ワクチン開発の立役者カタリン・カリコの半生。渡米後の金銭的苦労、相次ぐ挫折…mRNA研究は夫の献身に支えられた

10月19日(火)13時0分 婦人公論.jp


新型コロナワクチン開発の立役者はハンガリー人の女性だった(写真提供:写真AC)

10月にノーベル物理学賞を受賞した90歳の真鍋淑郎さんが記者会見を通じ、国籍を置くアメリカの充実した研究環境や資金の潤沢さについて触れて話題になりました。新型コロナウイルスに対して効果をあげているmRNAワクチンの開発者の中心人物で、今やノーベル賞に最も近い研究者の一人と言われるカタリン・カリコさんも東西冷戦の中で不景気だった母国・ハンガリーでは行き場を失い、やはりアメリカに渡ることになったそうで——。

* * * * * * *

研究費の打ち切り、新天地アメリカへ


1985年1月17日。

30歳の誕生日に、当時在籍していたハンガリー有数の研究機関であるセゲド生物学研究所を辞めなければならないと知らされたカタリン・カリコ氏。

RNAに関して、思わしい研究成果があげられなかったから研究費が打ち切られた、というのも理由のひとつだったが、どれだけ優秀であっても、若い人材を正規雇用することはできなかったのだ。社会主義の国では珍しいことだが、ハンガリーの景気が低迷し、研究資金を出せなくなっていたことがその背景にあった。それほど当時の経済状況が不安定だったのだ。

それでも、カリコ氏は研究を続けることを諦めたくなかった。

「ハンガリーで仕事を探したけれど、申請したところはどこも返事をくれなかったの」

「ヨーロッパの名門大学でも探したわ。理学部も医学部もあって、私たちが研究をしていたRNAも扱っていた大学を調べて連絡をしたのよ。でも無理だった」

まだEUなども存在せず、ハンガリーを援助したり、行き場を失った学者に国境を超えて職を提供したりするような仕組みはなかった。結局、オファーが来たのは、アメリカ東部フィラデルフィアにあるテンプル大学からだった。

「テンプル大学に手紙を書いたのです。自分が何者で、どんなことができるのか、ということを書きました。その手紙を同じ分野で活躍する先生が読んでくれて、研究所に私を呼んでくれたのです」

娘のテディベアにお金をしのばせて渡米


テンプル大学の生化学科が、ポスドク(博士課程修了後の任期付き研究職)として正式に職と研究の場を与えてくれるという、嬉しい知らせだった。とはいえ、当時のカリコ氏にとって、アメリカはまだ見ぬ未知の国。しかも、エンジニアの夫と2歳の娘という家族がいたし、設備の整った新しいマンションに引っ越したばかりというタイミングだった。

それでも、カリコ氏はアメリカに渡ることを即決した。

「かつてのハンガリーでは、より自分が成功できる環境を求めて、多くの優秀な人材が海外に出ていきました。私自身は家族と離れるつもりはなかったですし、母や姉もいましたから、帰りたいと思ったときにいつでもハンガリーに帰れる状態でいたかったんです」

「海外で生活をするには、パスポート(旅券)やビザ(査証)などの書類が必要になりますよね。当時のハンガリーは自由に海外渡航ができる国ではありませんでしたから、パスポートやビザをとるには、それなりの理由が必要でした。ソ連の影響下にありましたし、しかも行き先はソ連と対立関係にあるアメリカ。でも、大学で研究をするという正式なオファーですから、家族も一緒に出国許可を得ることができたんです」

行き先は決まった。正式に出国許可もおりた。次なる課題は資金をどうするか、ということだった。当時のハンガリーでは、個人が所持できる外貨は100ドルまでと制限されていた。つまり、それ以上は換金できないし、持ち出すこともできない。

100ドルといったら、日本円にして(当時)およそ2万円。家族3人でアメリカに渡るにはいくらなんでも少なすぎる金額だ。

「闇で車を売ったりして何とかお金を集めたものの、換金が認められてなかったのでとても苦労しました。実際には100ドルでなく、1000ドルを持っていきました。でも、見つかったら一巻の終わりです。そこで、お金をビニール袋に入れて、それをテディベアの背中を切ってしのばせました。そのテディベアを娘に渡して出国したわ。だから、実際にお金を密輸したのは私の娘であって、私たちではないのよ。今だから笑って話せるけれど、本当に怖かった。アメリカに到着するまで、娘とテディベアから目を離さなかったわ」(カリコ氏)

こうして、テンプル大学のあるフィラデルフィアに移住したカリコ氏一家。提示された年俸は1万7千ドルだった。当時の日本円にすると340万円。

「年俸1万7千ドルなんて、家族で何とか食べていける程度の額でしかない。チケットは片道しかありません。研究を続け、生き残っていくためには、アメリカ社会にできるだけ早く溶け込まなければならなかった。ドルで食べるものを買わなきゃならない。クレジットカードだって持っていないし、(1985年当時は)携帯電話なんてなかった。しかも、誰も知っている人はいない。私を雇ってくれた大学の人すら知らなかったのですから。その後、私の母もアメリカに来ることになるのですが、ハンガリーでエンジニアだった夫は、まさにゼロからのスタート。清掃などの仕事から始めました」

「何もなければ失うものはない」


アメリカに到着した翌日から働き始めたカリコ氏。最初の1週間で逃げ出したいと思ったそうだ。

「(大学では)みんなドアの開閉は乱暴だし、大声でしゃべる。実験室はセゲドの研究室の方が、よっぽど設備が整っていた。ハンガリーの自宅には、洗濯機がありましたが、アメリカではコインランドリーに行くしかない。生活レベルは下がりましたね」

それでも熱心でひたむきな彼女は「ベンチのために」生きてきたという。ベンチとは、研究室の実験器具が並ぶ場所に置いてある椅子のこと。つまり、彼女の仕事場のことだ。

「研究室のベンチに腰掛けて、ああやって、こうやって、と試験管を振ったり、顕微鏡をのぞいたり、そんなことをしながら、ひとつひとつ実験を積み重ねていくだけでいいの。それが科学者というものだから、あとのことはどうでもいいわ」

「私のモットーは『何もなければ、失うものはない』ということ」(カリコ氏)

カリコ氏にとっての日常は、研究室で過ごす時間だ。

夫のベーラ・フランシアは、「君は仕事に行くんじゃない。楽しいことをしに行くんだよな」と日夜研究室に通い詰めるカリコ氏をそんな風にからかった。あるときは「君の労働時間を時給で換算したら、1時間1ドルだ。マクドナルドで働いた方がずっと時給が高いぞ」と笑いながら言ったりした。カリコ氏にとって、昔も今も、夫は一番の理解者であり、夫の全面的なバックアップがあったからこそ、今日のカリコ氏がある。


985年、アメリカに移住したばかりのころ。夫と娘と一緒に(『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』より)

「わが家では、夫がもっとも多くの犠牲を払ったことは言うまでもありません。朝5時に研究室に出かけていく私や、学校に通う娘のために、車で送り迎えをしてくれましたし、子育てに支障が出ないようにと、自分は夜間の肉体労働などの仕事をしながら家族を支えてくれました。週末でさえも、私がラボから壊れた試験機器を持ち帰って修理するのを手伝ってくれましたし、食事の支度ができないときには、彼が料理をしてくれました。でも、夫は一度たりとも文句を言ったことはなかったのです」

信頼していた上司からの「嫉妬」


ポスドクとしてテンプル大学で働いていた1988年。カリコ氏の元にジョンズ・ホプキンス大学から仕事のオファーが舞い込んだ。

ジョンズ・ホプキンス大学といえば、世界屈指の医学部を有し、アメリカでも最難関の大学のひとつだと評判も高い。公衆衛生部門の研究でも有名で、今回の新型コロナウイルスのパンデミックに関する研究やデータ分析・発表なども行っている。

このオファーの話を知ったカリコ氏の上司が「ここ(テンプル大学)に残るか、それともハンガリーに帰るか」という二者択一の選択を彼女に迫った。明らかに同じ研究者としての嫉妬である。「何でそんなことを言われるのか。信頼していた上司だっただけに、とても落ち込んだ」とカリコ氏も言っているが、実際、彼女の元には国外退去の通知まで届いたという。しかも、その間、上司はジョンズ・ホプキンス大学に対して、カリコ氏への仕事のオファーを取り下げるよう手をまわしていたのだ。

「彼は教授で、私は何の地位もない人間でしたから、仕事もすべて失って、とても困難な状況に陥りました。でも、その上司にも敵(ライバル)がいることがわかったので、その人たちのところに駆け込んで、助けてもらったのです。人生は想定外なことばかりですよね」

やむなくテンプル大学を辞したカリコ氏を救ってくれたのは、日本の防衛医科大学校のような組織の病理学科だった。B型肝炎の治療に必要なインターフェロン・シグナルの研究をはじめ、ここで1年間、分子生物学の最新技術など多くのことを学んだ。

その後、1989年、ペンシルベニア大学の医学部に移籍し、心臓外科医エリオット・バーナサンのもとで働くことになった。この時の彼女のポジションは、研究助教で、非正規雇用の不安定な立場だった。そのうえ、もらえるはずだった助成金ももらえなかった。

「決して条件のいい移籍じゃなかったわ。翌1990年の私の年俸は4万ドル(当時のレートでは、日本円で約640万円)。20年経っても、6万ドル程度でした」

「だから、娘には、『あなたが進学するには、ペンシルベニア大学に行ってもらうしかない』と言ったのよ。なぜって、教員の子どもは学費が75%引きになるから」(カリコ氏)。研究が続けられれば、それでいい。カリコ氏の考え方は一貫している。

「自分のやっている研究は、とても重要なことなんだと信じていました。たとえどんなことがあっても『人の命がかかっている、とても大事なこと』と思っていたのです」

mRNAの研究で新しいタンパク質の生成に成功


そもそもカリコ氏がmRNAに興味をもったきっかけは、ハンガリー時代にさかのぼる。博士課程の担当教官から、RNAの存在と量などを明らかにするためのシーケンシング(遺伝子の正確な配列を調べること)を依頼するために、アメリカ・ニュージャージー州にある研究室に生体サンプルを送ってくれと頼まれたことだった。カリコ氏はこの種のRNAが薬として使用できるかもしれない、という可能性にひかれたのだ。


『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(著:増田ユリヤ/ポプラ新書)

カリコ氏はペンシルベニア大学のバーナサン氏のチームで、mRNAを細胞に挿入して新しいタンパク質を生成させようとしていた。実験のひとつは、タンパク質分解酵素のウロキナーゼを作らせようとしたこと。もし、成功すれば、放射性物質である新しいタンパク質は受容体に引き寄せられる。放射性物質の有無を測定することで、特定のmRNAから狙ったタンパク質を作り、そのタンパク質が機能を有するか評価できるのだ。

「ほとんどの人はわれわれを馬鹿にした」(バーナサン氏)

ある日、長い廊下の端においてあるドットマトリックスのプリンターをふたりの科学者が食い入るように見つめていた。放射線が測定できるガンマカウンターの結果が、プリンターから吐き出される。

結果は……その細胞が作るはずのない、新しいタンパク質が作られていた。

つまり、mRNAを使えば、いかなるタンパク質をも作らせることができる、ということを意味していたのだ。

「神になった気分だった」カリコ氏はそのときのことを思い返す。

「mRNAを使って、心臓バイパス手術のために血管を強くすることができるかもしれない」「もしかしたら、人間の寿命を延ばすことだって可能になるかもしれない」

興奮したふたりは、そんなことを語り合った。

つまりこれが、ワクチン開発の肝となる、mRNAに特定のタンパク質を作る指令を出させる、という最初の発見だったのだ。

チームの解散と金銭的援助の喪失


しかしその後、研究費不足でチームは解体され、バーナサン氏は、大学を辞めてバイオテク企業に転職していった。

「やっていることがあまりに斬新すぎて、お金をもらえなかった」

とカリコ氏は振り返る。mRNAを使ってのうほう性線維症や脳卒中を治療したいと考えたが、研究のための助成金を得ることはできなかったのだ。

非常勤の立場にあったカリコ氏は、これで所属する研究室も金銭的援助も失ってしまった。もし、ペンシルベニア大学に残りたければ、別の研究室を探さなければならなかった。

「彼ら(大学側)は、私が辞めていくだろうと思っていたはずよ」(カリコ氏)

たとえ博士号保持者とはいえ、大学は非常勤レベルの人間を長居させてくれるところではない。ところが、カリコ氏の仕事ぶりを見ていた研修医のランガー氏が、脳神経外科のトップに掛け合って、カリコ氏の研究にチャンスを与えてくれるよう頼んでくれたのだ。

「彼に救われたの」とカリコ氏は言う。

しかし、ランガー氏の受け止め方は違う。

「カリコ先生が私を救ってくれたんです」

「多くの科学者が陥る考え方から、自分を救ってくれたのがカリコ先生でした。彼女と一緒に働いていて、本当の科学的理解というのは、何かを教えてくれる実験をデザインすることで、たとえその結果が聞きたくないものであったとしても、必要なものであることを教えてくれたんです」

「大事なデータは、対照群から得られることが多い。それは比較のために使用するダミーを含む実験です。科学者がデータを見るときの傾向として、自分の考えを立証してくれるデータばかりを探してしまう傾向がある。しかし、最高の科学者は自分の理論が間違っていることを立証しようとするんです。ケイト(カリコ氏)の天才的なところは、失敗を受け入れることを厭わず、何度でもトライする。人が、愚かすぎて聞かなかった質問に答えようとすることなんです」(ランガー氏)

降格を受け入れて大学にとどまる


何とか大学に残れたものの、1995年、カリコ氏はペンシルベニア大学から降格を言い渡される。「成果を出すことができず、社会的意義のある研究とも思えない」というのがその理由だ。研究室のリーダーを降ろされることになったカリコ氏。未来を期待する科学者にとって、大きな後退だ。

「普通は、この時点で、人はバイバイと言って大学を離れるのよ。それだけひどいことだから」(カリコ氏)

ちょうどこの時、彼女にがんが見つかり、ハンガリーに戻っていた夫がビザの問題で出国できないというトラブルも重なった。

「どこか別のところに行こうか、何か違うことをしようか、とも考えたわ。自分には何か足りないのではないか、賢くないんじゃないか、と思ったの。いろいろ想像してみたんだけれど、結論はこうだった。『すべてはここにある。もっといい実験をすればいいのよ』」

カリコ氏は降格を受け入れ、大学にとどまることを選んだ。

彼女が初めてペンシルベニア大学に来たとき、彼女の研究室は病棟の向かい側に建っていた。カリコ氏はいつもそこにいる人々に思いを馳せていた。

「同僚に対して、いつもこう話していたの。『私たちの科学をあそこにいる患者たちに届けなければならない』ってね。窓の外に見える病棟の患者さんたちを指さしながら『絶対にあそこに届けなくちゃ』と」

「研究は私の趣味。他にお金は全く使わなかった。収入が減っても、私と家族の質素な生活を続けるには十分だったし、私自身は毎日楽しかった。仕事が娯楽だったのよ」

※本稿は、『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

トピックス

BIGLOBE
トップへ