朝ドラ『エール』モデル・古関裕而と『鐘の鳴る丘』「子供たちがラジオの前にとんでくるくらいの曲を」

10月21日(水)17時10分 婦人公論.jp


『鐘の鳴る丘』の頃の古関裕而(左)と菊田一夫(写真提供:古関裕而の長男、古関正裕さん)

NHK連続テレビ小説『エール』で、窪田正孝さんが演じる主人公・古山裕一のモデルは、名作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)だ。ドラマでは、北村有起哉演じる池田二郎(モデルは劇作家・菊田一夫)の説得を受け、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌を作曲する古山の姿が描かれた。遺族にも取材して古関の評伝を書いた刑部芳則さん(日本大学准教授)によると、戦後、菊田一夫が古関に依頼した最初のラジオドラマは「鐘が鳴る丘」ではないという。
※本稿は、評伝『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)の一部を、再編集したものです

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「神経質そうに見受けられたが、話してみると…」


昭和20年9月22日に民間情報教育局(CIE)が設置され、新聞、雑誌、ラジオ、映画、演劇など、文化や教育に関して広範囲にわたる諸改革の指導および監督を行った。

JOAK(NHKの前身である東京放送局)の放送は、CIEの検閲を受けることを余儀なくされた。

さて、戦後の古関の人生を語るときに忘れてはならないのが、劇作家菊田一夫(きくた・かずお)の存在である。

古関と菊田の出会いは、日中戦争が始まり「露営の歌」が大ヒットした昭和12年に遡る。菊田は、人気喜劇俳優の古川ロッパ(緑波)が率いる一座の作家を務めており、ロッパが出演するラジオドラマ「当世五人男」(原作・村上浪六)の脚色および演出をしていた。


『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)※電子版もあり

そこでJOAKから古関に放送劇の軽音楽を担当して欲しいと依頼がきた。古関は、初めて見たときの菊田の印象を、「小柄で、鼻下に髯をたくわえ、ちょっと神経質そうに見受けられたが、話してみると案外に優しく、私と同じように少々どもる癖があるので、一層親しみを感じ」たという。

ラジオドラマ初体験の古関は、登場人物に合わせて編曲を繰り返したり、限られた楽器編成のオーケストラに編曲するのに苦労した。だが、苦労の甲斐があり、古関の音楽は菊田に気に入られた。

その後には、菊田が脚色および演出した「思い出の記」(原作・徳富蘆花)、菊田の脚本による「八軒長屋」などの軽音楽を担当した。戦争が激しくなって菊田が岩手県に疎開したため、一緒に仕事することがなくなっていた。

それが終戦によって再開することとなる。昭和20年10月、福島の飯坂温泉に疎開していた古関のもとに、放送局演芸部の独活山(うどやま)万司から上京依頼の電報が届いた。戦後初のラジオドラマ「山から来た男」の音楽担当である。古関は、菊田の書いた台本を飯坂に送ってもらい、放送ごとに上京した。

田舎に疎開していた男が、山から帰って会社を再建するという物語であった。その後も菊田とのコンビで「夜光る顔」、「駒鳥夫人」などのドラマ音楽を担当した。こうした作品は、焦土と化した全国の人びとに、楽しみを与えたのである。

古関一家は昭和20年11月に飯坂温泉から東京世田谷代田の自宅へ戻ってきた。翌21年7月10日には長男正裕が誕生した。古関と金子にとって待望の男の子であったから、二人とも大喜びであった。古関家にも平和と希望の光が差し込んだ。

CIEの肝煎りで始まった「鐘の鳴る丘」


昭和22年6月、CIEはNHKに戦災孤児や浮浪児救済のキャンペーンの番組づくりを命じた。CIEは1回15分間の放送を求めた。菊田は20分以上でないと作ることが難しいと反対したが、アメリカではCMも入れて15分間の放送をしていると譲らなかった。

こうして1回15分間の「鐘の鳴る丘」という子供向けのドラマ番組を作ることとなった。昭和22年7月5日に第一回が放送された。当初は毎週土曜と日曜の2回放送で1年間を予定していた。


刑部芳則さん

物語は、戦争から復員した主人公の加賀美修平が両親を失って孤児院に入っていた弟の修吉を迎えに東京へ行くと、多くの戦災孤児の姿を目にし、信州にそうした子供たちが住める場所を作ろうと努力する話である。

「鐘の鳴る丘」は低予算のため楽団を小規模にしなければならず、演奏用にハモンドオルガンを取り入れた。ハモンドオルガンは「音色が非常に多彩豊富で変化があり、幽幻な境地さえ表現できる」からであった。

ハモンドオルガンは東京管弦楽団の小暮正雄が演奏した。主題歌の歌詞をもらった古関は、「単純で印象的で、この音を聞いただけで、子供たちがラジオの前にとんでくるくらい引きつけねばならない」曲を作るのに苦心したという。主題歌「とんがり帽子」は、歌手は川田正子、指揮は海沼実、合唱はゆりかご会であった。


古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル

ハモンドオルガンを古関が弾くことに


戦災で親を亡くした孤児たちを慰め、励ましている。古関は「なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう」と激賞した。

古関は菊田の歌詞に負けない、美しく明るいメロディーをつけた。付点音符により弾む長調で朗らかな曲調である。「とんがり帽子」を歌った川田は、当時の童謡歌手では一番の人気者であり、昭和20年大晦日の「紅白音楽試合」にも出場している。

放送開始直後は順調であったが、菊田の脚本が遅れはじめ、作曲が放送直前ということが多くなった。菊田からの高度な要求にも応えなければならないため、放送開始から3ヵ月が経つと、ハモンドオルガンを古関が弾くこととなった。小暮から電気的操作と、レジストレーション(音色構成)を習っている。これが古関とハモンドオルガンとの出会いであった。

毎回生放送で16インチの円盤に同時録音し、それをCIEに聴かせた。そして担当者からの意見を受けて、次回の番組づくりの参考とした。番組開始から半年後には月曜から金曜まで毎週5回の放送となった。それは全国の聴取者からもっと番組を聴きたいという要望に応えたものであった。

大人気の「鐘の鳴る丘」は、昭和25年12月29日に790回をもって終了した。

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