セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】

10月15日(火)11時30分 電ファミニコゲーマー

 こんにちは。ヨッピーです。
 メガドライブミニが発売されて往年のセガファンの人々が歓喜に満ち溢れてますね

 これがメガドラミニだ!

 そんなわけで僕の周囲のセガフリークスの方々も気が狂わんばかりに喜んでいるわけですが、実は僕も「フリークス」とまでは言わないまでもまあまあのセガファンでして、中学〜大学までセガのゲーセン、「セガワールド」にいそいそと通いながら『デイトナUSA』『バーチャロン』『スパイクアウト』『バーチャファイター2』などに大量の100円玉をつぎ込んでおりました。

 そんなまあまあのセガファンの僕、実はずっと温めていた企画があります。

 それが……

セガの歴史を振り返ろう

 です!

・オープンワールドゲームのさきがけと言われた『シェンムー』
・今では当たり前になった家庭用のオンラインゲーム機「ドリームキャスト」
・AIを利用したゲームのさきがけとも言える『シーマン』

 などなど、良く「時代を先取りしすぎ」「(出るのが)10年早いんだよ!」などと揶揄されるセガの革新性ですが、実際にセガで働いてる人達はこういった評判について何を思うのでしょうか?

 本日は、セガの歴史を振り返りながら、その辺を聞いてみたいと思います!

※ちなみに3年前にも同じ企画を出してセガに断られたことがあります。3年ごしに願いが叶って嬉しい。

※今回の企画は参加者が好き勝手に思い出話を語っております。10人居れば10人分のセガの歴史があるわけで、「あくまでこの人達はこうだった」っていう目線でお楽しみください。

※時間が短かったため(3時間)、駆け足気味に歴史を振り返っておりますがご容赦ください。

ライター/ヨッピー
撮影/佐々木秀二
編集/クリモトコウダイ
提供/株式会社セガゲームス

ヨッピーが勝手に選んだなんとなく大事そうなセガ出来事年表
「ヨッピーが勝手に選んだなんとなく大事そうなセガ出来事年表」を全て見る

出場者紹介

フリーライター。
1980年生まれの38歳。良く遊んだセガのゲームは「バーチャ」シリーズ、『デイトナUSA』『スパイクアウト』『SPAWN』『バーチャロン』など。特に『スパイクアウト』は今でも稼働しているゲーセンを探してわざわざやりに行ったりしている暇人。

セガゲームス 国内アジア事業本部 プロモーション統括部長
1962年生まれの56歳。93年1月の中途入社組。「ダビつくの宮ちゃん」でピンと来る人も多いかもしれない。今日はこのあとメガドラミニ発売前夜祭の生放送に出るため似合わない正装をしている。

セガゲームス 開発推進統括本部 事業推進チームプロデューサー
63年生まれの56歳。新卒で84年に入社。今回の参加者の中で一番セガ歴が長い。
女性ゲームクリエイターの先駆者とも言える存在で、『ソニック』『ファンタシースター』などセガを代表する名作に関わってきた。2019年のGame Developers Choice Awardsにおいてパイオニア賞を受賞。ゲーマーにとってはレジェンド。

セガゲームス 国内アジア事業本部 グラフィックデザイン部長
1965年生まれの54歳。88年に入社。『スーパーサンダーブレード』『ファンタシースター』のグラフィックデザインなどを手がけるなど往年のセガの屋台骨を支えたひとり。入社半年後にメガドライブが発売されたらしい。

セガ・インタラクティブ 第二研究開発部 デザインセクション
1971年生まれの48歳。92年の中途入社。セガ・インタラクティブの第二研究開発部はかつて『アウトラン』『スペースハリアー』『バーチャファイター』などを生み出したAM2研を継承している部署。西村さんはセガ社員にして生粋のセガファンで、当時の会報を持参してみんなの度肝を抜いた。

セガゲームス 国内アジア事業本部
71年生まれの48歳。94年の新卒入社。西村さんと同じくセガ社員ながら熱狂的なセガファンで「セガが好きすぎるセガ社員」として知られている。セガのクラシックタイトル復刻系プロジェクトに関わる事も多い。今回のメガドラミニに収録されているソフトを決めたメンバーのひとり。

以上の6名でお送りしたいと思います!


メンバー紹介

人数が多い!

まあ、鈴木裕さん【※】中裕司さん【※】が居れば良かったんですけど、お二人とも今は社内にいらっしゃらないので、なるべく広い範囲にお答え出来るように人数を揃えました!

※鈴木裕さん
「ハングオン」「スペースハリアー」「バーチャファイター」「シェンムー」など革新的な作品を手がけた、往年のセガを代表するゲームクリエイター。現在はセガを退社し、株式会社YS NET代表取締役。2019年11月にはファン待望の「シェンムー3」を発売予定。

※中裕司さん
「ファンタシースター」「ソニック」「ナイツ」などセガの看板とも言えるタイトルを手がけた。鈴木裕さんと二人の「裕」で当時セガの2大看板ゲームクリエイターとして活躍。現在はスクウェア・エニックスに所属。

実は今日のためにこれ持ってきたんですよ。

えっ、何これ会報?

よくこんなの持ってるね!

いやー、セガファンとしてついつい持って来ちゃいました!

知ってます? 私これ、見かけたら全部没収してるんですよ。

いやダメですよ! 大事なやつなんですから!

なになに。急に盛り上がってなんなんですか。

これ、「SPEC」っていうセガ公式ファンクラブの同人誌……。

同人誌じゃないよ!一応会社のお金で作ってたんだから!

非売品ですよね? これ、メルカリとかで売っぱらったら高いんじゃないんですか?

何万円とかにはなるんじゃないですかね?

えっ、欲しい!

ダメですって!

これ、専門の部署が作ってたわけじゃないよね?

社内の有志が作ってたんですよ。よしぼん【※】が描いてたり。

じゃあこの時はフェニックスりえ【※】

そう!

※よしぼん
吉田さんの社内ニックネーム。会報誌内でのペンネームでもあった。

※フェニックスりえ
同じく小玉さんの会報誌内でのペンネーム。

へ〜〜〜〜!

すいません、はじめる前から勝手に盛り上がるのやめてもらってもいいですか。

申し訳ありません。

ちなみに今回の企画にあたって、事前にこんな感じでTwitterで募集かけたんですけど4,000RT近くされました。セガがどれだけ愛されてるかわかりますね。

いやー、ありがたい限りです。

あと、人数が多いのでなるべく順番に話してください。

(笑)。

セガの始まりとジュークボックス

それでは創業当時から振り返って行きましょう!

じゃあ本当の創業当時の話なんですけど、ここにいらっしゃる方は誰もわからないですよね。僕もまだ生まれてませんし。SERVICE&GAMESでSEGAになった、とか。

そうですね。生まれてないですしね。

「情報としては知ってる」って感じです。

こういうの、昔は社員手帳には書いてあったんですよ。今年からその社員手帳も電子化の波に飲まれて無くなっちゃったんですけど。ジュークボックスの輸入をやっていた会社が「国産で作ろう」って言って、「SEGA1000【※】」っていうジュークボックスを作って販路を広げていく中で、同じ娯楽施設に置くもの、という事でミニカーをハンドルで動かしたり、動物の人形を鉄砲で売ったりっていういわゆる「エレメカ」って呼ばれるようなゲームを作りはじめるんですよ。

※SEGA1000
国産初のジュークボックス。バーや喫茶店などに置かれて大いに売れたらしい。セガ社員ですら当時の機械を見たことがない貴重なものだが、セガのHPにはSEGA1000のクラフトペーパーが公開されている。誰が作るんだよ。

昔、デパートの屋上のゲームコーナーとかに置いてあったやつですよね。

セガ・エンタープライゼス名義で作られた初めてのエレメカ、『PERISCOPE』は潜水艦の潜望鏡を覗きながら敵艦に向かって魚雷を撃つゲーム。大ヒット作になって世界中で売れた。

そうそう。そういう、メカを電気で動かすゲームから今度はテレビの中で動かすゲームが出て来るんですね。その内インベーダー【※】が大ヒットしたからそっちが主流になってく、って感じですかね。

※インベーダー
正式名称は「スペースインベーダー」タイトーが1978年に発売したアーケードゲーム。「名古屋撃ち」「レインボー」など様々な攻略法が編み出され日本中で大ブームに。喫茶店などに大量に置かれたり、「インベーダーハウス」と呼ばれる今のゲームセンターの源流となるお店が日本各地に出来た。

この当時、私の実家が喫茶店をやっていて、そこで大人の人たちがみんなインベーダーで遊んでいたので、私にとってはそれがゲームの原体験かもしれないです。

あれ、この年表はエスコ貿易には触れないの?

エスコ貿易は開発とはちょっと違いますからね。

なんですかそれ。初めて聞いた。

エスコ貿易って、セガが作ったエレメカやジュークボックスなんかをお店に卸す会社があったんですよ。そのエスコ貿易をやってた中山隼雄さん【※】という方が、手腕を買われてエスコ貿易がセガに吸収されたんですけど、この方が本当に優秀で、そのあとセガの社長になったっていう。

中山隼雄さん
ジュークボックスやゲーム機などを卸す「エスコ貿易」の元社長。エスコ貿易がセガに買収されてからはセガ副社長、その後社長、副会長など。セガの中興の祖と言われる。1999年からはパソナの会長も務めた。中山隼雄科学技術文化財団名誉理事長。

でもこういう話って、結局誰も直接知ってるわけじゃなくて「そう聞いた」って話だよね?

はい! まだ生まれてませんから!

この辺の話は僕らにとっても難しいんですよ。今のパナソニックの社員さんに「松下幸之助さんの話を聞かせてください」って言ってるようなもんだから!

あー、また聞きでしか知らないっていう。

そうそう。だからこの辺は通りいっぺんの事しかあんまり答えられないです。そんな感じで、インベーダーでビデオゲームが流行ってビデオゲームの時代が来て、83年にSG-1000【※】が発売されて段々ヨッピーさんも知ってるようなセガの歴史になってくんですけど。

セガの家庭用ゲーム専用機第一号。SG-1000。同日に発売されたセガ製パソコン「SC-3000」からキーボードを分離した廉価版のゲーム専用機として誕生。ちなみに任天堂のファミコンも同じく1983年7月15日に発売されている。しかしながらファミコンに圧倒的に市場を押さえられてしまい、ソフトメーカーの参入が少なくラインナップを揃える事に苦労した。

SG-1000の時代、社員たちは「SEGAジャン」という作業着を着ていた

小玉さんは84年入社だからこの辺からですよね。

私がセガに入った時はまだ本社が2階建てで、倉庫っぽい場所にジュークボックスとかが置いてあったような。我々が居た開発はその向かいにあったビルで、1階にはエスコ貿易が入っていたらしく、2階が工場のラインで、そこを閉じて開発が入ったと当時の先輩から聞いていました。

大鳥居駅ほど近くにあった当時のセガ本社

おー、工場って感じだ。

だから当時の会社のエレベーターはデカいんですよ。

会社というよりは工場っぽい所で、朝も8時半からはじまって17時半までとかだったかな。

朝ラジオ体操したり?

ラジオ体操はしなかったですけど、「SEGAジャン」っていう作業着みたいなやつをみんな着てましたね。

SEGAジャンっていうのはセガのジャンバーって事ですか?

なんかベージュの、すごい地味なやつです。「SEGA」のロゴが入ってるんですけど。

「ゲームセンターCX」で有野課長が着てるやつあるじゃないですか。あんな感じの上着です。

有野課長の作業着
(画像はゲームセンターCX – フジテレビ ONE TWO NEXTより)

昭和っぽいな〜〜〜。

あの当時の、大田区大鳥居近辺の会社はだいたいああいう制服着てましたよ。

そんな、ベージュのジャンパー着てる会社になんで就職しようと思ったんですか?

私はグラフィックデザインの学校に行っていたので、最初は広告デザインの方に行くつもりだったんですけど、広告じゃなくて自分でも何か物を作りたいなぁと思って。学校の先輩がセガに入社しましたし、コンピューターゲームって面白そうだなって思ってセガとナムコを受けたんですよ。

その頃ナムコは矢口渡(東京都大田区)?

そうそう。当時セガが大鳥居(東京都大田区)にあって、ナムコは矢口渡にあったんですよ。なので蒲田を中心にして東の大鳥居に行くのがセガ社員、西の矢口の渡に行くのがナムコ社員っていう構図があったんです。

どっちにしろみんな蒲田で酒飲んでるっていうね(笑)

そこでナムコの人と出くわしたりしたんですか?

僕の頃はもうなかったけど、僕の上司の青木さんは蒲田で飲んで、二次会にフィリピンパブに行ったらナムコの人に出くわしてよく一緒に飲んでたって(笑)

ハッハッハ! いやー、古き良き昭和って感じですね!

でも小玉さん84年入社ってことは、この年に「セガがCSKグループ(現SCSK株式会社)に入る」っていう会社としては大きな動きがあったんだけど、その時って新入社員だし何も知らないよね?

私が入ったのはもうCSKグループに入ったあとじゃないかな? だから本当に知らないですね。ただ、私の代から採用の人数を物凄く増やしたんですよ。

なるほど。CSKグループに入って攻勢に出たのかな。

あとは、セガの前身であるレメーヤー&スチュワートの流れがあるので、外資っぽい文化がありましたね。社内用語に英語が多いんですよ。今でもそうかも。書類を回す事を「ラウティング」とか。社内旅行を「アウティング」とか。あとはクリスマスにはかならず会社をあげてのクリスマスパーティをやるっていう。

あー、ありましたね!

今はもうない文化なんですけど、アメリカっぽい文化は当時たしかにありました。

もともとアメリカに『グレムリン』っていうゲームの開発会社があってそこをセガが買収するんですけど、セガのビデオゲームの基礎力ってその会社から得ている部分が大きいんですね。80年前後の『ヘッドオン』とか『トランキライザーガン』とかも、開発は『グレムリン』のメンバーが中心でやっていたはずです。

あーでも確かに、考えてみたら子どもの頃は「セガはアメリカの会社だ」ってなんかそんな風に認識してた気がするなーーー。なんとなくそんな雰囲気があったのかもしれないですね。そしてロボピッチャ、セガ・マークⅢときてUFOキャッチャー。UFOキャッチャーってこんなに前からあるんですね。

初代UFOキャッチャーと最近のUFOキャッチャー。基本的な仕組みは変わってない。僕も小学生の頃、店員のおっさんの「もうちょっと! もうちょっとで取れるからやらないと損だよ!」みたいな掛け声にひきずられて100円玉を大量に吸い込まれたあげく何も取れなかったという苦い記憶がある。お金返して欲しい

ヒットしたのは「NEW UFOキャッチャー」になってからと言われてますけどね。ガチャガチャのカプセルみたいなのに景品が入ってて、それをクレーンで取るっていうゲームは昔からあったんですけど、ああいう華やかな感じにして景品として、アンパンマンのぬいぐるみを入れたりっていうのは、UFOキャッチャーが初めてですね。

今でもめちゃくちゃ人気ありますし、今まですごい金額を稼いでるんだろうな……。

ちなみに同じ1985年にセガ・マークⅢの『アレックスキッド』も発売です!

※画面は「SEGA AGES」版 『アレックスキッドのミラクルワールド』。パンチで岩を砕いたり敵を倒したりしながら「じゃんけん大王」を倒すために世界を飛び回る。軽快な音楽と魅力的なステージ構成でセガ初期の家庭用ゲームで代表的なヒット作となった。マスターシステム(セガ・マークⅢの北米市場向け機種)が欧州で売れたため、欧州にはアレックスキッドのファンも多いらしい

へ〜〜、知らない……!

任天堂さんのマリオに対抗するために作ったやつです。

そうそう。ソニックが生まれる前のセガのイチオシキャラですね。海外では今でもこれが好きだったっていう人は多くて。

ヨーロッパを中心に、マスターシステム【※】で一世を風靡しましたからね。

※マスターシステム……セガ・マークⅢの北米市場向け商品。北米市場以外にも世界中で展開され、欧州やブラジルなどでは任天堂のファミコンにひけを取らないくらいにたくさん売れた。ちなみに別売品の「3Dグラス」を買うと『スペースハリアー3D』などが立体的に遊べるようになる。任天堂の3DSが出る20年以上も前の話である。セガさんちょっと先進的すぎやしませんか。

日本ではそこまでだったんですか?

日本ではアレックスキッドがそこまで、というよりセガのゲームは全部そこまでだったんだよね(笑)。家庭用はそういう前提と言うか……。

でも『ハングオン』【※】とかは流行ってましたよね。

※ハングオン……写真左が世界初の体感ゲーム『ハングオン』(のミニチュア)。ハンドルやレバーを操作するのではなく、バイクごと体を傾ける事で操作する。ゲーセンで死ぬほどやったキッズも多かったはず。プログラマーは鈴木裕さん。この作品のヒットがのちの『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』などの大型体感型筐体の発展に繋がってゆく。

もちろんアーケードではヒットを出しまくってたんだけど、家庭用は任天堂さんが爆発的にファミコンを売ってたから、家庭用ではなかなか売れなかったんですよ。セガの家庭用機の歴史はとっくに始まってたんだけど、「まあ、それほど」っていう。

じゃあ、この頃のセガとしては、アーケードは絶好調だけど家庭用をちょっとどうにかせにゃいかんぞ、みたいな。

そうそう。あと、87年には『ファンタシースター』【※】が発売ですよ! ヨッピーさんが事前に用意した年表には書いてないけど!

※ファンタシースター……セガ・マークⅢ、マスターシステム用に作られた、セガの看板タイトルとなる「ファンタシースター」シリーズの第一作にしてセガ初のRPG。当時としては大容量の4Mカートリッジ採用。滑らかに動くグラフィックが特徴。デザインは今回の参加者である小玉さんが担当、プログラミングは中裕司さん。(※画面は「SEGA AGES」版)

あー! ごめんなさい!

そう! セガとしては初のRPGだし『ファンタシースター』発売ってすごく大事な出来事なんだけど、当時としてはセガがアーケードの方が圧倒的に強かったから、この頃の家庭用のゲームソフトは年表から漏れちゃうのかも。

えー! マジでー!

そりゃそうだよ!当時の『スペースハリアー』とか『アフターバーナー』とかのアーケードでバーンと売れた作品と、セガ・マークⅢの作品を比べたら印象はだいぶ違いますよ。

俺が知ってる歴史と違う……!(笑)

この頃の我々は、『アフターバーナー』などの人気作品をとにかく家庭用に移植するっていうのが使命で。これはマスターシステムもセガ・マークⅢも、このあと出て来るメガドライブもセガサターンもずっと続くんですけど。

そういう時ってどういう気持ちなんですか? アーケードの方はどんどん基板を進化させてメモリも使い放題でやりたい放題するじゃないですか。それをスペックが低い家庭用機に移植しろって言われた時ってどんな気分なんです?

え、「出来ないけど、頑張るよ」って(笑)

ハッハッハ!

「アーケードは好きなだけ容量も色も使えていーな!」とか思いましたけどね。でも、職人として少ない色数とメモリで、なるべくアーケード通りのものを作るっていう部分に美学を感じていたっていうのはありますね。

あー、いい話。

デザイナーが一番割食ってるよね(笑)。

えーと、この辺の歴史で言うと、セガは会社の成り立ちからしてアーケードがずっと強かったんですね。割と業界を引っ張っていくエポックメイキングな作品もたくさん作りましたし。

体感ゲームとかはモロにそうですもんね。

そうそう。80年代の前半から2000年代くらいまでは「アーケードで最新のゲームを作る→ゲームセンターで売れる」っていうサイクルがある一方で、任天堂さんのファミコンの展開に合わせて家庭用にも進出するんですけど、ファミコンほどの成功はしていなかったので。

結局ね、ファミコンにはやっぱり負けたんですよ。だから逆転するにはいち早く次のハードを出そう、っていう。それがメガドライブ【※】

※メガドライブ(画像はメガドラミニ)……セガ・マークⅢ(マスターシステム)の後継として発売された16ビット機。任天堂のスーパーファミコン、NECのPCエンジンとシェア争いを繰り広げる事になる。「ソニックシリーズ」「ファンタシースターシリーズ」「ランドストーカー」「ぷよぷよ」「ベアナックル」「シャイニング・フォース」など名作も多く、復刻を望む声が多かったため今回のメガドラミニの発売につながった。

ただ地域差もあって、マスターシステムはヨーロッパではファミコンよりメジャーだった頃が一瞬あるみたいなんですけどね。メガドラ直前の90年頃に。

ただ、この頃の時代はとにかく製品のサイクルが早かったんですよ。勝ったとか負けたとか言ってる間にじゃあ次のハード、また次っていう具合に。

そうですね。83年にSG-1000が出て84年にSG-1000Ⅱが出て、85年にセガ・マークⅢが出て、86年はソフトの容量がアップして1メガカートリッジっていうのが出て、87年にマスターシステムが出て、88年にメガドライブなのでほぼ毎年新しいハードが出てるんですよね。他社も含めるとPCエンジンとかスーパーファミコンとか、「ウチの方が性能いいぞ」ってお互い言い合いながら業界全体がどんどん成長していったっていう時代ですね。

なるほど。いよいよここでメガドライブが出る、と。

時代が求めた16ビット、メガドライブ登場

あとなんか、いわゆる『セガテトリス』【※】がアーケードで大ヒットしてメガドライブに移植しようとしたのに、最終的にはテトリスがゲームボーイで出て死ぬほど売れるっていう……。

※セガテトリス……いわゆるセガのテトリス。任天堂ゲームボーイのイメージも強いテトリスだが、日本でテトリスブームを起こしたきっかけはセガが作ったアーケードの作品。大ヒット作になりいわゆる「落ちゲー」が発展する基礎を作り、その後「ぷよぷよ」などのヒット作に繋がるが、このテトリスをメガドライブに移植しようとROMまで大量に作ってあったのに、発売直前に版権のトラブルが勃発して販売出来なくなった。当然大赤字でセガにとっては痛い歴史とも言える。そんないわくつきの作品だが、ばっちりメガドライブミニにも収録されてるぞ。

……(笑)。

それはね、我々からは何も言えないです(笑)。

今は誰もがハッピーなので……(笑)。

なるほど……! 気になる人は自分で調べてみてね!

「もう何も言えません」と断固として口を開かない宮崎さん。

あとは「ゲーム図書館」ですね。ゲームを電話回線でダウンロードして遊ぶっていう。これも早かったな〜〜〜。今ではもう当たり前ですけど。

ゲームのダウンロードが普及したのっていつぐらいからだろ?

うーん、Windows 95が出た当時もパッケージ販売が主流だったから、2000年以降くらい……?

やっぱり10年早いんだ(笑)。

本体にHDDが入って、ダウンロードしたものが保存できるようになるまでは流行ってないんですよね。ゲーム図書館も10分とかかけてダウンロードしたものでも、一度電源切ると次の日にはまた最初からダウンロードしなきゃいけなくて。

そうそう。だからつけっぱなしにしてたよね。

サンソフトが『TEL・TELまあじゃん』とか『TEL・TELスタジアム』とか出して、セガは『アドバンスド大戦略』を出して、電話回線を通じてデータを送り合って対戦も出来るような仕組みはあったんですよね。メガドライブ本体の他に、モデムと電話線とソフトと対戦相手が必要なので、プレイするためにはかなりハードルが高いんですけど。

あの時代にネット対戦だもんね。いやー、すごいね!「こんなこと出来るんだぜ!」って技術的に突っ走っちゃって、どうやって稼ぐかっていうビジネスモデルのことなんて何にも考えてない!(笑)。

そこがセガなんですよ……!

何故か嬉しそうな西村さん。

ゲームギアも携帯機でフルカラーって今では当たり前だけどやっぱり早かったね。

そう。時代が早かったぶん、電池が減るのもめちゃくちゃ早かった(笑)

あ、ゲームギアやってたんですね。

『ダビスタ』みたいな競馬のゲーム(『ワールドダービー』)で、どんだけ体調悪くてもぶっちぎりで優勝する強い馬を作る事に成功したから、「全部のG1出したらどうなるんだろ」とか思って出場させまくったら死んじゃって悲しかったのを覚えてます。

北米版メガドライブ「ジェネシス」が大ヒット

で、任天堂が「スーパーファミコン出すよ〜」って発表して、北米市場向けメガドライブ「ジェネシス」が89年に発売されます。これがめっちゃ売れたんですよね?

ヒットしたのは91年ぐらいじゃない? 発売直後は苦戦してたような?

そうそう。最初は苦戦してた。

ヒットしたのはソニックが出てからですね。

ご存知、ソニック。メガドラミニにはソニック・ザ・ヘッジホッグ2が収録。

ソニックって、最初からマリオ対抗っていう位置づけで作ったんですか?

そうですね。そこに作った人【※】が居るけど(笑)

※小玉さんはソニックの開発チームのひとりです。

日本市場で言えば、メガドライブを出したあと、90年にスーパーファミコンが出て同時発売の『スーパーマリオワールド』が爆発的に売れた、と。それで日本市場がひっくり返されちゃったんですよ。それと全く同じように北米のジェネシスが後発のスーパーファミコンに市場をひっくり返されるっていう事がこのままだと起こっちゃうから、そのお化けゲームがアメリカに上陸する前に「なんとかそれよりも良いゲームを作って北米市場を先に抑えよう」っていう目論見だったんです。

じゃあ、ソニックが大ヒットして日本市場の再現を食い止めたわけですね。

そうですね。北米では大成功しましたから。要因のひとつとして、当時のセガ・オブ・アメリカのマーケティング部隊が非常に優秀だったなと今では思いますね。当時はゲームって子どものオモチャっていうイメージが強かったので、黒いカラーリングでソニックもスピード感があるゲームだし、「子どものおもちゃじゃねえんだぞ」っていうイメージ展開をしたんです。ソニック自体もクールで動じない、っていうキャラクターですしね。それに話題になった比較広告【※】とか、けっこう攻撃的なマーケティングをやってそれを引っ張ったのがアメリカのマーケティング部隊です。

※「NINTENDON’T」とかテレビCMでばんばんやってたそうです。

やっぱりソニックチームって、偉い人から「打倒マリオの社運を賭けたプロジェクトだぞ!」とかハッパかけられたりしたんですか?

中裕司さんがメインプログラマーで、プランナーの安原さんとデザイナーの大島さんといった、リーダー格の彼らにはやっぱりある程度プレッシャーはあったかもしれませんが、中さんにしても任天堂のゲームを遊んできていたと思うので「この素晴らしい作品を超えるものを自分でも作りたい」みたいな気持ちなんじゃないですかね。これは中さんに聞いてみないとわかりませんが(笑)。

もし、北米市場でも日本と同じようにスーパーファミコンに負けてたら、「もう家庭用ゲームは厳しいんじゃないか」っていうところまで追いつめられてたと思いますよ。とは言っても僕、当時はまだセガに居なかったんですけど(笑)。ただ当時セガのアメリカのビジネスを担当してた当時のセガ・オブ・アメリカ副社長(現ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン代表取締役)の豊田さん「覚悟を決めて賭けに出た」っておっしゃってましたね。

で、その博打に勝ったわけですね。

そう。当時はロムも全部日本で作ってたんだけど、売れすぎて年末商戦の在庫が全然間に合わないから、日本から全部空輸したんですって。ウォルマートっていうアメリカ最大の小売り業者の倉庫がJFK(ジョン・F・ケネディ)国際空港の近くにあったから「JFKがソニックのロムで埋まった」ってその豊田さんが言ってましたよ。だいぶ盛ってるとは思いますけどね(笑)。

でも、空輸したら輸送費がえげつなくないですか?

そう。だから相当収益を圧迫したと思いますよ。でもそのタイミングで市場を抑えないともう後がないからやるしかなかった。

なるほど。そのソニックが無事に大ヒットして、北米ではメガドライブ(北米版はジェネシス)がかなりシェアを取った、と。そして今度はアーケードで『バーチャレーシング』が出ます。いよいよ3Dポリゴンの時代ですね。

業界初の3Dポリゴンゲーム、バーチャレーシング。これまでの2D平面のドライブゲームと違い、運転感覚がかなり実写に近いという事で人気に火がついてアーケードにおいてかなりの人気を誇った。このゲームの登場以降、特にアーケードは3Dポリゴンゲームが大ブームになる。

3Dポリゴンの時代到来、セガが市場を独占

あー、アーケードの話もけっこう入るならアーケードの人をもっと呼べば良かったね!(笑)。今日はコンシューマー機の人たちを集めちゃった。

アーケードにおいて、『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』と、ハードの性能をどんどん上げながら次々とヒット作を生み出す鈴木裕さんという天才クリエイターが居まして。普通は「ハードの性能を上げる」っていうと、お金がかかるから会社は嫌がるんですけど、とにかく鈴木裕さんがヒット作を作り続けるものだから会社も鈴木裕さんの言うとおりどんどんハードの性能を上げるんですね。

で、それまでは鈴木裕さんは疑似3Dと言いますか、平面を3Dっぽく見せるゲームを作ってたのを、本当の3Dにしたのがこの『バーチャレーシング』ですね。鈴木さんがずっと求めてきたものにようやく技術が追いつき始めた時代がこの頃です。

『バーチャレーシング』を開発してた頃って、そばで見てました?

『アフターバーナー』とかは開発中に呼んで貰って「ちょっと遊んでみろ」みたいな事がありましたけど、『バーチャレーシング』はそういう記憶がないですね。

あと、「MODEL1」【※】がバーチャレーシングから稼働ですね。そして『バーチャファイター』(以下、バーチャ)が出る、と。

※MODEL1
セガが開発したアーケードゲーム基板。3D描画機能に優れておりバーチャレーシング、初代『バーチャ』などに使われた。当時はめっちゃ高かったらしい。

そして初代バーチャのゲーム画面。今では当たり前の「3D対戦格闘ゲーム」の歴史はこのゲームからはじまったのである。

『バーチャ』は稼働前に、会社のロビーにテスト機が置いてあったよね?

置いてましたね。開発中のやつですけど。

で、僕もそれを初めて見て、なんていうか、「これまでに存在しないゲーム」だったんですよ。なんか綺麗でもない絵なんだけど、これが面白くてそのまま2時間ぐらいやってたんじゃないかな……。

仕事してください(笑)。

当時、対戦格闘って言ったら『スト2』とか『餓狼伝説』みたいに飛び道具があって対空技があって、っていうのが多かったですもんね。

そうそう。それなのに土俵があって、落ちたら負けだし、動きもめちゃくちゃリアルで。

94年ごろがたぶんピークなんですけど、「MODEL1」、「MODEL2」【※】というハードウェアがアーキテクチャ的に上昇しすぎて、同じ事が出来るハードウェアがセガとナムコ以外に持ってなかったんですよ。ナムコさんは『リッジレーサー』がありましたけど、他社でヒットしたのはたぶんそれぐらいで。だから、3Dゲームの時代が訪れると同時に、一瞬だけこの3Dゲーム市場をセガが独占してたんですよね。

※MODEL2シリーズ
MODEL1の後継アーケードゲーム基板。『デイトナUSA』『バーチャ2』、『バーチャロン』など。

この辺でセガワールドっていうゲーセンもたくさん作ってますよね。ちょうどこれくらいの時期に僕の地元にもセガワールドが出来たんですよ。『デイトナUSA』なんて1ゲーム200円でめちゃくちゃ高かったけど(笑)

『バーチャ2』も最初は200円でしたね。

そうでしたっけ? 高いなー!

1ラウンド30秒なのにね(笑)。

そう! 『バーチャ』って1試合が短いからゴリゴリお金が減る!

正直ね、あの時代は筐体の値段が受注直前に決まると聞いたことがある(笑)。

一同:
 (笑)。

『バーチャ1』がヒットして、その続編が出るって言ったらどこのお店も欲しいじゃないですか。売り上げもすごいし、隣のゲーセンに『バーチャ2』があって自分の店に無いってなるとお店にとっても死活問題だから。展示会とかやっててまだ筐体の値段決まってないのに「〇台仕入れます」とかそういう時代で。まあ、都市伝説かもしれないけど。

なんかすげえでかい筐体ありましたよね。プロジェクターに投影するやつ。

メガロ50かな?

あれいくらするんですか?

まあ100万円以上はしますね。

それがバンバン売れるから、相当儲かってたことは間違いないです。

セガのブランド価値がNikeを超え、マイケルやスピルバーグが来社

まあ僕も当時、セガには散々貢ぎましたからね……。セガがめっちゃ調子こいてる時期であることは間違いない! で、ちょっとゲームの歴史とは離れるんですけど、1992年にマイケル・ジャクソンがセガに初来社!

マイケル見ました?

見ました。

お忍びっていう感じで来るの? それとも堂々と?

お忍びなんですけど、そりゃあ噂は立つんですよ「今日マイケル来るぜ」って。でも会社からは「集まっちゃダメ!」って言われてたから、窓から見てて「わー!来たー!」ってそれぐらい。

それからまた後の話なんですけど、鈴木裕さんの所にマイケルが遊びに来た事があって、僕がトイレ行った帰りに向こうからマイケルが歩いて来て会釈されて「俺、マイケル・ジャクソンに会釈されちゃった!」って(笑)。なんかね、いい匂いがしましたよ。

ソニックのヒットから90年代中盤くらいまで、セガがこの頃ブランド価値がNikeを超えたとかいう記事を見た記憶があります。そういうのもあってマイケル・ジャクソンに限らず色んな有名人が会社に来るっていう事はありましたね。

あ!スピルバーグがAM2研に来ましたよ!

そうそう。有名人が来ると社内報にドーンって載るの。

当時はAM2研に色んな人が来てましたね。

金城武さんとか。

金城武さんとかどういう感じで来るんですか?「金城武だけど遊びに行っていい?」みたいな?

金城武さんはね、広井王子さん経由だったかな……。金城さんもゲームが大好きなので、そういうツテをたどって来られてましたね。

セナは何年だっけ?

えっ、セナってアイルトン・セナ!?

そうそう。メガドラで『スーパーモナコGP2』が出た時だから92年かな?

F1が当時すごく流行ってたから、同僚の女の子でセナのファンが居て、「サインが欲しいけど恐れ多くて行けない!」って言うから「じゃあ、私が貰って来る!」ってサイン貰いに行きましたよ。私はプロストのファンだったからそこまで緊張しなかった(笑)。

なるほど、そんなこんながあって、94年にセガサターンですよ!

セガサターン、バーチャ、プリクラでセガ絶好調

94年に発売されたセガサターン。同時期に発売されたプレイステーションと熾烈なシェア争いを繰り広げることになる。

この頃はね、まず『バーチャ』とか『デイトナ』とか、ゲーセンで大ヒット商品が出るでしょ。で、それをそのまま家庭用のサターンに移植して、「このゲームが出来るのはセガサターンだけ!」っていうサイクルがすごく上手く回ってたんですよ。

最初はサターンが優勢でしたもんね。この辺が絶頂って感じじゃないですか?

そうですね。94年〜95年は絶好調でしたね。

95年に「プリント倶楽部」が出ますし、これも当たりましたね。

初代プリント倶楽部。アトラスとセガの共同開発。ゲームセンター以外にもカラオケ店やアミューズメント施設などにも設置が広がった。特に女性には今でも人気があり、もはやひとつの日本の文化と言えるぐらいに成長したお化け商品。懐かしい人も多いはず。

「プリント倶楽部」は先ほどの「UFOキャッチャー」と同じく、ゲームセンターをもっと健全化しようっていう大きな流れがあるんですよ。

あー、セガワールドも運営してるし。

そう。ゲームセンターって昔はちょっと怖い感じの人がたむろしてるっていうイメージが強かったから、もっと家族で遊びに来れるようにしよう、と。それで入口に華やかな「UFOキャッチャー」を置いて、だんだん普通の人たちも遊びに来てくれるようになったので、アトラスが企画を持ち込んでセガが商品化したのが「プリント倶楽部」ですね。

あー! 言われてみれば確かに昔のゲーセンって不良のたまり場って感じだった! 今そんなイメージぜんぜん無いですもんね。

「プリント倶楽部」は補充産業と言いますか、インクと用紙がどんどん売れるからビジネスとして良くできているんですよね。

プリクラって中身がメガドライブでしたっけ?

あ、そうそう。最初は中身がメガドライブ

えっ、そうなの!?

メガドライブの基板で制御して、ビデオプリンターっていう画面をキャプチャする機械が入ってるんです。だから額縁なんかもメガドライブでしか描画出来ない額縁なんです。

だからこの時期はアーケードが『バーチャ』とプリクラでしょ、家庭用はサターンも売れてたし……。

ゲロ吐くぐらいに儲かった?

そう(笑)。だからゲロ吐くぐらいに新入社員も採ってました。

その頃に入ったのが僕なんですよ。

あ、あと「セガサターンエロゲ機説」についても触れて欲しいっていう人が居て。『スーパーリアル麻雀』とかありましたもんね。

これはですね、94年にセガサターンが発売された時にマルチメディア展開をしたんですね。サターンならビデオCDも見られるっていう。

あー、ビデオCDあった……!

でも、ビデオCDっていわゆるアダルト物も多かったので、会社としてこういうアダルト関連の商品をどう取り扱うかきっちり決めようって事になったんです。これが後のCERO【※】に繋がるんですけど。

※CERO
コンピュータエンターテイメントトレーディング機構。ゲームソフトの内容により対象年齢などを表示するレーティング制度を運用・実施する機関。このゲームは人がばんばん死ぬから対象年齢あげようぜ、とかそういうのを決める。

それで、段階を設けてこれは全年齢、これは12歳以上ってやってる内に、ビデオCDもあるから「X指定」ってカテゴリを作ったら「カテゴリがある以上アダルトも作っていいのか!」ってなって、PC向けにゲームを作ってたメーカーさんが「ウチもサターンで出していいんですか!?」って(笑)

なるほど。『スーチーパイ』とかやったな〜〜〜!

「エネミーゼロ事件」と「FF7、プレイステーションで始動」

で、96年に『バーチャ3』『ナイツ』『サクラ大戦』、あと触れて欲しいってたくさん言われたのが「エネミー・ゼロ事件」ですね。

エネミー・ゼロ事件か……。

プレイステーションの発表会で、飯野賢治さん【※】元々プレイステーションで出すって言ってた「エネミー・ゼロ」を「やっぱセガサターンで出します!」って言っちゃったっていう。

※飯野賢治
ゲームクリエイター。『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』などを手がける。クリエイターとしての才能もさることながら、歯に衣着せぬ物言いで業界の風雲児と呼ばれた。95年通産大臣賞受賞。故人。

そう。よりによってソニーさん主催のプレイステーションだけのゲームショウの中で。

これ、プレイステーション側的には「飯野さんならしょうがないか……」みたいな感じなんですか?

いや、飯野さんだって「もうソニーとは一生会わない!」くらいの覚悟はあったでしょう。

『Dの食卓』をプレイステーションで出した時に、飯野さんは「これぐらいは売れるからこれぐらい作ってくれ」ってお願いしたのに作ってくれなくて、それなのに店舗だとどこも在庫切れになっちゃったからそれ以来不信感持っちゃった、みたいな話は聞きました。

飯野さんの逸話については面白いものがたくさんあるので是非探してみて欲しいです。

ご本人が語られてる書籍もたくさんありますしね。

東京ゲームショウで飯野さんのブースだけ、空き地にして盆踊りしたとかね。

まさに業界の風雲児でしたからね……。

そして、96年の出来事は『FF7』がプレイステーションで発売される事を発表、っていう。

サターンとプレイステーションが発売されたのが94年の11〜12月で、そのあと1年間かけてどっちが先に100万台行くかって熾烈な争いをしてたんですけど、100万台も先に達成したし、95年の年末商戦でもサターンが勝ったんですよ。それで喜んでたら、年が明けて96年の1月7日に「ファイナルファンタジーVII、プレイステーションで始動」ってCMでバーンと。

そうそう。僕93年入社でしょ。その年に『バーチャ』が出て94年に『デイトナ』、サターンでしょ。それでね、95年の年末商戦でサターンが勝ったわけじゃないですか。「これはいい会社に入ったぞ! ボーナスすごいことになるぞ!」って喜んでたんですけど、「FFがプレイステーションで出ます!」ってなって「ああ、こりゃ下手したらボーナス貰えないぞ……」って落ち込みましたよ……。

大々的に発表されるまで誰も知らなかったんですか?

セガの人間は誰も知らないですね。

もちろん、ウチだって当時のスクウェアさんとお話はしてるわけですよ。「開発も最大限協力しますからサターンで『ファイナルファンタジー』出してください」って。でも、「じゃあサターンでやりましょう」ってなってないって事は、「ひょっとしたらもうあっちで進んでるのでは……?」っていう想像はしてるんです。想像はしてるんですけど、まだ決まってるとは思ってないし、まさかあのタイミング、発売まで1年もあるタイミングで発表するとは思ってなかったですね。

あー、本当に知らなかったんだ。

あのテレビのCMだってね、スクウェアさんの枠じゃなくてソニーさんの枠でしょ。ソニーさんがお金を出して、「ばーんとやりたまえ!」って。まあソニーさんからしたらチャンスだから当然ですけどね。

なるほど。まあ、ソニー陣営からすると最大限に活かそうとしますよね。

ドーンと落ち込んで、たしかに社員がみんなショックを受けてて、でもまだ96年ぐらいは「負けた」とは思ってないんですよ。『セガラリー』も出たし、これから『ナイツ』っていう中裕司さんの新作が出る。『サクラ大戦』も出る。だからまだまだ戦えるぞ、って思ってたんですよ。

そしたら8月に『トバルNo.1』が出たじゃないですか。あの3D対戦格闘って、要はスクウェアさんがセガの土俵にあがって来たわけです。鳥山明さんがキャラを描いてたとはいえ、それでもやっぱり『バーチャ』の方が圧倒的に強い自信があったんですけど、『トバルNo.1』がアホみたいに売れちゃった! 何故かって、『FF』の体験版がついてたから(笑)。

あーー、あったあった! 言っちゃあなんですけど、『トバルNo.1』そのものは僕も「うーん……」って感じだったし、友達もハマってる様子がなかったんですけど、でも『FF』の体験版は学校の中とかで出回ってましたね。みんなが貸して貸してって言うから。

だから、あの辺で「ああ……『FF』ってこんなに強いんだ……」ってちょっと暗雲が立ち込める感じがあって。

これはよく語られている話なんですけど、93年にプレイステーションの企画が持ち上がって、94年の前半くらいにソフトメーカーさんに「ウチでゲーム作ってください」って話を持って行く中で、最初は各メーカーがピンと来てなかったのに『バーチャ』がアーケードで大ヒットしてたから、「プレイステーションなら『バーチャ』みたいなゲームが作れます」って触れ回ったらみんな飛びついたっていう。

MODEL1、MODEL2が無いからそれまで3Dゲームは他の会社には作れなかったんだ。

そう。その一方でセガは3Dゲームを当ててるとは言え、まだまだ主流は2Dのゲームだろうと思っていて、2Dのゲームも作ってまして。そんな中で『バーチャ』を作ったスタッフがナムコに行って『鉄拳』を作る、さらにスクウェアに行って『トバルNo.1』を作るっていう流れがあって、セガが作った3Dゲームの市場がどんどん広がって、それがむしろプレイステーションにとって追い風になったっていう。

セガBBSは日本のBBS史上もっともグチャグチャだった

なるほど、その辺の読み違えはセガにしては珍しいですね……。あと、ちょっとまたゲームからは逸れるんですが、同じく96年にセガBBSがスタートします。

会社のホームページの中のBBSですね。まあ、日本のBBS史上もっともグチャグチャだったと言いますか。運営の仕方を考えずにいきなり大きなものを立ち上げるとこうなる、っていうひとつの良い事例だったように思います(笑)。ある意味ではセガらしいですけど(笑)

2ちゃんねるの元祖、なんて言われてますね。セガは「これからはインターネットだ」って早い段階から考えてて、インターネット上のコミュニティを作ろう、と考えたんですね。それでゲームとまったく関係のない、家庭とかスポーツとか、そういうありとあらゆる話題の掲示板を用意して、自由に使ってください、っていう。

そんなに荒れてたんですか?

色んな人が色んな事を好きに書くので、そのうち論争が起こったりとか。「プレイステーション最高!」って書きまくる人が現れたり。

まあその辺は今とちっとも変わらないんですよね。意見では対立してないのに、言葉使いでケンカがはじまったりとか。

その言い方はなんだ!って。

そう、マウント取りに行くんですよね。今と変わらない(笑)

晩年に僕、削除人も少し手伝ってたのですけど、まあなんとなく雰囲気で「これは良くないぞ」って書き込みを削除してたんですよね。まだ人も少なかったので割とのどかな時代ではありましたけど。とは言えこれによってセガのHPのアクセス数がとんでもない事になってて、まあセガっていう会社を知って貰うにはこういうのも必要なんじゃないかっていう。

セガバンダイ騒動、セガ社員「やった!ガンダムのゲームが作れるぞ!」

なるほど。あとは97年にCMで「せがた三四郎」のシリーズがはじまるのと、セガバンダイ騒動【※】ですね。これは覚えてます?

※セガバンダイ騒動
97年1月23日にセガがバンダイの申し入れを受け、同年10月1日に両社が合併する事を突如発表。「セガバンダイの誕生か!」と業界がザワザワするも、5月27日の記者会見で合併を取り消す事が発表された。

でもこれ、自分も「セガとバンダイがくっつくよ」みたいな話を報道で知ったんですよ。でもその数か月後に「あれなくなりました」って。僕もなんだったのかよくわかってない(笑)

じゃあそういうのって皆さんも知らないんですね。

インサイダーになっちゃいますからね。

いわゆる取締役クラスと経営管理室とか法務、総務の幹部くらいしか知らないはずですよ。開発とか営業とかはそんなの一切聞いてない。

報道のあとに一応、会社から説明はありましたね。

あったあった。バンダイさんと一緒になりますので、って。そのあとハーモニーっていう社内報の表紙がたまごっちになってた記憶がありますね。それが突然なくなった、っていう。

なんか、たまごっちがめちゃくちゃ売れて経営が改善されたからなくなったっていう噂もありますけど。

ただ、社内は割と歓迎ムードでしたよ。開発の人とかは「やった! ガンダムのゲームが作れるぞ!」って(笑)

あー確かに!セガはガンダム好きな人多そうですもんね。『バーチャロン』をガンダムでやれるわけだし。

ちょうどその時、『千年帝国の興亡』という「大戦略」を作ったスタッフの開発が終わったところだったんで、そのゲームのユニットを全部ガンダムにして「ザクはこうで、ガンダムはこんな感じで……」って、試しに遊びで作ってみたりしてました。

だから、否定的な雰囲気は全然なかったですよ。あれが実現してたらどうなってたんだろうね。

で、あとは『ドラクエ』もプレイステーションで新作出すよって発表されます。

そう。『ドラクエ』も発表から実際の発売まではけっこうかかるんですけど、この辺は1年ぐらいでばーっと来た気がしますね。『FF』の発表、発売。『ドラクエ』の発表、発売。あとは『バイオハザード』なんかも出てプレイステーションに勢いがついたんです。この辺で差がついたかなって。

ドリームキャスト投入とTVCM「湯川専務」シリーズ放送開始

で、その劣勢を跳ね返すためにいよいよ98年にドリームキャストが投入されます。で、湯川専務シリーズも放送開始。

満を持して登場のドリームキャスト。インターネット通信用モデム、WEBブラウザが標準搭載され、「インターネットに初めて繋いだのはドリームキャスト」という人も多い。実際、当時の2ちゃんねるに「ドリームキャストから来ました」みたいな人達が大量に現れてPCから繋いでいるユーザーからは嫌われていたような記憶がある。「湯川専務」シリーズのCMは「セガなんてだっせ〜よな〜」という自虐ネタで話題に。ちなみにドリームキャストの売れ行きが思わしくない頃、「ボーナスとしてドリームキャストが現物支給された」という噂が出回ったけど、実際は大川会長が「自分達でも遊ばないと良いゲームは作れない」という事で私財を投じて社員に配った事が間違って伝わったらしい。

湯川専務シリーズは画期的と言いますか、「湯川専務は売れたけど、ドリームキャストは売れなかった」とか茶化されたりしましたよね。

まあ、秋元康さんですよね。大川会長が「プロモーションは秋元さんに任せるんやー!」って号令かけて、湯川専務シリーズがはじまった。

Twitterだと、秋元さん戦犯説みたいなのがあるんですよ。「チェキッ娘」とか自分の好きなようにセガのお金使いやがった!って。

でも、秋元さんからしたら「おニャン子クラブ」も「AKB48」も当ててるのに、セガの「チェキッ娘」が当たらなかったのはセガのせいだって思ってるかもしれない(笑)。だから誰のせいとかそういう問題ではないと思いますね。
それに、ドリームキャストはハードの製造面で最初上手くいかなかったんですよ。それで湯川専務が降格ってなるんですけど。

製作費70億の『シェンムー』はもともと『バーチャ』のRPG作品だった

あと、製作費70億と言われる『シェンムー』が99年に発売されてます。

オープンワールドの先駆けとなったといわれる『シェンムー』。今でも世界中にファンが多く、続編を待ち望んでいる人達もたくさん居るが、当時としては高すぎた自由度のため開発費が高騰し、総製作費が70億円と言われる。

先ほども名前が出ましたけど、とにかく新しいものに挑戦して、ハードを進化させてセガを引っ張って行った鈴木裕さんが初めて家庭用ゲームソフトをオリジナルで作るという形で、それについていってたのがここに居る……。

そうですね。僕ですね(笑)。最初、『シェンムー』って『バーチャ』のRPGだったんですよ。だから主人公はアキラで。それをシリーズ化してアキラ、サラ、パイ、ジャッキーって作るぞって計画だったんですけど、発表会の直前、ほんの2,3か月前に「バーチャやめる」って裕さんが言い出して。アフレコとかもはじまっててアキラの声とか入れてたのに「やめる!」って言って全部録り直したんですよ。

セガハードを展開する中で、『ドラクエ』も『FF』も無いからそれに対抗できるRPGを作ろうと。当時セガの一番人気は『バーチャ』だったので、『バーチャ』のRPG化をやろう、っていう。

ちょうどね、作ってる時に、裕さんの考えだと「“バーチャ”の名前をつけるとバーチャファンは買うだろうし、100万本は売れる。でも、俺はこのソフトを1000万本売りたいんだ。“バーチャ○○”って名前だと100万本で頭打ちになるから新しい主人公にする」って。

なるほど……。で、130億と言われる広告費や、70億と言われるシェンムーの製作費が経営を圧迫してだいぶきつくなってくる、と。ドリームキャストはネット接続もブラウジングも出来て、めっちゃ先進的で正しく進化してる気がするんですけどね。

とにかく、ドリームキャストは「毎日電源を入れてもらうために何をするべきか」っていうのを考えて作られてるハードなんですね。ネットだと毎日メールが来るから、そのメールを見るためにドリームキャストの電源を入れて、ついでにゲームもやるかっていう。

完全に戦略としては正しいんだよな〜〜〜。その辺の先見の明は本当にすごい……。今の家庭用ゲーム機は全部その方向に進化してますもんね。

「とにかくインターネットを軸にこのハードは展開するんだ」っていう上からの号令があって、ブラウジング出来たり、プロバイダ料を全部セガが負担して無料にしたり【※】。とにかくインターネットに繋いでもらおう、っていう。そんな中でインターネットを利用した新しいゲームを、っていうので出来た割と大きいタイトルが『ファンタシースターオンライン』なんですね。『Diablo2』がヒットしてた時代なんでああいうのをドリームキャストでも作ろうって。

※プロバイダ料が無料
ドリームキャスト専用プロバイダとしてサービス開始した「セガプロバイダ」は2000年5月まで無料でドリームキャストユーザーに提供された

あと、『グランディア』【※】がプレイステーションで発売っていうのもあります。

※グランディア
ゲームアーツが1997年にセガサターンで発売したRPGの名作。制作会社であるゲームアーツは当時、セガ陣営の有力サードパーティとしてヒット作をたくさん生み出していた。

あー、ショックでしたよ!

そう、セガのユーザーとしてはショックでした! ゲームアーツさんはインタビューとかで「セガしか見てません!」みたいな事も言ってましたから、そういうメーカーがセガから離れるような行動を取ったっていうのはショックでしたね……。でも1年も経たないうちに『グランディア2』がドリームキャストでリリースされてるので、お客さんをドリームキャストに移行させるための手段だったかもしれませんね。


セガ、家庭用ゲーム機から撤退。そして合併へ

で、そういう流れもあってドリームキャストが期待したようには普及しなくて、2001年には家庭用ゲーム機からの撤退を表明します。そんな風にかなり経営的にも危ない感じになってる中で、CSK大川会長が多額の私財をセガに寄付してそのままお亡くなりになるという。大川さんと話した事あります?

いやもう、雲の上の人なんで……(笑)。

私は大川さんにプレゼンしたことありますね。大川さんがいなかったら、たぶんセガという会社はないはずです。当時の部長だった中裕司さんが「大川さんが居てくれたおかげだっていうのはみんな覚えておけよ」って言ってたのを覚えてます。

ドリームキャストっていうハードを出す前に、そもそも作るかどうかっていう検討をするじゃないですか。サターンも分が悪くなって、家庭用ハードは諦めてソニーや任天堂のサードパーティとしてやろうか、とか。その時に「最後にもう一回挑戦しよう」って言ったのが大川さんだったとか。その大川さんが「これからはネットワークだから、ネットワークのハードにしろ」っていう号令を出したんですね。それでドリームキャストの設計のコンセプトに大川さんの思想が入っているので、不振は自分の責任だという事で私財を投入したのかもしれません。

でも、先見の明はすごいですよね。本当に「ちょっと早かった」っていうだけの事で。ドリキャスが撤退する時にビルゲイツに談判しに行って、「ドリームキャストのソフトをXboxで動くようにしてくれ。じゃなきゃドリームキャストのユーザーに申し訳ない」ってお願いしたとか。マサチューセッツ工科大学に多額の寄付したとか。偉人としてのエピソードが多い。

その後、2004年にセガとサミーが経営統合するんですけども、サミーの里見会長が苦しかった時代に大川会長が資金を出してサミーを救ったっていうのがあったそうなんですよ。これはサミーの社史なんかには書いてあるらしいんですけど。だから、里見会長は最後まで大川さんが夢を見て、愛着を持っていた会社であるセガが危ない、だからなんとか手助けしよう、という意味もあって経営統合したそうです。

おー、なるほど。あの経営統合で何か変わりました?

変わりましたよ。資金繰りが劇的に改善されました(笑)。あの合併が発表された時、世間的にはサミーとセガが経営統合ってなるとサミーがセガを吸収合併した、みたいに取られがちなんですが、立場的には対等なんですね。その上でセガのセガらしさを失わないような形になっているので、現場で不自由があったりっていう事は少なかったんじゃないかと思います。だからもし、今のユーザーの皆さんが、当時のセガらしさを今のセガにも見て頂けるのであれば、そういう事があったおかげなのかなと思います。

その一方でアーケードではヒット作を連発

なるほど……。ちょっと、時代が戻るんですが、これは僕の個人の趣味として『スパイクアウト』の話をしたくて。僕、当時『スパイクアウト』がめちゃくちゃ好きでセガワールドに通ってたんですよ。

そう。ドリームキャストも色々動いてる中で、名越さん【※】は『スパイクアウト』みたいにアーケードでも着実にヒットを重ねてましたね。

※名越稔洋
89年入社。現在はセガゲームス最高開発責任者及びセガ・インタラクティブ取締役CPO。『バーチャレーシング』『バーチャ』などにCGデザイナーとして参加。代表作に『デイトナUSA』『スパイクアウト』『スーパーモンキーボール』『龍が如く』など。

あ、『スパイクアウト』って名越さんなんですね。

そうそう。

だから『龍が如く』には『スパイクアウト』の血が流れてると思います。

あ、確かに。ゴロツキいっぱい出て来るし。街で暴れまわるっていう。

3Dアクションで、街で戦うっていうのは、『スパイクアウト』からの流れですよね。

で、僕『スパイクアウト』めっちゃ好きで、地元の布施のセガワールドにめっちゃ通ってたんですよね。100円で1時間とか遊べて。

そう。だからお店はあんまり儲からないから『スパイクアウト』を入れたがらないっていう……(笑)。

そう! でも僕、店員さんとも仲良かったから、「『スパイクアウト』は儲からないかも知れないけど、『スパイクアウト』目当ての客が待ってる時間に他のゲームで遊んだりして結果的には儲かるんだから絶対撤去しないでね!」って言いまくってました(笑)。

なので、『スパイクアウト』もそうなんですけど、ドリームキャストがなかなか苦しい戦いを強いられている中でも、アーケードはヒット作がどんどん出てるんですね。『スパイクアウト』、『ダービーオーナーズクラブ』【※】とか。

※ダービーオーナーズクラブ
このデカい筐体をゲームセンターで見た事がある人も多いはず。ゲーム業界で初めてICカードによる情報保存システムが採用された。アーケードゲームに「続き」の概念が初めて持ち込まれた瞬間である。ヨッピーの友人がこれにハマって死ぬほどお金を使った。

『ダービーオーナーズクラブ』がアーケードのカードゲームのはしりですよね。

そうですね。それでそのあと『WCCF』『甲虫王者ムシキング』『オシャレ魔女 ラブandベリー』『三国志大戦』って続きます。

あー! 『三国志大戦』! 『三国志大戦』はね、僕三国志好きだし物凄く面白そうでやりたかったんですよ。

これはね、当時『サクラ大戦』とか『ぐるぐる温泉』とか作ってた人たちが、コーエーが出してた『三国志インターネット』っていうLANで遊ぶ対戦ゲームを10年とかずーっとやってて。

そうそう。10年ぐらいやってた(笑)。

お昼休みにお弁当食べながら。発売当初は90年代だったので、そこから2000年になってもずっとやってて、そのメンバーのうち何人かが「俺たちも三国志のゲーム作りたいね」って。それで出来たのが『三国志大戦』なんです。

僕ね、ゲーセンで見ててめちゃくちゃ面白そうだったから、やってた友達に「『三国志大戦』どうなん?」って聞いたんですよ。そしたら「面白いよ。面白いけど月に5万とか10万とか平気で飛ぶよ」って言われて断念しました(笑)。

私はサッカーがすごい好きだから、『WCCF』が出た時にゲームセンターに行くたびに数万円ぐらい使っちゃうので、「セガで貰った給料をセガに払うってなんなんだ」って思ってました(笑)。

「これ流行るなぁ」と思ったのが、作ったスタッフが会社帰りにゲーセンに飛び込んで一生懸命やってるんですよ(笑)。カードとかは開発スタッフでも絶対もらえなくて、作ってるスタッフもレアカード欲しくてひたすらやってて、要らないハズレのカードが会社でデバッグ用にどうぞみたいに山積みになってたっていう。

マリオ&ソニック発売で奇跡の和解?

カードにハマってお金を溶かした人は多いだろうな……。で、2007年の『マリオ&ソニック AT 北京オリンピック』発売で奇跡の和解? ですか?

別に任天堂さんと仲が悪かったわけではないので(笑)。

自分はずっとセガ派ですけど!

任天堂さんのハードは本当に凄いなと思ったのが、ゲームキューブやゲームボーイアドバンス向けに『ソニック』を出した直後、2002年に国際フォーラムでやったセガのイベントに小学生が来るようになってビックリしたんですよ。今まで『バーチャ』とか『サクラ大戦』のティーン以上のファンばっかりだったので、プレイ待機列の身長差がすごいんです。

私は『エターナルアルカディア』のゲームキューブ版を出す時に任天堂に企画の説明に行ったんですよ。そこで京都の本社に行ったんですけど、めちゃくちゃ感動しました(笑)。「私、ずっとセガに居るのにまさか任天堂に来る日がくるとは……!」って(笑)。

あー! わかる! 僕もこの間仕事で京都に行った時に、何気なく車を運転してたら向こうからだんだん任天堂のロゴが近づいて来るんですよ。「うわーーー!写真撮って写真!」ってめちゃくちゃテンション上がりましたね!

(笑)。

で、今のセガってどうなの?

本当はセガの歴史って、これまだまだ続くんですけど、もうちょっと時間がヤバくて、宮崎さんも「これから生放送だ!」って居なくなっちゃったし! ここから先は「割と最近」っていう感じになってくるのでまた別の機会に触れられればなと思うんですけど、本当に申し訳ないです! 6時間くらい時間とっておけば……!
で、さっき話の中で94年〜95年がピークっておっしゃってましたけど、その頃を例えば100として、今はだいたいどれぐらいですか?

これまた難しい質問を……。会社としては、あの頃よりむしろ良くなってると思いますよ。過去のセガって、例えば北米版ジェネシスがスーパーファミコンとアメリカでは互角の戦いをしたとか、アーケードで大成功して業界を引っ張ったとか、良い話もたくさんありますけど、うまくいかなかったことも多かった。ドリームキャストなんかはハードが売れるたびに赤字、みたいな話もあったじゃないですか。出て行くお金と入って来るお金のバランスが良くなくて、その辺を大川さんがゲーム業界に対する思い入れだけで埋めてたと言いますか(笑)。当時の僕は新人で、そういうことは後でわかってくるんだけど。

セガだけが変化したわけではなくて、ユーザーもマーケットも競合も全部変わっているので、点数をつけるのはちょっと難しいかなぁ…。

95年に20年後には、セガが任天堂ハードのゲームを作っているとか、携帯電話向けに3Dグラフィックのゲームを提供している。しかも無料で、とか、もう想像を絶する変化ですもんね。

ゲームを発売したあと、10年間も運営開発が続くとか。そういう環境では、人員、コスト、収入なんかを複数年にわたって計画をきちんと作る、というのは重要にはなっていますね。95年当時も経営にかかわる人は、やっていたと思うけど。

ディレクターはともかく、当時の現場のデザイナー、プログラマーはとにかくゲームを完成させることがすべてでしたよね。

そう。ゲームを完成させるのにとにかく人集めろ、「次に寝るまでが今日。」というノリはあった。

今は、若手でもDAUとかARPPUとか普通に話してます。「働き方改革」もやっているし。

セガも大人になった、って事ですかね……。

大人になるまでに60年かかりましたけどね(笑)。(了)


そんなわけでいったん座談会から離れてセガ社内からメガドラミニ発売前夜祭の生放送中、楽しそうな宮崎さんと奥成さん
そして生放送終わり。ホロ酔いで上機嫌の宮崎さんにありがたいお言葉を頂きに来ました。

今日は長時間お疲れ様でした! かなり端折りながらとは言え、色んなお話を聞かせて頂きましたけど、過去の話は散々しましたので最後に未来の話を聞こうと思って。この先セガはどういう方向に向かうんでしょうか。

またざっくりとした質問だね(笑)。まあね、ひとつ言えるのは、セガはずっと「新しい事にチャレンジする」っていう文化を大切にしてきたんですよ。それが行きすぎて「あそこに面白そうな場所があるぞー! いけー!」って、行ってみたら自分しか居なかった、っていうね。そういう事案が多発してましたけど(笑)。
でもそういう文化は今でも残ってますよ。今いる人たちもみんな「とにかく新しい場所に、いの一番に飛び込みたい」っていうそういうスピリットを持った人たちですから。これからもどんどん新しい事にチャレンジしていきたいと思ってます!

なるほど! 今日はありがとうございました!(終)

 ちなみにおっさん4人で温泉旅行に行った時にメガドラミニを持ち込んだら死ぬほど盛り上がりました。いつの時代もゲームは偉大である。

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ライター
自称“無職”のボードゲーム好き。
ライターとしてさまざまな媒体で面白記事を執筆。
現在はメディア運営のアドバイザーやWEBライター塾の講師としても活動している。
Twitter:@yoppymodel
編集
クリモトコウダイ
新聞配達中にトラックに跳ね飛ばされたことがきっかけで編集者になる。過去に「ロックマンエグゼ 15周年特別スタッフ座談会」「マフィア梶田がフリーライターになるまでの軌跡」などを担当し、2017年4月より電ファミニコゲーマー編集部のメンバーに。ゲームと同じぐらいアニメや漫画も好き。
Twitter:@ed_koudai

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