田中角栄・21歳の二等兵時代──「空白の2年間」が明らかに

10月31日(水)7時0分 NEWSポストセブン

波乱の人生を送った田中角栄(時事通信フォト)

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 新潟の貧農から総理大臣へと成り上がった田中角栄は、やがてロッキード事件などのスキャンダルに塗れ波瀾万丈の人生を終えた(1993年没、75歳)。その生涯は近年の“再評価ブーム”の中で様々な視点から伝えられてきたが、誰もが知るその歴史に「空白の2年間」がある。徴兵で満州に動員されていた時期について、角栄は生前ほとんど語らなかったという。当時の秘話が、ある写真とともに明らかになる。


◆「満州の写真を持っている」


『戦場の田中角栄』(馬弓良彦著、毎日ワンズ刊)が異色のベストセラーとなっている。“戦場”と“田中角栄”という奇妙な取り合わせだが、比喩で“戦場”という言葉を使っているのではない。あまり知られていないが、角栄は徴兵で出征し、騎兵部隊の二等兵として満州に赴任していた。同書にはその時代の角栄が描かれている。


 出版した毎日ワンズ社長の松藤竹二郎氏はこう語る。


「書いたのは長く毎日新聞で角栄番を務めていた記者ですが、すでに鬼籍に入っている。実は7年前に単行本として刊行したものを、角栄の生誕100年に合わせて新書として再発刊したんです。発売1か月あまりで第7刷まで増刷となり、売れ行きに驚いています。戦場での角栄のエピソードはこれまでほとんど知られてこなかっただけに、新鮮だったのかもしれません」


 ヒットの兆候を感じ、新聞各紙に大きな広告を掲載した。すると、しばらくして、一人の女性から編集部に電話がかかってきた。



「『満州時代の角栄の写真を持っている』とおっしゃるのでびっくりしたんです。というのも、本を出すときにずいぶん探しましたが、はっきり戦地と分かる場面で軍服を着た写真はなかったからです」(前出・松藤氏)


 女性は小野澤惠美子さん。4年前に96歳で他界した父の小野澤冨士氏は、満州にあった陸軍騎兵隊の内務班で角栄と一緒に勤務していたという。


◆アンパンを盗みに来た


 惠美子さんに話を聞いた。


「1か月ほど前に、新聞を読んでいたら、『戦場の田中角栄』の広告が出ていたんです。そこに『ノモンハン戦』の文字があったので、すぐに娘に書店に買いに行かせて、一晩で一気に読み切りました。父は生前、酔うたびに、満州にいた頃の田中角栄さんの話をしていましたが、本当だったんだなと思いました」


 そして1枚の写真を取りだした。およそ100人くらいの日本兵が写ったセピア色の集合写真。そのなかの一人に小さな丸印がついている。


「この人が角栄さんです。父が写真に書き込んでしまったんです(笑い)」(前出・惠美子さん)


 この写真は、ノモンハン事件(*)停戦後の昭和14年10月25日に、日本軍の前線基地・ハイラル(現・中国内モンゴル自治区)で撮影されたものだという。この時、角栄は21歳だった。


【*1939年5〜9月にかけて、満蒙国境で起きた日ソの軍事衝突。日本軍は壊滅的な被害を受け停戦に至った】



「父は終戦1年後に帰国しましたが、引き揚げる間もこの写真を肌身離さず隠し持ち、戦後も押し入れに大切にしまい、家族以外には見せようとしませんでした。一緒に写っている多くの戦友が戦地で亡くなられたからだったのでしょう」(前出・惠美子さん)


 生きて終戦を迎えた戦友も、すでに80年近く経っているので、今や存命者は少ない。惠美子さんは、むしろ供養になると思い、公開を決意したという。


 小野澤冨士氏は大正7年、群馬県に生まれた。幼い頃から馬に乗り慣れていたので、昭和14年1月に徴兵されたときに宇都宮騎兵第18連隊に配属された。その後、満州国富錦にあった陸軍第3旅団騎兵第23連隊に転属している。


 一方の角栄も同じ大正7年生まれ。父親が競馬馬の育成に入れ込んでいたためやはり乗馬が得意で、徴兵により、昭和14年4月に満州国富錦の騎兵第24連隊に入隊した。


 小野澤氏があとから同じ内務班に配属されて合流する形になったが、すでに実戦経験のあった小野澤氏は伍長、角栄は二等兵という立場だった。


『戦場の田中角栄』には、満州での角栄は決して模範兵ではなく、こっそり夜中に仲間と酒盛りをしたり、立哨をサボったりで、曹長や伍長ら上官からしょっちゅう殴られていたと書かれている。


「父の話では、要領がよくて、憎めない人だったそうです。調子がいいんだけど、まっすぐな青年だったと。『夜中にアンパンを盗みに来てみつかったときも、オレがかばってやった』『オレは田中を一度もぶったことがねえ』というのが、酔ったときの父の口癖でしたね」(惠美子さん)



 角栄はいつも鼻歌を歌い、人を笑わせる話をして、隊では人気者だったという。


 当時はノモンハン事件の激戦のさなかで、部隊では古兵から順に前線に送られていた。日本軍は、航空戦では優位に立っていたが、地上戦ではソ連軍に大きな劣勢を強いられていた。そんななかでも飄々としている角栄を上官らが苦々しく思ったのは容易に想像がつくが、なぜか小野澤氏は角栄をいたく気に入ったようなのだ。


 角栄は調子がいいだけの男ではなかった。


 部隊の教育計画書が連隊本部から突き返され、2日で修正と清書をしなければならなくなったときに、切羽詰まった中隊長は、建築家の角栄に頼み込んだ。角栄は上官らをアゴで使いながら1日で仕上げ、窮地を救ったというエピソードが『戦場の田中角栄』に紹介されている。この一件で、上官らの角栄に対する態度が一変したという。


 角栄は結局、ノモンハン戦線に送られることなく、昭和14年9月16日、ソ連軍との停戦が成立。命拾いしたが、その後15年11月、角栄は営庭で突然倒れた。クルップ性肺炎と診断され、内地に送還。戦病兵として除隊となった。


 一方、小野澤氏は北満州に残り、終戦まで前線で戦った。満州からシベリアへ抑留された日本兵は多かったが、幸運にも抑留を免がれ、1年後の昭和21年7月に復員した。


◆「オレの秘書になってくれよ」



 帰国後、小野澤氏は郵政省に入省し、事務官となる。


 それからおよそ10年後、昭和32年7月のある日、第一次岸信介内閣で戦後初めて30代で大臣に就任した若手代議士が、郵政省の講堂で就任挨拶をしていた。小野澤氏は独特のダミ声と話し方に耳を奪われた。どこかで聞いた声、見覚えのある顔。降壇する若い大臣に、小野澤氏は駆け寄った。


「オイ、田中二等兵じゃないか!」

「あっ! 小野澤伍長」


 およそ15年ぶりの再会に、お互い相好を崩し、喜び合ったが、その場で角栄は「オレの秘書になってくれよ」と頼んだという。その一声で、小野澤氏は、郵政大臣の秘書に抜擢されることになった。


 自分を一度も殴ったことがなく、かばってくれた恩人を角栄は覚えていたのだ。


「二人で靖国神社に参拝したこともあったようです。父は、角栄さんに『昔はオレのほうが偉かったが、今はお前のほうが偉くなったなあ』と言って、二人でよく笑ったと話していました」(惠美子さん)


 その当時、角栄から贈られたのが、直筆の「和を以て貴しと為す」の書。今も惠美子さんが大切に保管している。


 角栄が郵政大臣を務めていたのは1年ほどで、その後、出世街道をどんどん登り詰めていく。小野澤氏は70歳まで郵政省に勤めた。


 その間に、角栄は総理大臣になり、ロッキード事件が起き、一審・二審で有罪判決。政界引退を余儀なくされ、刑事被告人のまま平成5年に世を去った。



「ロッキード事件で大騒ぎだった頃も、父は角栄さんについて何も話さなかったので、どういう思いだったのかはわかりません。角栄さんが亡くなられたときは葬式にも出ましたが、そのあと1年くらい落ち込んでいました」(惠美子さん)


 小野澤氏にとって角栄は政治家ではなく、“戦友”だったのだろう。


◆絶対に戦争はやらない


 これまで、戦地での田中角栄については、ほとんど語られてこなかった。それは本人が口をつぐんでいたからでもある。


 角栄の秘書を務めた後、政治家になった元自治大臣の石井一氏はこういう。


「私は田中角栄と一番長く話をした議員だったと思う。ロッキード事件についてもアメリカで調査して、報告していたから、ずいぶん長く話した。だが、田中さんから戦地に行っていた頃の話は、ほとんど聞かなかった。唯一聞いたのは、騎馬連隊に配属され、『荒馬に当たって、馬から放り出された』という話くらい。いい思い出がなかったんでしょう。だから、戦争は嫌いだったよ。田中さんは基本的にハト派だったからね」


 戦争体験があったからハト派になったという見方には、ジャーナリストの田原総一朗氏も同意する。



「角さんとは何度も話したが、彼は『戦争を体験している人間が政治をやっている間は、絶対に戦争はやらない。大丈夫だ』と言っていた。角さんは“汚れたハト派”と呼ばれたが、実際は本物のハト派だった。戦争体験のない世代というと、小沢一郎あたりからだけど、彼ぐらいまでは角さんの思いを完全に引き継いでいる。角さんの戦争体験が、今の自民党のハト派をつくったと言ってもいいと思う」


 果たして今後の自民党に、どれだけその思想は受け継がれていくのだろうか。


※週刊ポスト2018年11月9日号

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