D japanese「いじめられっ子の僕がフォロワー245万人のインスタグラマーになるまで」

10月22日(木)12時15分 婦人公論.jp


「フォロワー数を伸ばせたのは、『フォロワー数を確保したい』という意識が希薄だったからかもしれません。常に『自分が見る側の立場なら、どうすればフォローしたくなるだろう?』と考え、そのための勉強を重ねただけ。」(撮影:本社写真部)

芸能人でもモデルでもなく、インスタグラマーとして約245万人のフォロワーをもつDさん。インスタには、海外のトップブランドのデザイナーとのツーショットも掲載されている。何の後ろ盾もなく、すべて自分で考え、試行錯誤してきたという彼は、いじめの経験者でもあった。つらい時期を乗り越えられた理由やこれまでの道のりを振り返る(構成=武香織 撮影=本社写真部)

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小・中・高といじめを受けて


約6年前、福岡県の服飾専門学校在学中にインスタグラムを始めました。

内容は、ファッションに関するものです。おかげかげさまで2020年にはフォロワー数が約245万人に達し、国内男性トップ10入りしたことでインスタグラマー「D」としてたくさんの方々に周知していただき、本を出すこともできました。

有名芸能人でもないのにフォロワー数を伸ばせたのは、「フォロワー数を確保したい」という意識が希薄だったからかもしれません。常に「自分が見る側の立場なら、どうすればフォローしたくなるだろう?」と考え、そのための勉強を重ねただけ。もちろん、「すごい反響だね」と褒められるのも、新しい出会いがあるのも素直に嬉しいけれど、それも全部フォロワーさんあってこそ。そんな僕が今の活動をするようになった経緯をお話ししたいと思います。

僕が生まれ育ったのは、佐賀県です。でも、地元のことは、ついこの間までどうしても好きになれずにいました。いじめられた記憶しか蘇ってこなかったからです。最初のいじめは、小学生のとき。幼稚園から所属していたサッカークラブの、同じ小学校に通う先輩から、でした。万引きなど、いたずらとは言えないことを命令されたんです。

僕の両親は、口うるさくはないものの悪さをすればしっかり叱ってくれる人たち。一度、ゲームセンターで遊ぶお金を母親の財布から持ち出したことがあるのですが、すぐにバレて、「これは犯罪なのよ!」と、とことん説教され、非常にこたえた経験があります。だから犯罪に手を出すのはごめんだし、何より誰かに迷惑をかける行為は絶対にしたくなかった。

しかも、もともと妥協して周囲に同調するのが苦手な性格。先輩の命令は、頑として拒否しました。すると、いじめはどんどんエスカレート。長時間のランニングの強要や、洋服で隠れた部分を徹底的に殴る、蹴る……。練習中の乱暴なプレーで、何度も怪我をしたことがあります。

そんなわけで、4年生になるとサッカーへの興味がすっかり消え失せてしまったのです。仲のいい級友と休み時間にやるサッカーは楽しかったけど、いじめる先輩たちとのプレーは苦痛でしかなくなり、卒業と同時に、サッカーとはきっぱり縁を切りました。

親にも先生にも相談しなかった


けれども、僕の地元では小学校のメンバーのほとんどが同じ中学校へ進みます。結局中学でも、サッカークラブの生徒たちがほかの生徒を巻き込み、いじめは継続されたのです。

その頃、制服のズボンをずり下ろしてはく「腰パン」が流行ったのですが、僕は「下着が見えて、カッコ悪い」と、きちんとシャツをズボンにイン、正しい制服の着方をしていました。そのことが、彼らの癇に障ったのか、「ダサい奴」と馬鹿にされ、トイレに連れ込まれて暴力を振るわれ、目を殴られて将来緑内障になると診断されたこともあります。

中学卒業後は商業高校へ進学。ようやくいじめっ子たちと別々の学校になりホッとしましたが、今度は「警察官志望」の柔道部員に目をつけられてしまった。剣道部の竹刀をくすねては、人目につかない所で叩く。また、SNSで悪口をふれ回るなどの陰湿な行為も……。

でも僕は、小学校から高校まで休まず登校を続けました。やられるに徹し、ある種のプライドもあったから周囲の誰にも相談しなかった。とにかく、ことを荒立てたくなかったんです。

ただ、勘のいい母親は、僕の身に起きていたことになんとなく気づいていたと思います。僕の性格を熟知しているだけに、「僕の話したくない気持ち」を尊重し、静観していただけなのかな、と今になるとわかる。

一方で積極的に学校行事に参加し、ほかのお母さんと親密な関係を築いてくれていました。「親同士が仲良ければ、子ども同士にも大きな亀裂は生じない」と考えていたのかも。

いじめられていたとき、先生に助けてもらおうという発想はありませんでした。このご時世、教師であってもいじめっ子に対抗すれば攻撃され、精神を病んだり、職を失ったりしかねないから。先生も人間、守りに入るのも仕方がないと思うのです。

もし今の僕が学生で、いじめの対象になって登校できない状況に陥ったとしたら、勉強に没頭し、学力を上げ学年1位を狙うか、偏差値の高い学校への転校を目指します。

なぜなら、インスタを始めてからわかったことですが、フォロワー数が急増したとたん、それまで僕を誹謗中傷していた人がきれいに去っていった。人間って、「自分より上」と認識した人とは、関わりたくなくなる生き物なのではないでしょうか?

イオンで初めて「ファッション」に目覚め


いじめに苛まれながらも、「ファッションの世界へ進む」という夢が僕の中で芽吹きました。高校3年生のときです。

高校では硬式テニス部に入部、夜は民間のスクールにも通い、テニス一筋でしたが、最後の高校総体直前に、足の靭帯を切る大怪我に見舞われました。目標を失って落ち込んでいたら、母親が大型モールのイオンへ連れ出してくれたんです。

イオンには、洋服を買うため、2、3ヵ月に1度、お小遣いを貯めては自転車で40分かけて行っていました。いつもは自分で適当に1着だけチョイスしていましたが、その日は足を怪我していて自由に動き回れないし、母親というスポンサーがいたため、生まれて初めて店員さんに全身コーディネートしていただいた。

それがものすごく新鮮で、カッコ良くて、母親も店員さんも大絶賛。ファッションのことで褒められたのも初体験で嬉しくてたまらず、久しぶりに自然と笑みがこぼれた。と同時に、そんなふうに、人間の心さえ変化させるファッションのパワーというものに、無性に惹きつけられました。そして、その感覚をどうしても「形」にしたくなったんです。

そこで、福岡県内の服飾専門学校へ進学すると決めました。けれどファッション系の仕事といえばショップの店員とデザイナーくらいしか知らない両親は、「生活できる人はほんのわずか。とりあえず大学へ進学して」と大反対。

ならばと、両親を説得する戦略として、週に1度のペースで専門学校の見学をし、帰宅後に学校の魅力を両親に猛アピール。その結果、26回目の校内見学にやっと母親が同行してくれました。その頃には親しく声をかけてくれる在校生もおり、その様子を見て、進学を許してくれたのです。

無事、服飾専門学校に入学すると、アジアのファッションウィークでコンサルタントの仕事をする特別講師と出会いました。彼の勧めで思い切ってシンガポールでの仕事に同行し、カタコトの英語で交渉しながら地元のおしゃれな人たちを撮影しまくった。以後、バイトでお金を貯めては、アジアのあちこちでスナップ写真を撮り溜め——。それらをインスタで発信したのが、今の僕の原点です。

その後、自分でお金を貯めてパリコレなど海外のファッションショーを観に行ったり、26ヵ国語で発信したり、独学で試行錯誤を重ねました。その結果、多くの方にフォローしてもらえるようになっていきました。


「人間の心さえ変化させるファッションのパワーというものに、無性に惹きつけられました。そして、その感覚をどうしても『形」にしたくなったんです。」

就職して出会ったモラハラ上司


でも卒業して、またもや試練が押し寄せました。フォロワーの多い僕に目をつけた、インスタ部門がある芸能事務所から声をかけられて所属したものの、そこの取引先であるネット放送局の総合プロデューサーに引き抜かれ、その方の事務所に所属。そこで何度も騙されてしまったんです。

彼が、僕には「報酬が0円だけど、実績になるからやったほうがいいよ」と言っていた仕事があったのですが、その方はのちにお酒に酔って「あの仕事のギャラは約200万」と自ら口を滑らせた。また、僕が企画して決めてきた仕事に、自分がかわいがっているモデルを勝手にブッキングしたうえ、クライアントと揉めてその仕事自体が消失してしまったことも。

それに、男女問わずモデルのヌード撮影を強要し、僕が後ろめたくなる既成事実をつくった。さらに「事務所をやめたい」と言えば、「お前が撮ったヌード写真をばらまく」とか「これまでお前に投資した700万円を返せ」と脅されました。

地方から上京したばかりの僕は無知で、情けないことに「この世界ではそんなものなのかな」と少しの疑念も抱かず、一所懸命仕事に没頭したんです。後でそれがまっとうな処遇でないと気づき、腹が立って虚しくもなりましたが、闘おうにも弁護士を雇う経済的余裕はない。

というより、「鎖」につながれわずかな「餌」をもらう環境に3年あまりも浸ると、抵抗できない状態になるものなんですね。「逃げ道は、どこにもない」と諦めてしまい、小・中・高といじめを受けても「死にたい」とまでは感じなかったのに、正直、何度も命を絶ちたいという衝動にかられました。

それでも、昨年4月の契約更新時、退職の意志を問題のプロデューサーへ毅然と伝えた。その勇気をくれたのは、有名なクリエイターや社長たちの生き方が描かれた本や映画です。

そして、フォロワー数100万を超えた頃から、老舗ブランドから憧れのパリコレなどの有名ファッションショーに招待していただけるようになって。ジェレミー・スコットさんやポール・スミスさんなど、たくさんの著名なデザイナーに直接ご挨拶させていただく機会に恵まれました。

みなさん、無名の僕にも温かく接し、ツーショット写真も快く引き受けてくださる。第一線を歩む彼らの懐の深さを知れば知るほど、問題のプロデューサーが、「口だけ立派なつまらない人」と確信できて、理不尽な囚われから解放されたのです。

インフルエンサーにならない理由


独立してからというもの、おかしな主従関係がなくなり、年上の方とも同じ目線で仕事を共有できることがとても心地良い。それと同時に、仕事に対する責任も重く感じるようになってきました。

その延長線上で、多くの尊敬する著名人が実践している、「脳の働きを順調に保つ生活」を心がけるように。「規則正しく」を胸に刻み、夜9時には寝ています。好物のコーヒーは1日2杯までで我慢、おやつはナッツ類、血糖値が上昇してイライラ感を助長すると言われている食品は極力控える……。料理の腕はまだまだなので、勉強中です。(笑)

ところで、インスタグラマーというと、企業から依頼された商品を発信して収入を得る、つまりインフルエンサーとして活動するのが一般的かもしれません。実際、1フォロワーにつき1〜5円で収入を得ている方もいる。でも僕は、基本的にそうした仕事は引き受けません。

というのも、純粋に楽しんでいただきたい「媒体」に、愛用してもいない商品の宣伝を載せて稼ぐのは、「ステルスマーケティング(サクラ行為)」のようなものです。そういう稼ぎ方は、性に合わないので。

それで現在は、本の執筆のほか、パリコレなどで体感したことを活かした仕事で生計を立てています。たとえば小さいながらも自身のサービス「ニャン公(Nyan.co)」を立ち上げたり、既存のブランドとコラボした服を発表したり。インスタグラムコンサルやアドバイザーの依頼があれば、お受けしています。

子どもの頃、大好きな祖父が「ポケットモンスター」のキャラクター、フリーザーのぬいぐるみをプレゼントしてくれたのですが、これをシャツの柄にデザインするお仕事もさせていただきました。ほんの少し、祖父に恩返しできたかな? と、嬉しかったですね。

昨年は出身地・佐賀県のご当地アニメ『ゾンビランドサガ』の洋服をデザインしました。その仕事のため、疎遠になっていた地元へ久々に帰省したら、思いのほか、食べ物が美味しくて人が温かくて。郷土愛というのでしょうか、生まれ育った土地の魅力を再発見できたんです。

今後は、新たな仕事にチャレンジしていきたい。たとえば、僕は一流のファッションの現場を生で見て強い刺激を受けましたが、そんな自分の海外での体験を総動員して、洋服・靴・スキンケアのトラベルセットを提供したり。

また、母と子のデザイン教室を開催し、子どものアートを母親の服のデザインに使う試みも。母親が自分の「作品」を身につけ喜んでくれたら、きっと子どもの自己肯定感が高まりますよね。

ただ、いずれもビジネスというよりサービス的に、が希望です。企業と組めば資金面は安心ですが「安い・売れる・大量生産」を強いられる。リスクを背負ってでも、自分のスタイルを貫きたいんです。何より、僕を温かく見守り、支え続けてくれた両親とフォロワーさんに、何らかの形で恩返しがしたいですね。

婦人公論.jp

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