本当の自分を認識されない悲しさ——『ミッドナイトスワン』と「白鳥の湖」の共通点

9月25日(金)7時0分 文春オンライン

 草彅剛さん主演映画『ミッドナイトスワン』が9月25日(金)に公開される。映画ジャーナリストの金原由佳さんは、本作をバレエ作品「白鳥の湖」に重ねて鑑賞したという。


※映画の内容に触れています。予めご了承ください。
※こちらの映画評は『 ミッドナイトスワン SPECIAL CINEMA BOOK 』より転載しています。



 誰しも小さい頃に、ああなりたいと願う、理想の大人像というものがあったと思う。10代、20代の頃はその像はまだあやふやで、輪郭が定まっていないからこそ理想の欠片をそこに気軽に投げ込むことができた。これが30、40代となると、なりたい自分とそうなれない自分との差が明確に見えるようになっていき、だからこそ引き算のようによこしまな欲を捨てていって、最後に「それでもなお、こうなりたい」という骨だけがしっかりと心に残る。



© ​2020 Midnight Swan Film Partners


 映画『ミッドナイトスワン』で草彅剛が演じる凪沙という人は、その譲れない理想像の骨を、しっかりと抱えているように見える。

凪沙の部屋は玄関を開けるとすぐにキッチンがある1DK。壁には過去に憧れた女性たちだろうか、雑誌を切り抜いたのか、美しいモデルたちのピンナップが貼られている。凪沙は立ち姿が美しく、ピンヒールで新宿の街を闊歩する。昼間の化粧は薄く、素顔を生かしたメイクで、ショークラブの舞台に上がるときは華やかに装う。


 店の仲間と話すときは本来の低い地声が多く、余所行きのときは若干キーが上がるが、だからといって過剰に女性らしさを繕ったりはしない。草彅演じる凪沙はこれまでの日本映画に出てくるトランスジェンダーと比べてもかなり自然体で、素顔の自分と化粧をした自分、そして社会的な顔との間を行ったり来たりして、情況に応じての変換の様が興味深い。


 さて、ショークラブで凪沙が同僚と踊るのは「白鳥の湖」の第2幕「4羽の白鳥たちの踊り」だ。「白鳥の湖」は悪魔の呪いで白鳥にされたオデット姫の物語で、夜にしか人間の姿に戻れない。それは夜のショーの間だけ、なりたい姿で踊る凪沙と重なり合う。ところが、世の不景気を反映してか、店の客は攻撃的で、踊り子たちにときに不躾な言葉を吐きかける。


 内田英治監督は今回、オリジナルの物語を編むにあたり、トランスジェンダーの人にかなりの聞き込みをしたといい、日常生活における様々な迷い、経済的な不安定さや明確にならない将来設計図にその都度、揺れる姿を浮かび上がらせる。何より「白鳥の湖」と重なり合うのは、愛する人に本当の自分の姿を認識されないという悲しさである。ジークフリート王子は愛するオデット姫と、悪魔の娘オディールとの見分けがつかない。凪沙の元に送られる一果は母親の目に、持っているポテンシャルの真価は映っていない。一果と親友になるりんは母から理想の娘像を押し付けられ、なれないとわかり絶望する。誰もが自分のなりたい姿の重さを自覚し、なれないふがいなさに圧し潰されそうだ。


 ところがこの物語は、凪沙が一果のバレエの可能性に気づき、彼女の保護者になろうと決めたところから軽やかに転調していく。


 刺刺しい凪沙と一果の関係性に柔らかさや温かさが宿り、精神的な母と娘になっていく。バレエの先生から「お母さん」と呼ばれ、破顔一笑となる場面の凪沙の笑みは忘れがたい。こういう形で草彅を美しいと思う日が来るとは10年前は予想もしていなかった。 


 最終的に凪沙が採る選択については、現在、日本のトランスジェンダーがぶち当たる法の壁も関係している。日本での養子縁組には様々な条件が課せられ、血縁上の母が手放さないという以上、凪沙と一果が戸籍上で母子になるのは難しい。そこで採った肉体的に母になるという決断の結果の凄まじさに驚く観客も少なくないだろう。


 実は「白鳥の湖」のオデット姫とジークフリート王子はこの世では結ばれない。だからといって悲劇かというとそうとも言えず、二人はあの世で強固に結びつく。それは現実の世界ではなかなか見えない絆かもしれないが、この映画と出会ったわたしたちはせめて受け入れ、感じ取れる人間でありたい。


(映画ジャーナリスト 金原由佳)


(金原 由佳)

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