北野武が語る「コロナ時代の閉塞感」との向き合い方

10月26日(月)7時5分 NEWSポストセブン

北野武氏が「生き抜くヒント」を語った

写真を拡大

 バラエティから映画、アート、小説に至るまで幅広い活躍を続ける北野武氏(73)。そんな彼にも、人知れず満たされぬ思いを抱える悶々とした青春時代があった。コロナ禍でいまだ先の見えない状況が続く中、北野氏が語る「閉塞感との向き合い方」とは──。


 * * *

 新型コロナウイルスの感染が拡がってから、どうも社会全体がどんよりした空気に包まれてしまっているね。


 そのせいか、不幸なニュースも続いている。国内の自殺者は7月から3か月連続で前年比増らしい。芸能界でも三浦春馬竹内結子みたいな人気者が自ら命を絶ってしまった。


 竹内さんとは7年くらい前、松本清張原作のドラマ『黒い福音』で共演したんだ。俺が主演の刑事役で、彼女は宗教にのめり込む女性信者という難しい役だった。現場でも感じがよくて、気遣いのできるさっぱりした人だった。「芸能界にこんなスレていない女の子がいるんだな」と感心したよ。


 本当に惜しいことだし、世間が「こんなに綺麗で、幸せな家庭もあるのに何で……」って思うのは当然だ。だけど、忘れちゃいけないのは、それはあくまでも「客観的評価」だってことだよな。この人が、自分の仕事や生活をどう思っていたのかという「主観」の部分は結局誰にもわからない。ネットなんかじゃ「産後うつ」だとか推測されているらしいけど、人間の死ってのは、そんなに単純な理由で割り切れるもんじゃない。


 きっと色々と複雑な要素が積み重なってのことなんで、本人ですら「○○が理由だった」なんて、言葉で簡単に説明できやしないんじゃないかな。


 俺もバイク事故(1994年)で1回死んだようなもんだけど、あの時のことを振り返ろうとしても、正直よく思い出せない。なんでわざわざバイクに乗ったのかすらわからない。だけどその頃の俺が「何のために生きているのか」ってことばかり考えていたのは確かだ。


 仕事は成功してるし、カネだってジャンジャン稼いでるんだけど、まだ映画もゼンゼン評価されていない時期でね。誰に何を言われたわけじゃないけど、「もう才能終わってんのかな」と鬱々としてさ。「どうでもいいや」なんて投げやりな感じは、どこかにあったのかもしれない。


 俺自身、あれから30年近く経っても当時の自分の感情を把握しきれてないんだから、他人の死の理由を推し量ろうなんて無理な話だよ。


 ただひとつ言えるのは、日本の芸能界は「余生」が長くて大変だってことだ。早いうちにスターになっちまうと、そのときの勢いだとか熱量みたいなものを、その後も維持し続けるのは難しい。ちょっとでも油断すると「この先の人生、もう大したことはできないんじゃないか」という恐怖が心を支配し始める。まさにそんな不安が、バイク事故の頃の俺にあったんじゃないかという気がしている。


不完全燃焼の日々で出会った「新宿」


 だけど、さらにさかのぼると、芸人として世に出るまでの俺には全く別の感覚があった。それは、「死ぬのが怖くて怖くてたまらない」という思い──言い換えれば、「何もやり遂げないうちに死んでたまるか」という焦りのようなものだった。


 最近暇があったらいつも小説を書いているんだけど、このたび本になったのが『浅草迄』だ。俺が浅草にたどり着くまで、新宿あたりでブラブラしたり、タクシー運転手やらのアルバイトで食いつないでいた頃を書いている。


 足立区の下町で過ごしたガキの頃や、フランス座で師匠の深見千三郎さんたちと過ごした浅草時代については、いろんなところで話したり書いたりしてきた。だけど、高校から大学にかけて、とくに浅草に行き着くまでの時代は、これまでしっかり話したことがなかった。


 それはやっぱり人生で一番悶々としていた時期だったからだろう。さっき話したように「死ぬのが怖い」と考えていたのが、まさにこの頃だった。


 高校生活は、自分のせいと言ってしまえばそれまでなんだけど、何も考えることなく、ただダラダラと学校に顔を出すだけの日々だった。


 都立高校だからそんなに馬鹿でもないけれど、とはいえ東大京大など国立のいい大学に入った利口な奴は誰もいない。俺は相変わらず勉強そっちのけで遊んでばかりいた。


 じゃあ大好きだった野球に打ち込んだかといえば、そっちも中途半端だった。野球少年の夢といえば甲子園を目指すことだけど、俺の高校の野球部は硬式ではなく軟式で、みんな下手だったし、たいした達成感も思い出もないまま終わってしまった。


 で、その不完全燃焼は大学時代も続いた。


 何とか入った明治の工学部は、俺の時代からお茶の水の駿河台ではなく、神奈川県の生田の新校舎に移っていて、足立区の実家から2時間かけて通わなければならなかった。毎日こんな思いをして学校に通うのかと、初めの一週間で嫌気が差した。


 母ちゃんが「これからの時代はエンジニアだ」というから工学部に入ったけれど、自動車メーカー志望の同級生が教室で話している「○○が開発したエンジンはすごい」なんていう話にはまるで興味が持てなかった。


 普通に仕事をして、給料をもらって、家庭を持って──高度経済成長のこの時代、日本中がみんなそういうステレオタイプな「幸せ」を目指していたし、俺自身も「おふくろ」というフィルターを通して、それを強要されていた。だけど、どうもその流れに馴染めずにいたんだよね。


 そんなとき、何より魅力的に映ったのが「新宿」という街だった。ジャズだったり、寺山修司の天井桟敷や唐十郎の紅テントだったり、横尾忠則の絵だったり……。その時代の新しい文化みたいなものが芽生えてて、ガツンと洗礼を受けた。


 大学に行くには新宿駅で小田急線に乗り換えなきゃいけないんだけど、1年生の夏休みが終わる頃には、ジャズ喫茶に入り浸って、もう新宿より先にはほとんど行かなくなっていた。そこで見聞きする色々な新しいことに影響されては、どこかで聞きかじった浅い知識を蓄える毎日だった。


俺は勇気がなくて、逃げたんだ


 こう話すと、「北野武は新宿で感化されて芸の道を目指すようになった」──そう解釈されるかもしれない。でも、実態はそんなにカッコいいもんじゃなかった。


 当時、ジャズ評論にかかわろうか、それとも映画関係に進もうか、なんて考えたこともあった。新しい文化に触れたいんだったら、唐十郎や寺山修司のところに行ったっていいはずだ。


 結局のところ、俺にはその勇気がなくて、逃げたんだ。憧れだけはあるけれども、実際にアングラ芸術や文化的なものを自分でやれるのかというと話はまるで違う。その一歩を踏み出すことができなかった。


 だけどなぜだろう、行き詰まったときに上野で落語を聴いたり、浅草で演芸を見たりすると、「これなら自分にもできるかもしれない」とイメージができた。それは新宿の文化と違って、自分が生きてきた下町の世界と地続きだって気がしたんだ。


 俺はだいぶ後になって、「浅草」や「漫才」という自分にとって「第一志望じゃなかったもの」を根城にして、映画だとか芸術みたいな分野に攻め込んでいくことになる。あくまで結果論だから、それが正解だったのかはわからない。だけど「急がば回れ」ってことが人生にはあるんだよな。すぐに夢が実現するのが幸せだとは限らない。


 若いときはとくにそうだけど、人間、「一番好きなことができないと、もうお先真っ暗」って考えちまうことも多い。


 だけど仕事の成功っていうのは、あくまでも「他人の評価ありき」であって、一番好きなもの、自分がのめり込めるものでそれを得られるとは限らない。


 もしかしたら「自分が一番好きなこと」じゃなくて、「二番目か三番目に好きなこと」くらいのほうが、自分を客観視できて成功する可能性も高いかもしれないんだよな。


利かなくなったアドリブに、絶望している暇はない


 最近俺はよくピアノを弾いている。もう小学生がやっているのと同じようなレベルでやっている。だけど心の中では、死ぬまでにちゃんとした交響曲を弾いてやろうとか、フジコ・ヘミングみたいな演奏をしてやろうとかそんな野望を持ってるわけ(笑)。


 無理かもしれないことは自分が一番よくわかってるんだけど、それでもやるのが大事なんだよね。「他人からの評価」じゃなく、自分が決めたところに向かっていく。そう考えることができれば、どんな小さなことでも、それだけで「生きていく理由」になるんじゃないか。


 もしかしたら、この歳になって小説を書き出したのも、そういうことなのかもしれない。


 やっぱり歳を取ると、アドリブが利かなくなるんだよ。「このタイミングでコレを言えばウケる」って、自分じゃ「間」も「言うべきこと」も全部わかってるのに、言葉が出てこない。昔、ジャンジャン漫才やってるときは、考える前に言葉がスラスラあらゆる状況で出てきたんだけど、今はそうはいかない。


 だけどそれに絶望している暇はない。文章なら、書き直したり、推敲もできるからね。小説は、そうやってひとつひとつ積み上げていくことができる。今はそれがとにかく楽しいね。

どんなに小さなことだって構わない。そうやって「自分の中でコツコツ積み重ねていくこと」──もしかしたら、それがこんな時代を悲観せず、生き抜くヒントになるんじゃないだろうか。


◆撮影/渡部孝弘

NEWSポストセブン

「北野武」をもっと詳しく

「北野武」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ