被災地支援、歌の感覚… 泉谷しげるが語る「さだまさし論」

10月7日(日)7時0分 NEWSポストセブン

泉谷しげるは「さだまさし」をどう見ているのか

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 コンサートだけでなく、被災地支援でも全国を駆け回るさだまさし。2015年には災害復興支援などを目的に「風に立つライオン基金」を立ち上げた。同じくチャリティー活動や被災地支援に熱心なミュージシャンが泉谷しげるだ。対照的なキャラクターながらも、ともに被災地支援活動を行った経験もある2人。さだの活動や作品について、泉谷はどう見ているのか。さだの素顔に迫る短期集中連載、今回は泉谷が毒舌を交えながら、「さだまさし論」を語る。


 * * *

 さだとは、デビューした当時からイベントとかでは一緒になっていたと思うけど、ちゃんと組んだのは、長崎・普賢岳噴火のチャリティコンサート。「泉谷しげるとスーパーバンド」というのを作ったんだけど、そこに参加してくれた。


 アイツもそうだろうけどよ、被災地支援ってのは、オレらが勝手にやってるだけなんだよな。勝手に(被災地に)行って、勝手に(支援物資を)渡して、勝手にいなくなる。それだけ。誰に頼まれたわけでもない。自分勝手に、オレがやりたいからやってる。彼ら(被災者)にとっては迷惑千万かもしれない。でもさ、誰かがひどい目に遭ってるんだとしたら、心配しちゃうのはしょうがないよな。


 2011年に武道館で「セイ!ヤング・オールナイトニッポン コンサート」ってのがあったんだけど、そこでさだと一緒になってね。打ち上げの場で、さだに向かって、「宮崎で口蹄疫・復興支援ライブやってンだけど、時間あったら来ない?」って軽い気持ちで誘ったら、その翌年の10月、本当に来てくれた。


 それはいいんだけど、迎える側の宮崎の主催者のひとりが、「せっかくなんで、さだまさしさんと一緒に何かやってもらえませんか」とぬかしやがる。なんで自分のイベントで、そんな面倒なことやらなくちゃいけないんだよ。「やるか、コラっ!」って内心思ったんだけど、断れない。だから、仕方なく買いましたよ、さだのベストアルバム。



 で、何か一緒にやらなくちゃいけないから、どれにしようかと思って聴いてるんだけど、いちいち難しい(笑)。具体的に言うと、ロックと譜割りが違う。オレらは2ビートか4ビート。正拍が基本なの。


 ところがアイツの歌は正拍じゃない。一音にいっぱい言葉を乗せているし、1番と2番の歌詞でも乗せ方が違う。途中でテンポが変わることも多い。完コピなんてできっこない。それで、「まあこれなら歌えるな」という理由で、『案山子』を選びました。


 一所懸命覚えてさ、必死に練習してさ、気づいたら朝の4時になっててさ、リハーサルで歌ったら、あのヤロウ、「『友達出来たかい』じゃない。『か』だ」と。うるせぇな、細かいこと言うな。いいじゃねぇか、一文字くらい(笑)。


 そしたら本番でも「かい」ってやってしまった。「だから『かい』じゃない。『か』」だと。うるせぇな、コイツ(笑)。さだがNHKでやってる生の番組があるだろ? あそこで『案山子』のリベンジをしたよ。完璧に歌って、さだのファンを唸らせてやった。どうだ、コノヤロウ。


 さだのもうひとつ面白いところは、大都市から離れた町に行きたがるところだよな。スケジュールを見せてもらって驚いたんだけど、もうビッシリ。「お前、そんな離れ小島まで行くのか」って言ったら、アイツ、こんなこと言ったね。「いや、だって大都会でやったって当たり前の評価しか得られない。田舎では歴史的な大歓迎をされる」


小泉進次郎か、お前は」ってツッコんでやったけどな(笑)。誰も行きそうもないところを進んで訪れるという精神は、震災の支援活動と一緒なわけ。あれだって、人が行きたがらないところに行く、やりたがらないことをやる、っていうのがいちばんありがたいわけだから。



 最初は「暗いヤロウだ」と思っていたけど、近くにいて印象が変わった。よく考えてみたら、暗い歌が歌えるヤツは明るいんだな(笑)。暗い歌を歌ってるヤツが本当に暗かったら、そりゃ聴くほうも嫌だよな。体力も関係するな。暗く重い歌は、体力がないと、歌ってる本人が参ってしまう。中島みゆきだってそうだろ? アイツだって歌と性格が全然違う。


 なぜ歌のイメージを歌ってるヤツに覆い被せちゃうかと言うと、歌をドキュメンタリーと勘違いしてるんだな。その人の経験を歌にしていると思い込んでいる。歌はドキュメンタリーじゃない。むしろ、小説に近い。


 たとえば、その土地に行かなければその土地のことを書けないというなら、それは紀行作家かルポライターだよね。作家だったら、行かずして書けないといけない。作家は、経験主義じゃないってことなんだな。じゃなきゃ、月に行かなけりゃ、月旅行の物語は書けないのかってことになる。


◆芸術というのは個人的作業による「発明品」


 じゃあ何を歌っているのか。それはもしかしたら、過去のことかもしれない。未来のことかもしれない。今の自分の後の後、先の先……そういうものを描くのが創作だよね。それは小説でも歌でも絵でも同じ。


 いい作品っていうのは、少なくとも自分の先を行っている。後から作家は、のこのことついていくわけ、その作品に。「作品が一人歩きする」っていうのはそういうことで、作家がもし、自分の経験しか描けないのだとしたら、作品は先には行けない。


 そいつがダメでも作品が残るってこと、あるよな。あれは作品が本人のはるか遠くへ行っちゃったんだよ。歌の場合は、ファンが育てて成長させるってこともある。じゃあ、一人歩きする作品の大本は何かって言ったら、イマジネーション。正直に言えば、妄想(笑)。こっちは妄想膨らませながら、せっせと詞や詩を書いてるんだから。発明という言い方もできるだろうね。



 オレは芸術というのは「発明品」だと思ってるんだけど、ようは妄想でひとつの人生や世界を創り出すわけだから。だから一個一個の歌を、もっと大事にしないと、と思う。だって自分の作った曲に、自分が影響されて、今の自分になっている、というのもあるわけだから。


 そして発明というのは、常に個人的作業なんだよな。集団じゃない。さだの場合は、その「個人」が徹底している。たとえば『防人の詩』で、右翼だなんだって叩かれたけど、あれはそういう歌じゃない。


 たいそうな歌詞だから誤解されるんだろうけど、実に個人的なため息だな。「個人的なため息」だから、皆でシングアウトできない。皆で合唱したら、右翼的なナショナリズムに繋がっていくけど、あんなため息、歌えないだろ?


 あの歌を聴いた後で残るのは、さだ個人の感覚なんだよね。「個人の感覚」というのは、その人しか生み出せない。だから発明。きっとさ、『防人の詩』だって断れなくて作ったんだと思うぜ。でも映画のテーマ曲を歌ってるようで、映画にすり寄っていない。


 オレはリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』という映画が好きで、続編の『ブレードランナー2049』も観に行った。でもさ、これがスッキリしないのよ(笑)。さだまさしの映画を観てるのと同じくらいスッキリしない(笑)。


 ようはこの映画も、リドリー・スコットの「個人的なため息」なんだな。SF映画として観るからスッキリしないんであって、「個人的なため息」と思えば、わかる。ただ、こういう「個人的なため息」に100億円以上かけてンだろ? 日本じゃ企画が通らないだろうね。



 何が言いたいかって、人を揺さぶるものは、それが何であれ、「個人的なため息」なんだよ。さだはそれをずっとやってンだよ。『案山子』もそうだよ。ドキュメンタリーじゃないだろ? あんなヤツが近くにいてさ、「寂しかないか」「お金はあるか」ってしつこく聞かれたら、「うっせーな、コノヤロウ」ってなるよ(笑)。オレのセオリーにはない。でもだからこそ、「さだはすげぇな」と思う。


 時代にすり寄った作品には何にも感じないが、「個人的なため息」っていうのは、個人である分、思いが強い。だから、「金頼む、なんてオレは親に電話しねぇぞ」って思うけれど、親になかなか連絡しないというのは、どこかで思い当たる。「ああ、オレ、親に冷たくしてるかな」とか思ってしまうんだろうね。痛いところを突いている。これが「作家」なんだろうね。


※さだまさしとゆかいな仲間たち・著/『うらさだ』より

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