五木寛之「52歳で逝った時代の寵児・森瑤子。ガリガリという氷の塊を噛みくだく音だけが鮮明に耳に残った」

10月26日(火)18時0分 婦人公論.jp


森瑤子(もり・ようこ)
1940年静岡県生まれ。6歳でヴァイオリンを習い始める。63年東京藝術大学器楽科卒業。 78年『情事』で第2回すばる文学賞を受賞し作家デビュー。都会的な作風とライフスタイルが注目され、人気を博す。約15年の活動期間で100冊を超える著作を発表した。93年、がんのため52歳で死去(写真提供=読売新聞社)

作家でありながら「対談の名手」とも言われる五木寛之さんは、数十年の間に才能豊かな女性たちに巡り合ってきました。その一期一会の中から、彼女たちの仕事や業績ではない、語られなかった一面を綴ります。第二回は森瑤子さんです。

* * * * * * *

私は森瑤子という女性を知らない


人は他人の内面を知ることができるのだろうか。

私はできないと思う。

どれほど長くつれそった男女でも、それは同じことだ。

人の心の内側をのぞくことなど誰にもできない。

それにもかかわらず、人が他人のことを書くのは、自分の踊りを踊っているようなものだ。

その相手に対しての解釈という踊りである。

私は森瑤子という女性を知らない。会ったことなら何度もある。雑誌で対談をしたり、個人的な会話をしたりすることはあった。手紙をもらったこともあったし、本を出すたびに贈ってもらったりもした。彼女の書いた作品もいくつか読んでいる。

だが、そんなことは一人の人間の内面を理解したことにはならない。私たちは他人に対して、自分の思いを投影しているだけのことなのだ。

一枚の写真がある。英国の古典的なスポーツカーであるモーガンのボンネットに片手をついて、ほほえんでいる女性と、白いドライビングジャケットを着、ハンティングをかぶった男性の写真だ。彼女は黒い毛皮の帽子を目深にかぶり、ちょっと斜めのほうに視線を向けて微笑している。

彼女は初めての車にモーガンを選んだ


見方によっては金持ちの夫人と、その雇われ運転手にも見えるかもしれない。しかしモーガンは自分で運転する車であって、断じて運転手にハンドルをまかせるタイプの車ではない。それはシャーシに木材が使用されていることでもわかるように、乗り手を選ぶタイプのスポーツカーなのだ。

その女性が森瑤子で、横に立っているのが私である。ずいぶん古い写真だが、ありし日の森瑤子のイメージにぴったりのスナップ写真である。

彼女が車の免許をとり、自分の車を買うという話は本人から聞いていた。いったいどんな車を手に入れるのだろうと興味はあった。

しかし、モーガンとは。

英国人の夫君はイングランド北西部の生まれだと聞いていた。しかし、いわゆるカントリー・ジェントルマンの世界の住人とはちがう。モーガンはオーナーを選ぶ車で、ファッションの小道具ではない。なにしろボンネットを皮のベルトで締めくくってあるような特別の車なのである。

「きみが運転するの?」

「そうです」

「じゃあ、その辺をひと回りしてみよう」

港区のホテルの駐車場を出て、坂を降り、神谷町を右折して飯倉の交差点に出た。出たというより、なんとかたどり着いたという感じだった。坂を降りるときに何度もブレーキを踏むので、車がシャックリをするように身震いする。エンジンブレーキなど用いたこともなさそうな運転ぶりだった。

「横浜までいきます?」

「冗談じゃない」

なんとか駐車場までもどったところで、私は彼女に厳しいことをいろいろ言った。

「この車は家に飾っておいたほうがいいよ」

「そうですね」

彼女はがっしりした手首をしていた


やがて彼女はモーガンを手離し、ミニを経てサーブに乗り替えたと聞いた。これもまた厄介な選択である。スウェーデンでは、ボルボは農婦の車、サーブはインテリの乗る車、などと冗談に言うらしい。ボルボは本当は凄い車なのだが、やたら頑丈だという噂からそんなゴシップが生まれたのだろう。航空機産業と縁のあるサーブは、いわば戦闘機のような車なのだ。

彼女の車遍歴はバンデンプラプリンセスの1300で締めくくられた。

私は一時期、『CAR GRAPHIC』誌で、サーブのパブリシティに協力していたことがある。森さんにはサーブもちょっとちがうかな、と感じたものだった。


サーブ(イメージ:写真提供◎AC)

森瑤子の本名が伊藤雅代であることは、のちに知った。彼女は芸大でヴァイオリンを学んだ音楽家でもあるが、私はヴィオラかチェロのほうがふさわしいような気がした。車も本当はボルボが、それも初期の1225のようなタイプが似合っていると感じていたのだ。

森瑤子は、がっしりした手首をしていた。そこに彼女の本質が表れていたように思う。それは農婦の質朴な手首を思わせる量感と力強さが感じられた。森瑤子の手というより、伊藤雅代にふさわしい手首だった。

ギアをローに入れたままで走っているよう


いちど彼女に招かれて、与論島の別荘にでかけたことがある。数人の作家と編集者が一緒だった。

その家の彼女の書斎の窓から、大きなシュロの葉がしきりに揺れるのが見えた。

「南の島というから、なにかねっとりした眠いような気候を想像してたんだけど」

と、彼女は窓の外の風に揺れるシュロの葉を眺めながら言った。

「一日中、ずっと風が吹いてるんですよ。窓から見えるシュロの葉が、絶えず揺れているのを見ていると、すごく不安になるの」


窓から見えるシュロの木(写真提供◎AC)

流行作家として功成り名遂げた感じの森瑤子が、どこかおどおどした感じで呟いた言葉が、長く私の記憶に残った。

彼女は何が欲しかったのだろうか。私にはそれはわからなかった。ジャーナリズムでの彼女の疾走ぶりは、車のギアをローに入れたままで走っているような感じがした。セカンドに、そしてサードに、と滑らかにギアを変えていく技術は彼女にはなかったのだろう。

森瑤子はたしかに華やかな存在ではあった。そのイメージは、ほとんど完璧だったが、車はローで走り続けるわけにはいかない。しかし、速度に応じて滑らかにシフト・チェンジする技術も、そうする気持ちも、彼女は持っていなかったのだろう。

森瑤子と最後に会ったのは、聖蹟桜ヶ丘のホスピスの一室だった。

彼女が親しかった編集者を通じて、会いたいと言ってきたのだ。

彼女が氷をガリガリと噛みくだくのを眺めた


森瑤子は灰色の病室に独りで横たわっていた。顔色は悪く、かなりむくんだ感じだった。そこにいるのは、死を覚悟して、すべての希望を放棄したひとりの人間だった。彼女は目を見開いて私をみつめ、かすかにうなずくと、シーツから手をさしだして何か言った。

私は彼女が私に握手を求めたのかと思って、手をさしだしかけたが、彼女が指さしたのはベッドの横においてあるバケツだった。そのバケツの中にはカチ割りの氷がぎっしりつまっていた。

「氷を、とって、くださる?」

と、彼女はあえぐように言った。

「一日中、ずっと氷をくわえているの」

私はバケツの氷の一片を彼女に手渡そうとした。すると彼女はかすかに首をふって、

「もっと大きいのを」

と言った。私が氷の塊を手渡すと、彼女はそれを口にくわえ、片頬が大きくふくらんだ。

私は黙って彼女が氷をガリガリと噛みくだくのを眺めた。しばらくして口の中の氷がなくなると、彼女は手をだして、

「もう一つ、お願い」

と言った。その手首が昔とちがって細くなっているのに私は胸を衝かれる思いがした。

伊藤雅代というひとりの人間の姿で病室に


そこにいるのは、森瑤子という作家の姿ではなく、まぎれもなく伊藤雅代というひとりの人間の姿だった。私は何も言うこともなく、しばらく黙ってベッドの横の椅子に坐っていた。病室の窓の外に、風に揺れているシュロの葉が見えるような気がした。

「もう一つ」

と、彼女が細い手をさしだして言った。私はバケツから氷の塊をとりだして彼女に渡した。そのバケツが決して清潔な医療用の容器ではないことが、私には辛かった。学校で掃除のときに使うような普通のバケツだったからである。

しばらくその部屋にいて、何度か氷の塊を手渡すだけで私は部屋を出た。

「お大事に」

などとは言わなかったし、「じゃあ、また」

とも言わなかった。

「しかたがないね」

と、呟くのが精一杯だった。私がそう言って立ち上ると、彼女は「うん」とうなずいて、目をつぶった。

森瑤子についての伝説は沢山ある。『森瑤子の帽子』(島崎今日子著/幻冬舎文庫)のような綿密な伝記もある。戦後日本のバブル期を駆け抜けた時代の寵児、などという惹句もある。また女性のセクシュアリティに迫った現代作家、といった評価もある。

鏡に映ったヒロインではなく、鏡そのものだった


しかし、森瑤子が求めたものは、本当は何だったのだろう。あれこれ思い出すことをつなぎ合わせたところで、ひとりの人間の心の奥底まで理解することなど、誰にもできない。

私は前に書いたように、森瑤子という作家と、生前、数えるくらいしか会っていない。自宅に食事に招かれたり、対談や講演で一緒になったりといった仕事がらみの接点がほとんどだった。

もう何十年もむかしに出した本のなかに、「妖精と魔女の間」という人物論が収められている。その時代に注目された女性たちの人物スケッチである。列挙してみると、

麻生れい子、石岡瑛子、笠井紀美子、杉本エマ、鈴木いづみ、太地喜和子、中川久美、長嶺ヤス子、奈良岡朋子、藤本晴美、マリー・ラフォレ、緑魔子、山口はるみ、吉田日出子、と、その時代を彩ったヒロインたちの名前が数多くあがっている。しかし、そのなかに森瑤子の名前がないのは、どういうわけだろう。自分の仕事でありながら不思議でならない。

思うにそれは森瑤子という存在が、時代の鏡に映ったヒロインではないからではあるまいか。彼女は逆に、時代を映す鏡そのものだったような気がする。

鏡は鏡を映さない。

責任、ということを重く考えていた人


いちど鈴木いづみが自殺したときの話を森瑤子にしたとき、彼女は耳を手でおさえるようにして、

「やめてください。聞きたくない」

と、叫ぶように言った。

「なぜ子供をおいて、そんなことができるの」

森瑤子という人は、責任、ということを重く考えていた人だったような気がする。世の中に出ていくために自分が演じた役割りを、最後まで演じなければならないと、ある時から覚悟をきめていたのだろう。

森瑤子には、どこかシベリアの大地に生きるロシアの農婦のような骨太さがあった。世間に出るために演じた役は、どんなに大変でも最後まできちんと演じ切らなければ、という責任感が彼女の生き方を支えていたのではあるまいか。

彼女は作家としての義務をはたすと同時に、妻として、母としてもその責任をまっとうしようと心に決めていたようにも見えた。

あるとき、彼女の自宅に招かれてディナーをごちそうになった晩、私はいつもの通りトックリのセーターにツイードのジャケットという気楽な格好で出かけた。

その席にもう一人べつの男性客がいた。その人がきちんとした服装で席につくのを見て、私は大いに恥じ入ったものだった。ディナーに招待されるということに慣れていない田舎者である自分に首をすくめる気がしたのだ。

しかし、そんな私を森瑤子はしきりに気をつかって、カジュアルな食事の会に持っていこうと苦心してくれていた。そこには時代を駆け抜けるランナーとしての森瑤子と、まったく別の、田舎のオバさんがいたのである。

しかし、いま思い出すと、あのガリガリという氷の塊を噛みくだく音だけが鮮明に耳に残っている。それは忘れられない音だった。

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