「殺しの柳川」は極真会館にとって最高の虫除けだった

9月17日(月)7時0分 NEWSポストセブン

戦後日韓裏面史を紐解く(アフロ)

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“殺しの柳川”と称された柳川組を解散後、日韓の橋渡しに後半生を捧げた柳川次郎(梁元錫、ヤンウォンソク)が、力を入れたのがスポーツ交流だった。のちに劇画『空手バカ一代』のモデルとなりスーパースターになった、空手の極真会館館長・大山倍達とは兄弟同様のつきあいだった。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。


 * * *

 1969年か1970年のことだという。千駄ヶ谷の東京都体育館で空手の極真会館が開いた全日本選手権大会にその男が姿を現すと、役員席にいた館長の大山倍達はすぐさま駆け寄った。あまりの慌てぶりに、弟子の添野義二(現・士道館館長)は思わず「あの人は誰ですか?」と師に尋ねたほどだ。大山はすぐに言った。


「きみ、あれが殺しの柳川だよ」


 梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』で知られる極真会館は、伝統流派がいわゆる寸止めルールを取っていたのに対し、フルコンタクト(直接打撃)を提唱した。最盛期には全世界に1200万人もの会員を有した。その極真会館の相談役が柳川次郎である。柳川は大山との出会いについてこう語っている。


〈終戦後のいわゆるドサクサと称される時期に私と大山館長との出会いがあった。(中略)館長との初対面のことを思い出してみたのだが、どうも角突き合わせてあわやケンカ一歩手前というところまでいったのではないだろうか。しかし、何がきっかけかは忘れてしまったが、その後すっかり意気投合してしまい、以来ずっと兄弟同様のおつきあいをさせてもらっている〉(『月刊パワー空手』1982年9月号)



 大山は柳川と同じく朝鮮半島の出身で、韓国名を崔永宜(チェヨンイ)という。のちに日本に帰化したが、柳川とは義兄弟の仲にあった。大山の弟子のひとりで、現在は極真館館長の盧山(ろうやま)初雄は、「柳川相談役と大山総裁は互いに『兄弟』と呼び合っていました」と振り返る。


「極真会館には様々な後援者がいました。運送会社を経営する方もいて、ドライバーが運転中にヤクザとトラブルになると、柳川相談役に『なんとかならないでしょうか』と伝え、解決してもらったこともありました。


 支部長会議に出席しても、大山総裁の横に座りじっと話を聞いているだけで、口を挟むことは滅多にありません。池袋に極真会館の本部を建てた時には、資金不足で工事が何度も中断するほど苦労したんですが、大山総裁が柳川相談役に支援をお願いしたところ、柳川組傘下の各組にノルマを割り当ててくれたそうです。ただ、『思ったほどお金が来ない』と大山総裁はこぼしていましたけども」


 大山が頼ったのは柳川の威光だ。1969年のことだが、極真会館を全日本空手道連盟(全空連)が吸収しようとしたことがある。全空連は松濤館流や剛柔流など国内空手各派の統一を目的に設立された。当時の会長は日本船舶振興会会長で右翼の大立て者の笹川良一。赤坂の料亭『千代新』で大山と会い、「全空連の幹部ポストを提供するので傘下に入ってくれ」と求めた。


 大山はこれを拒絶した。大山は全空連が寸止めルールを取ることを公然と「ダンス空手」と揶揄し、双方は激しい対立関係となる。相手は政財界に睨みをきかす笹川である。その圧力をどう凌いだのか。



「ちょうど大山先生が笹川さんと揉めるようになったあたりから、柳川さんが相談役として前面に出るようになりました。大会パンフレットに顔写真つきで柳川さんの名前が出てきましたから。大山、笹川、柳川の三者で話をした時に、柳川さんが笹川さんに『もし大山に何かあったら、黙っていない』と言い渡したこともあったと。でも、極真会館の内部では『なんでヤクザを使うんだ』という声が出たのも事実です」(添野)


◆最高の虫除け


 政界、財界など多方面に顔が利き、「最後のフィクサー」とも呼ばれる朝堂院大覚(ちょうどういんだいかく)は、剛柔流九段の武道家だ。当時、柳川とやりとりをした一人でもある。


「笹川が大山と断絶した後も全空連の中には極真会館を取り込むべきと考える者もいて、大山の説得を試みていた。わしもこれに関わっとったわけや。当時は大山への圧力は相当なものがあった。なんぼ漫画で有名になったというても、空手の歴史では伝統流派のほうが断然上。実態よりも過大に評価されたところがあった。他流派からの妬みややっかみもあった。その盾になったのが柳川さん。大山や極真会館にとって最高の虫除けやったと思う」


 極真会館の隆盛は、大山を主人公にした『空手バカ一代』を抜きにして語れない。一大ブームによって入門者が激増し、本部建設の資金繰りに困るほどだった極真会館は資金面で潤うようになる。原作者の梶原は恩人として手厚く遇された。



 しかし、いつしか梶原は極真会館を自らの影響下に置こうとしているのではないかとの疑念を抱かれるようになる。梶原の弟の真樹日佐夫を大山後継の2代目館長に就けようと画策しているとも取り沙汰された。対して大山は梶原と近かった高弟らを破門し、梶原の動きを牽制した。大山と梶原の金銭トラブルもあり、両者の関係は悪化し、極真会館を二分する騒動になった。


 またしても柳川が一肌脱いだ。柳川の訪韓団に大山や梶原が同行した際に、食事の席で「おまえらええ加減に喧嘩すんなよ。仲良うできへんのか」と諭したという。


 それでも梶原が膵臓炎で倒れ極真会館への影響力を失うと、大山に「兄弟は運がいいな」とあけすけに語ったという。いかにも一癖も二癖もある柳川らしい。


「柳川会長を東京駅まで出迎えに行くと、『ご苦労さん』と声をかけてくれました。『殺しの柳川』というより、『侠客』というべき振る舞いでした」


 大山の秘書だった米津等史は懐かしそうに、そう語る。また、柳川は朝鮮半島との関係を周囲にも一切隠さなかったという。米津が続ける。



「日本人になりきろうと、侍の所作に強い憧れを持っていた大山総裁は、自らのルーツについてほとんど語らなかった。なぜ総裁が柳川会長と兄弟の仲なのか。極真会館では誰もが訝しがりながらも、敢えて聞かない、聞けない、という感じでしたね」


●たけなか・あきひろ/1973年山口県生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院修士課程中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、「週刊文春」記者などを経てフリーランスに。著書に『沖縄を売った男』。


※SAPIO2018年9・10月号

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