中島みゆきから40年越しにオファーが!渡辺真知子「本当の意味で歌手がライフーワークに」
10月1日(土)21時0分 週刊女性PRIME
「やっぱり45年続けられたのは、歌うことが好きだからなんですよね。歌に勝るほど、熱中できるものは何ひとつありませんでした」
『かもめが翔んだ日』『唇よ、熱く君を語れ』など、今なお色褪せない数々の名曲で知られる、歌手の渡辺真知子。そんな彼女の45年にわたる歌手生活には、知られざる苦悩と葛藤があった─。
デビュー2年目で紅白出場、レコ大新人賞
'56年10月23日、神奈川県横須賀市に生まれた渡辺は、言葉を話すよりも早く、ハミングをしているような子どもだったという。
「家族が音楽好きだった影響で、幼稚園のころから人前で歌を発表することが好きで“今日もいい日だ”なんて思いながら、シチュエーションを選んで歌っていたみたいです」
“歌手になりたい”と明確に意識したことはなく、自然とその道を歩んでいった。
「私が歌うことが好きだと知っていた友人たちが“こういう音楽事務所のオーディションやってるよ”って紹介してくれて。しかも勝手に応募されちゃったんですよ。合格したこともありましたが、親には高校は卒業したほうがいいと言われていたので、個人で活動していました」
転機は高校生のころに出場したヤマハの『ポピュラーソングコンテスト』だ。'75年のコンテストには、中島みゆきや八神純子など錚々たるメンバーが出場している。そんな中、渡辺はオリジナル曲『オルゴールの恋唄』で特別賞を受賞。その後、短大を卒業した'77年には、ファーストシングル『迷い道』でデビューを果たし、翌年には名曲『かもめが翔んだ日』が生まれた。
同曲のヒットをきっかけに、デビュー2年目にして紅白初出場と日本レコード大賞最優秀新人賞受賞を果たすなど、一気にスターダムを駆け上がった彼女だが、目まぐるしい芸能界の日々に戸惑いもあったという。
「とにかく、休みがなかったですからね。ずっと仕事ですから。いくら好きなことでもね、ずっと同じステーキばっかり食べてたら味がわかんなくなっちゃうみたいな(笑)。眠たいぞとか、もう食べる時間もないぞって。移動するタクシーの中でもインタビューが入るくらい、残酷なまでにパンパンのスケジュールでした」
しかし、そんな多忙な毎日の中でも“辞めたい”と思ったことは一度もなかった。
アリゾナで歌を披露すると…
「歌手をライフワークにしたかったので、やめたいというのはなかったです。ただ、もう少し自由になりたいと思っていましたね。友達と会う時間とか、女性同士でどうでもいい恋愛の話でもして、そういうところから歌詞って生まれてくるものじゃないですか」
それでも、発売したシングルは立て続けにヒットを連発し、順風満帆に見えた歌手生活だが、渡辺はデビューから10年後の'88年に突如、アリゾナへ半年間の留学を敢行している。いったいなぜ─。
「時代が、フュージョンとかバンドブームになっちゃったんですね。突然、時代が背を向けたような感じだったので、非常に寂しい思いをしました。でも当時、ほかのボーカルの人たちがみんな外国へ行ったりしていて、日本だと顔はバレちゃってるし、充電するためには外に出たほうがいいと判断しました。私自身、それまで目まぐるしく仕事に追われ続けてきて、自分にとって必要なものとそうでないものを整理する時間が必要でした」
留学先では日常会話レベルの英語を教えている学校に通った。世界各国から集まってきた、英語が話せない人々との日々はカルチャーショックの連続で、自分が歌手であることを忘れ、刺激的な毎日を送っていたという。しかし、やはり現地でも渡辺がヒット曲を数多く持つ歌手であるという噂は広まってしまったようで─。
「ある日隣のクラスのドイツのクラブ歌手の女性が、“どの子なの! 日本の歌い手の子は!?”って乗り込んできたりして(笑)。そんなときイースターのパーティーで歌を披露することになったんです。そこで『かもめが翔んだ日』を歌ったら、みんな片言の英語で私にその感動を伝えにくるんですね。
そのときに、“ああ、自分の身体から自分の国の言葉で歌うことがいちばん伝わるんだな”っていうことを肌で感じました。それで、自分の技量を出せる曲を自分の好きなシチュエーションで歌いたいと、より強く思うようになったんですね」
突然のブーム終焉に迷いはあったものの、留学を経て原点を思い出した渡辺。その後は、ラテンやジャズなど新しい表現へと挑戦していった。そして、'19年には40年前の『ポピュラーソングコンテスト』で出会った中島みゆきの『夜会』への出演を果たす。
本当の意味で歌手がライフワークに
「みゆきさんの『夜会』への出演オファーは何の前触れもなく事務所に届いたんです。高校生のとき以来、あまりお付き合いがあったわけでもなかったので本当に驚きました。セリフもダンスもあったので、私にとってはほんとに清水の舞台から飛び降りる気持ちで。新しいことに挑戦しなくても生きていけるし、私にとって挑戦するにしては気の遠くなるようなことばかりで、かなり動揺しました」
『夜会』は中島が'89年からスタートさせたオリジナルの舞台表現。“コンサートとも芝居ともミュージカルとも称しがたいなにか”と中島本人が語るように、自らの創造性を存分に発揮した人気の舞台だ。
「みゆきさんのクリエイティブな部分に携われることはとても魅力的でしたね。彼女がこれまで大切に積み上げてきたものに乗っかるわけですから、そんな貴重な経験はなかなかできるものではありません。1か月に20本も公演を行って、オフの日はひたすら身体のリカバリーというような状況で、ボロボロになりましたが忘れられない思い出になっています」
中島との共演から3年がたち、渡辺はこの9月に『夜会』の曲をカバーしたデビュー45周年記念シングルを発売する。『夜会』の劇中で使用されている曲はこれまでリリースされたことがなく、ファンからは驚きの声も上がった。
「今回の記念盤のプロデューサーでもある瀬尾一三さんが、“渡辺さんが言えば、みゆきさんが『夜会』の歌をフルコーラスにしてくれるかもしれない”って言ってくれたことがあって。ただ、お忙しい方ですし“ほんとにみゆきさんがOKしてくれるかな”という不安もありました。
まあ本人に聞いてみないとということで、昨年の春に打診したら快く引き受けてくださったんです。ご本人からお手紙をいただいたこともあって、責任をもって歌わなければと強く思っています」
デビューから45年間、走り続けてきた彼女はこの先も歌うことを究めていく。
「還暦過ぎたら少し休みたいなって思ってたんですけど、そうはいかなかった(笑)。でも、ここにきて本当の意味で歌手がライフワークになった気がします。先が見えない世の中ですが、少しでもみなさんの力になるような歌を届けられればと思います」
“迷い道”を抜けた渡辺は、これからも翔び続けていく。