打の万能選手。もちろん、それを下支えしていたのは技術的な追求心、練習量であったと思う。



賢介はみんなの心の「野球」と関係があるのだ


 東京ラストゲームはファンの同窓会だった。球場から足が遠のいていた人も、東京ファイターズをこじらせたままの人も、北海道から駆けつけた人も、要するに田中賢介にあの場に呼び出された。賢介はみんなの心の「野球」と関係があるのだ。賢介を見なくては、見届けなくては、みんなの心の「野球」が宙ぶらりんのままになる。みんな納得できないのだ。賢介はただのプレーヤーではない。


 8回裏ファイターズ最後の攻撃、先頭西川が投ゴロで倒れ、4番中田が四球を選んだ。スタンドが沸く。1人出れば賢介まで打順がまわってくる。続く5番近藤の打席、みんな、三振でもいいからゲッツーはやめてくれという気持ちになっていた。可能性が高いのは火の出るような1塁ライナーで飛び出しゲッツーだろうか。賢介にもう一打席やりたい。賢介コールをしたい。気負ったせいかここまで賢介は3の0だ。と、近藤は平凡なセンターフライを打ち上げた。場内は拍手喝采。フライアウトになってあんなに拍手をもらう近藤を見たことがない。



 2死1塁で賢介の出番だ。ものすごい賢介コールになった。


 けんすけぇぇぇ、けんすけぇぇぇ、けんすけぇぇぇ、けんすけぇぇぇぇ。


 そして応援歌が始まる。


 どこまでも飛ばせ、賢介ガッツだ GO GO GO

 僕らは待つよ 輝く瞬間


 あんなに輝かしい球歴を持った選手に僕らは待つと歌い続けてきた。それはプロの壁に阻まれ、もがいていた若き日の姿に重なる。いや、そうじゃない。僕らはいつも次の「輝く賢介」を待っていたんだ。まだ先があると信じていたんだ。


 第4打席はレフトフライだった。結局、東京ラストゲームはノーヒットだ。僕は立ち上がって拍手を送った。スタンディングオベーションにふさわしい勇姿だった。東京が終わってもまだ残り試合がある。まだ泣かないと決めた。輝く瞬間を待っているから。まだ終わりにできないから。



 追記、その後、賢介は14日のソフトバンク戦(札幌ドーム)9回2死から代打で登場、見事センター前ヒットを放った。通算1500本安打まであと5本である。


◆ ◆ ◆


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(えのきど いちろう)

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