映画『ジョーカー』が決して哀れな転落物語ではなく、”ハッピーエンド”である理由

10月21日(月)17時0分 文春オンライン

 私の名前はダブル手帳( @double_techou )。身体障害者手帳1級(重度脳性麻痺)と精神障害者手帳3級(発達障害)を持っていることから思い付いた安易なペンネームを使って執筆している。生まれつき歩くことができず、背筋は湾曲し、右手も自由にならないため、電動車椅子で生活している。先日、私は大ヒット中の映画『ジョーカー』を見てきた。


*編集部注……この記事はネタバレを含みます。この記事は、記事中の行為を推奨するものではありません。


ジョーカーはコメディー映画だ


 「ジョーカー」は言うまでもなくコメディー映画であるが、その中でもこれだけのハッピーエンドを迎える作品は珍しいと言えるだろう。以下、この映画のあらすじを簡単におさらいしたい。





 主人公アーサーは、脳に障害を持つ貧しい道化師である。年老いた母親を介護しながらの暮らしは決して楽なものではない。おまけに、職場では同僚にからかわれてばかり。しかし、彼にはコメディアンになるという夢がある。「人生の目的は笑いと喜びを届けること」。笑顔を絶やさない彼を母親は「ハッピー」と呼ぶ。


 そんな彼に大きな転機が訪れる。相次ぐヘマによってとうとう解雇の憂き目に遭い、肩を落として道化師姿のまま地下鉄に乗り込んだアーサー。彼はそこで偶然にも、酔っ払いのビジネスマン3人組に絡まれていた女性を思いがけない形で助けることになる。この一件は瞬く間に評判となり、「謎の道化師」は街の困窮者たちにとっての英雄となっていく。


 次第に活力を増していくアーサーに更なるチャンスが訪れる。なんと、アーサーが一念発起してナイトクラブで行った漫才が憧れの司会者マレー・フランクリンの目に留まり、マレーの番組への出演依頼を受けることに。


 アーサーは道化師姿で身を固め、初めて自らを「ジョーカー」と名乗り、完璧な登場で観客を魅了する。つかみはバッチリ。ところが、マレーの意図は、アーサーを貶め、笑い者にすることにあったのだ。次第に会場には不穏な空気が漂い、アーサーはマレーとのやり取りの中で窮地に追い込まれる。しかしアーサーは予想だにしない機転によってマレーを黙らせ、一発逆転を果たすのだった。



『ジョーカー』で主人公アーサーを演じたホアキン・フェニックス ©AFLO


 群衆から熱烈な歓迎を受けるアーサー。彼はおもむろに立ち上がると、ゆっくりと舞い踊る。その一挙手一投足に、人々が熱狂する。彼が「コメディアンになる」という夢を叶えた瞬間だった。


アーサーがこれ以上ハッピーになることは有り得なかった


 この映画全体については、既に多くの考察が為されているが、私から言っておきたいことはたった一点しかない。たった一点ではあるが、極めて重要なことだ。それは、アーサーが仮にどのように本編と違った行動を取ったとしても、本編以上にハッピーになることは決してなかっただろうということ。



 アーサーは劇中でいくつかの大きな選択肢に直面する。私はこの映画を観てから3日間、彼の行動を変えることでもっと彼にとってハッピーな結末にできないか、ずっと考え続けた。しかしできなかった。


 IFの世界のアーサー達は、本編を超える幸せを掴むどころか、その多くが悲惨な結末を迎えていった。つまり本編で描写されたのは、アーサーの取った行動と様々な偶然が絶妙に絡み合い奇跡的に現出した「トゥルーエンド」なのだ。一人の「ジョーカー」の背後に、「ジョーカー」になれなかった無数のアーサー達が蠢(うごめ)いている。



「ジョーカー」を見て気づいた3つのこと


 私個人としては、このサクセスストーリーから多くのポジティブなメッセージを受け取った。自分らしく生きることの大切さ。夢を持ち、その実現のために諦めず努力し続けることの素晴らしさ。自らの過去とひるまず対決することの重要性。そしてそれらの先にこそ、自分にとっての本当の「ハッピー」があるのだということ。数えればきりがない。


 以下では、特に印象に残った3つの具体的なエピソードに焦点を絞り、それを受けて私が具体的にどう行動したかをそれぞれご紹介したい。


 1つ目は、アーサーが向精神薬の服用をやめることで、自分らしく輝き出すところである。序盤のアーサーは「幸せなど一度もなかった」のであり、「つらいのはたくさんだ」と更なる向精神薬の増量を求めるが、彼のつらさが改善することは無い。ところが、皮肉にも向精神薬の供給が絶たれてしまったあたりから、アーサーはむしろ生き生きとし始める。向精神薬をやめてから気分が良くなったと言うアーサーは、「僕はずっと自分が存在するのか分からなかった。でも僕はいる」「これが本当の僕だ」という境地にまで到達するのだ。


 確かに社会の側から見れば、服薬していた時のアーサーの方が、服薬をやめた後のアーサーよりも、御しやすく「望ましい」人物だったかもしれない。しかしそれは、彼の主観的なハッピーには結び付かなかったのだ。


 彼はある意味、7種類の向精神薬を「飲む」のではなく「飲まされていた」。私がこの映画を観て帰宅した後最初にしたことは、処方された9種類の向精神薬を全てゴミ箱にぶち込むことだった。


 2つ目は、アーサーの担当カウンセラーが、彼の話を一切聞かず定型的な質問に終始していたところである。私も似たような経験があるので、アーサーの苛立ちがよく分かる。



 ある日私は、メンタルクリニックでカウンセラーに、人間関係における他者性が与える苦痛についての悩みを打ち明けていた。こういうことを話すのはすごく勇気が要るし、あらかじめ話すことを考えていくだけでも精神的な体力を削られる。私のように内気で口下手な人間ならなおさらだ。それでも決死の覚悟で10分ほど話しただろうか。するとカウンセラーは言った。


「首の後ろに手を当ててみて下さい。そうすると、じんわりとした温かさを感じるでしょう? 副交感神経が活性化されて、穏やかな気持ちになれますよ」


 人間関係の話をしたら首の後ろに手を当てなさいと言われるなんて、なかなかパンチの効いたギャグだ。私がこの映画を観て帰宅した後2番目にしたことは、全てのカウンセリングをキャンセルすることだった。



 3つ目は、アーサーが自らの脳障害が虐待によるものであることを病院の記録から突き止め、虐待に加担していた母親に復讐を果たすところである。このできごとがあったからこそ、彼は偽りの絆から解放されて失うものがなくなり、前述のような「ジョーカー」としてのハッピーエンドを迎えることができたのである。


 前述の通り、私は脳性麻痺で、幼少期は毎日のように親から殴られ、時には 時計で殴られて歯が折れたこともあった 。ところで、脳性麻痺というのは脳が何らかの原因で損傷することで起こる障害である。その点ではアーサーと私は同じだ。私はいつ何故脳が損傷したのか、親に聞いたことがあるが、教えてくれなかった。


 もちろん、脳性麻痺はどの時点で脳が損傷したのか分からない場合も少なくない障害だ。だがもしかしたら、私はずっと因果関係を逆に取り違えていたのかもしれない。つまり、「脳性麻痺だから虐待されていた」のではなくて、「虐待されたから脳性麻痺になった」可能性に思い至ったのだ。私がこの映画を観て帰宅した後3番目にしたことは、自分が生まれた病院に電話を掛けることだった。



不条理という名のギャグは、盛大なオチに向けた前振りだ


 そろそろ不快になってきた方もおられるだろう。そういう人はこう思うかもしれない。「それで、オチは?」


 残念ながら現時点では「オチは無い」。だが、喜劇王チャップリンの言葉を思い出してほしい。


「人生はクローズアップで見ると悲劇だ。しかしロングショットで見ると喜劇だ」


 この言葉は、アーサーだけでなく私やあなたにも当てはまる。私やあなたが人生で体験してきた不条理という名のギャグは、全て盛大なオチに向けた前振りなのだ。アーサーは「ジョーカー」になることでオチを付ける他なかった。自分の人生のオチは、自分で決めるしかない。私の人生には、どんなオチを付けようか。そして、あなたは?


 最後に、映画「ジョーカー」を象徴するセリフで締めくくりたい。


「喜劇なんて主観さ」



(ダブル手帳)

文春オンライン

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