昔も今もアイドルであり続ける田原俊彦という生き方

10月28日(日)7時0分 NEWSポストセブン

田原俊彦は今もアイドルであり続けている

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 アイドルは卒業しなければならないのか──。ティーンエイジの頃にデビューし、20代になれば『アイドルからの脱皮』が盛んに求められる。アイドルという職業は期間限定のものなのだろうか。


 そんな世間が持つアイドルのイメージに抗い続けている男がいる。1980年にデビューし、瞬く間にトップアイドルの座へと駆け上がった田原俊彦(57)である。『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の著者で芸能研究家の岡野誠氏が、田原俊彦のこれまでの発言を紐解きながら、“アイドルとは何か”について考察する。


 * * *

「自分しか信じていません……。信じられるのは自分と、負けないぞという気持ち」


 10月14日、静岡・浜北文化センターでのコンサートで、田原俊彦(57)は静かにこう話した。


 田原俊彦──。1980年6月21日に『哀愁でいと』でデビューした彼は瞬く間にトップアイドルに駆け上がり、全国の若い女性を虜にした。


 コンサート会場のみならず、公開収録の『ザ・トップテン』(日本テレビ系)や各局の音楽祭に登場すると、耳をつんざくような大歓声に包まれた。


 一方で、こんな人気がいつまでも続くはずがないと周囲も田原自身も思っていた。1993年10月11日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系) で、デビュー時から知る黒柳徹子を相手にこう語っている。


〈田原:僕だって、(デビューの)あの時は10年持つと思わなかったし。

徹子:見ていた人だってそう思っていたでしょうね。

田原:僕以上に思っていたでしょうね。〉


 アイドル出身ゆえか、周囲の評価は移ろいやすかった。


 1984年、チェッカーズ吉川晃司などの新星が出現。アイドルとしての鮮度が落ち始めてきた頃、こう話している。


〈この世界って冷たいからね。やっぱり、売れてるうちはみんなシッポ振って来るけど、売れなくなったら知らんぷりだから。そりゃそうなんだけどさ、仕事にならないんだから。そのへんは勝負だもん〉(『CanCam』1985年5月号)


 だからこそ、自分を信じる以外なかったのだ。



〈自分でなんとか頑張るしかないんだよ、自分の人生だもん。だれのためでもない、自分のために頑張るんだよ。だから、一線で頑張ってる人っていうのは、どこか一匹狼みたいな精神があるんだと思う。自分しかないんだ…ってね〉(『TOSHI—LAST HERO』1986年9月発行)


 主演ドラマ『教師びんびん物語II』(フジテレビ系)が高視聴率を叩き出し、主題歌『ごめんよ涙』がオリコンや『ザ・ベストテン』で1位に輝いた1989年、デビューからの10年をこう振り返っている。


〈この10年の間、それは壁にブチあたったこともあったよ。でも芸能界をやめようと思うほど重症なもんじゃない。精神的な葛藤はあったけど、それから逃げ出すのはズルイと思う。たたかれても、たたかれても、いつも、いまにみてろよという気持ちになった。自らプレッシャーかけて、そのプレッシャーに打ち勝って頑張ってゆくタイプなんだ。そんな自分、結構スキだよ(笑)〉(『TVガイド』1989年5月19日号)


『教師びんびん物語II』のスタート前には、視聴率30%を目標として公言。実際、最終回で31.0%を記録。フジ『月9』初の快挙であり、見事な有言実行だった。


 盤石な地位を築いたように見えても、田原はまだこう話していた。


〈いつもトップだったわけじゃないけど、平均点のところにはいられた。『一発屋』じゃイヤだから、それなりに汗かいたし。『自分がいつ消えてなくなるか』と、今でも思う。この世界は(将来の)約束がない、ギャンブルみたいなところあるから〉(朝日新聞1990年6月29日付夕刊)


 テレビからいきなり飛び出したように見える田原俊彦というアイドルは、常に売れ続けなければならないという宿命を背負っていたのか。


◆努力を続けても盛者必衰は避けられない


 だが、いつまでもデビュー直後のような人気を永遠に保てるアイドルは存在しない。言い換えれば、人気の下落はアイドルという定義から外れることになる。


 パッと出てきて、パッと散る——。


 それが、アイドルという言葉に含意されている偏見ではないか。その風潮に抗い続けたのが、田原俊彦だったのである。



〈やっぱり自分に負けることが一番悔しいし。向上心はいつも忘れずにいたいしね〉(山梨日日新聞1991年8月14日)


 いくら努力を続けようとも、盛者必衰は避けられない。田原の人気も1990年代に入ると低下していく。1991年の主演ドラマ『次男次女ひとりっ子物語』(TBS系)は、『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)という強力な裏番組の存在もあり、全話平均視聴率10.6%に終わる。


 翌年、雪辱を期す機会が巡ってくる。漫画『課長島耕作』の実写版映画の主演に抜擢されたのだ。根岸吉太郎監督は田原と島耕作の共通点をこう話していた。


〈反骨精神や個性的な部分。いろいろな挫折を味わっても上手く出世していくところ。動物的カンを持ち合わせながら、しかもクレバーで、表面にはクレバーさを出さない点なんか似てますよ〉(『FRIDAY』臨時増刊1992年8月31日号)


 田原と接すれば、内面的な強さや良さが十分理解できる。だが、世間はデビューから12年経っても、「あはははは!」という笑い声に代表される表面上の軽薄なイメージを引きずっていた。田原自身、こう語っていた。


〈イメージっていうのはね、印象にすごく強く残りやすいですからね。僕らみたいな(アイドルという)ポジションの人は特に〉(TBS系『アッコにおまかせ!』1992年9月27日放送)


 公開前にはシリーズ化が検討されていた『課長島耕作』は、1作で終わってしまう。世間の抱く田原俊彦と島耕作のイメージが合致しなかったのかもしれない。


 そして、1994年2月17日の長女誕生記者会見に端を発したマスコミによるバッシングとジャニーズ事務所独立が重なったこともあり、田原をメディアで観る機会は激減した。


 それでも、田原俊彦はめげたり、しょげたりしなかった。


〈場面さえ与えられたら、ぜったいに人には負けないという気概はあります。オレのパフォーマンスは負けないって。もちろん、時代が欲するものと、自分の立場、今の環境というものはあるから、必ずしも、思いと現実のバランスがとれているわけじゃない。でも、「負けないぞ」という気持ちがなくなったら、終わりでしょう。自分を信じ続けないと〉(『婦人公論』2001年9月7日号)


◆何歳になろうと人を幸せな気持ちにさせる表現者


 1980年代に頂点を極めても、1990年代に苦境に陥っても、2000年代にどん底を迎えても、10年代に人気復活の兆しが見えても、田原の精神は何ら変わっていない。



 その背景には、小学1年生の時に父親を亡くして金銭的には苦しい少年時代を送ったことがあるのに加え、偏見を持たれがちな“アイドルという出自”も「負けてたまるか」という反骨心に拍車を掛けたのではないか。


 田原俊彦のライブに行くと、何十年もファンを続けている人たちが沢山いる。子育てを終えて、久しぶりに帰ってきたファンも大勢いる。近年、男性が3割くらい占める会場もある。


 MCでは昔と変わらずに「あははは!」と無邪気に笑うアイドル性を保ちながら、ひとたびイントロが鳴ると真剣な表情に切り替わる。


 57歳で2時間歌って踊る凄味を体感した観客は、公演が終わると「ありがとー!」とステージを去ろうとする男に感謝を口にし、満面の笑みと計り知れない幸福感を抱いて会場を後にする。


 10代だろうが、30代だろうが、50代だろうが、人を幸せな気持ちにさせる表現者は“アイドル”なのだ。


 いつまでもファンの期待に応え続けていれば、何歳だろうと、アイドルと呼べるのではないか。


“アイドルからの脱皮”を図る必要なんてないし、喜んでくれるファンがいる限り、アイドルは永遠にアイドルであり続けるのである。


 アイドルとファンは幸福な関係にある。田原俊彦は事あるごとにコンサートで照れながらも、こう呟く。「みんながいなければ、僕はいないですから」──。


 ファンはこう思っているはずだ。「トシちゃんがいなければ、私はいない」──。


 メディアにバッシングを喰らっても、ファン以外の人から嘲笑されても、田原は変わらずにライブで歌って踊っていた。


 ステージに立てば、暖かく迎え入れてくれるファンが存在する。だが、その状況に甘えてライブの質が低下すれば、ファンは離れていく。良好な関係を壊さないために、田原は努力を続けてきた。


 その根底には、「信じられるのは自分と、負けないぞという気持ち」があるのだ。ライブのMCでそう述べた後、田原は少し恥ずかしそうに、やや小さめの声で会場のファンに告げた。


「(他に信じられるのは)愛する数えられる友達、ステージを一緒にやる仲間、(ファンの)みんなです」

NEWSポストセブン

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