戦前のエリートは昭和天皇の言葉を都合よく使い分けていた

10月3日(水)7時0分 NEWSポストセブン

軍部は天皇の意向に従わないことも多かった 共同通信社

写真を拡大

 暴走する軍部と対峙した昭和天皇。孤独な戦いのなか、お言葉は唯一の武器だった。現代史家の秦郁彦氏が解説する。


 * * *

 明治憲法下の昭和天皇ができるかぎり「立憲君主」の立場を守りたいと望んでいたことは間違いない。皇太子時代に立憲君主制の英国を訪れて王室の「君臨すれども統治せず」というあり方に接したことや、元老の西園寺公望や側近の牧野伸顕らリベラルな人物に囲まれていたことなどの影響が、その背景にはある。


 また、そもそも明治憲法も立憲君主制を念頭に置いて制定された。政治責任を負うのは臣下であって、天皇の裁可は一種の儀礼的な手続きにすぎない。


 だが、立憲君主制の枠組みに収まらない例外的な事例もあった。昭和天皇ご自身も、昭和46年に外国人記者団にこう語っている。


「自分は立憲君主たることを念願としてきたが、2回だけ非常に切迫した緊急事情のため直接行動をとった。そのひとつが二・二六事件であり、もうひとつが終戦のときである」


 ただし実はその二例よりも前に、微妙なケースがあったことも忘れてはいけない。昭和3年に起きた張作霖爆殺事件の責任を取って、翌年に田中義一内閣が総辞職した一件だ。一度は関東軍の河本大作大佐の仕業だと伝えた田中首相が、その後「陸軍には犯人はないだろうと判明しました」などと食言したことに激怒した昭和天皇が、「辞表を出してはどうか」と田中に迫ったのである。



 戦前・戦中の出来事に関して昭和21年に側近へ語った談話をまとめた『昭和天皇独白録』によれば、これについて天皇ご自身は「若気の至りである」と反省されていたようだ。


 天皇がこのような行動を取ると、「君側の奸」として、側近たちが非難され、暗殺の対象にされてしまう。それに気づいた昭和天皇は、政治介入と疑われるような言動は自粛していた。


 しかし昭和11年の二・二六事件では岡田啓介首相が一時的に行方不明となり、内閣が機能不全に陥ってしまう。やむを得ず、宮中と陸軍のパイプ役である本庄繁侍従武官長に天皇が反乱軍の鎮圧を命じた。ところが、反乱を起こした陸軍の皇道派に近い本庄は動こうとしない。ついに「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定にあたらん」とまで極言するが、それでも本庄は従わなかった。


 それでも陸軍に天皇の意向が伝わると、それまで勝ち馬に乗ろうと日和見を決め込んでいた面々が徐々に討伐へ傾く。それまで反乱軍に同調していた石原莞爾(戒厳司令部作戦課長)も、関係者を集めて反乱軍への武力行使を宣言し、「勝てば官軍、負ければ賊軍」としめくくった。


 とはいえ、臣下たちがいつも天皇の意向にしたがったわけではない。たとえば対米戦争の方向を決した昭和16年9月6日の御前会議では、明らかに天皇の意向が無視されている。


 外交による解決を望んでいた昭和天皇は、その席で「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(*)という明治天皇の御製を読み上げた。


【*「四方の海にある国々は皆同胞と思っているのに なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう(なぜ争わなくてはならないのか)」】



 しかしこの発言は政策決定にまったく影響を与えず、単なる天皇の「ご感想」に終わってしまう。もっとも当時の御前会議は、天皇は臨席するが発言はしないのが慣例だった。立憲君主制の主旨からすれば、たとえ天皇の発言があっても、決定に影響を与えない「感想」として扱われたのである。


 ところが同じ御前会議の発言でも、二・二六事件に次ぐ「第2の例外」となった終戦の聖断はどうだったか。ポツダム宣言の受諾について最高戦争指導会議のメンバー6人の意見が賛否半々に割れたとき、首相の鈴木貫太郎は「陛下のご意見をお聞かせください」と願いでた。


 それに対して昭和天皇は「外務大臣の意見に賛成する」と答え、ポツダム宣言受諾を主張する東郷茂徳外相を支持したわけだが、これも法的にはやはり「感想」にすぎない。しかし日米開戦前の御前会議とは違い、こちらは政策決定に直接の影響を与えた。誰も異議は唱えず、結果的に「御聖断」となったのである。


 開戦時も終戦時も、天皇の意向に不満を持つ者は少なからずいた。たとえば開戦前の御前会議で天皇が外交重視だとわかったときは、陸軍の強硬派だった作戦課長の服部卓四郎が「陛下のお気持ちを変えていただくために参謀総長は毎日でも参内すべき」などと言っている。


 終戦の聖断に対しても、徹底抗戦を主張する若手の将校グループが宮中占拠事件を起こし、玉音放送の録音盤を奪取しようと試みた。「承詔必謹(しょうしょうひっきん。陛下の命令は必ず従え)」と建前を言いながら、本音では、自分の考えと違う天皇の言葉には従おうとしない。戦前のエリートたちは、天皇の言葉を都合よく使い分けていたのである。


【PROFILE】秦郁彦●1932年、山口県生まれ。東京大学法学部卒業。現代史家として慰安婦強制連行説や南京事件20万人説などを調査により覆す。著作に『昭和天皇五つの決断』『慰安婦問題の決算』『実証史学への道』など。


●取材・構成/岡田仁志(フリーライター)


※SAPIO2018年9・10月号

NEWSポストセブン

「昭和天皇」をもっと詳しく

「昭和天皇」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ