ピエール瀧逮捕で助成金取り消しの『宮本から君へ』 「公益性」というあやふやワードを考える

11月2日(土)6時0分 文春オンライン

 現在公開中の映画『宮本から君へ』に対し、文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」からの助成金「芸術文化振興基金」の交付が内定していたにも関わらず、7月に交付が取り消されていたことが先日明らかになった。


 交付は3月に内定していたが、出演者のひとりであるピエール瀧が麻薬取締法違反容疑で逮捕され、7月に有罪判決を受けたことを受け、「公益性の観点から適当ではない」という理由で内定取り消しとなったという。



ピエール瀧 ©文藝春秋


 「国が薬物を容認しているかのような誤ったメッセージを与える恐れがあると判断した」というのが振興会の言い分らしいが、つまるところ彼らは、薬物犯罪を犯した人間が出演する映画に助成金を出すことは「公益」=公共の利益には繋がらない、という判断をしたと言っていいだろう。


 だが、そもそも『宮本から君へ』は、「公益性」というこのいまいち具体性に欠けた言葉にそぐう内容を持った映画なのだろうか?


 結論から言うと、本作はその制作や鑑賞が、「日本芸術文化振興会」が言うような「公益性」に直結する、「正しい」映画ではないとわたしは考える。この映画は、「公益」ということばの対義語である「私益」を限界まで煮詰めていった先に何があるのかを考えるような、「正しくない」作品である。だがそこにこそ、この物語が持つ可能性がある。


 この映画はそれこそ、言い訳のように「公益」ということばが持ち出されることに、おためごかしのように「みんなのため」という意味の言葉が持ち出されることに、ケンカを売るような作品なのだ。


過酷で苛烈なエピソードが続く


 本作は1990年から1994年にかけて講談社「モーニング」に連載された新井英樹の漫画『宮本から君へ』の、2018年の連続ドラマ化に続く映像化作品である。原作後半部分の物語をベースに映画化した形となっており、過酷で苛烈なエピソードが展開される。





 主人公である宮本浩と、その恋人である中野靖子のふたりを中心に映画は展開し、二人と真淵拓馬というキャラクターとの間に起きる事件が、物語の大きなキーになっている。その事件とは、宮本の取引先の人間の息子である拓馬が、宴席で出会った宮本と靖子を彼らの自宅に送り届けた後、泥酔して眠ってしまった宮本の横で靖子を暴行する…という衝撃的なものだ。この出来事を境として、物語が大きく動いていく。



 こうした形で展開される本作品が持つ「正しくなさ」とは何か? 靖子を暴行する拓馬、そして描かれるその暴力そのものはもちろん、「正しくない」存在であり行為である。だが、実は主人公である宮本は、ある意味で拓馬以上に「正しくない」存在なのだ。どういうことか。彼はどんな出来事が起きても徹底的に、他者のためではなく、自分自身のためだけにしか行動しないのである。



主人公が選んだ解決策は、「すごい俺」になることだった


 宮本は拓馬にケンカを挑み、最終的に勝利する。ボロボロにした拓馬を連れて靖子の前に現れ、「俺の人生はバラ色で、このすごい俺がお前も生まれてくる子供も幸せにしてやる」と宣言する。宮本は靖子のためではなく、自分自身を完全に肯定し切るためにこそ、拓馬を打ち負かしたのだ。


 宮本は、愛する人が犯され、悲しみの底に叩き落されても、それでもその人のためには行動しない。彼はもがき苦しみながら自分のためだけにケンカをし、自分のためだけに幸せになろうとする。「すごい俺」になることだけが唯一、靖子や生まれてくる子どもと共に生きていく方法だという、ナルシシズムと表裏一体の深い諦観がそこにはある。


「力を合わせるなんてケチケチしたこと言わねえ 俺がいれば十分だ」と靖子に言う宮本は、男性的な傲慢さという限界を超えることはできていないが、他者と本当の意味で分かり合うことの不可能性は知っている。


 物語終盤で生まれてくる宮本と靖子の子どもも、父親が宮本なのか靖子の元恋人である裕二なのか、生まれてくるまで分からない。そのことまで全部背負って、宮本と靖子は親になろうとするが、無論そのことも彼ら自身の勝手な意志でしかない。宮本だけでなく、登場人物の誰もが、完全には「正しい」振る舞いをできないことに苛まれながら生きている。



自分勝手な人間同士が、共に生きる道を模索した先に


 この物語のなかでは誰もがお互いに徹底的に「他者」であり、その「他者」同士がそれでも何とか共に生きていくためにもがき苦しむ光景が描かれる。究極的には「私益」を生きることしかできない、人間という存在の寂しさと不可能性が折り重なっていく光景がひたすらに描かれる。そしてそこにこそ、人間ひとりひとりの存在が前提となった公共性への萌芽があるようにわたしには思える。



 「日本芸術文化振興会」は実質的に、「お上」の立場から「公益」という言葉を持ち出した。これは、「公益」とは一体どういうものなのかを、「お上」の彼らが決定・判断できると言っているに等しい。表現の「正しい」在り方は彼らが決める、と言っているようなものだ。


 しかし言うまでもなく、公共性の在り方というものは、権力の側がその形を規定していくべきものではない。そこで生きる人間ひとりひとりの存在がまず前提となって形作られていくものこそが、公共性であるべきだ。


靖子にはまた別の生き方もあり得たのではないか


 原作の物語を忠実に映画化した本作の出来映えに、わたしは不満が無いわけではない。特に、拓馬を打ち負かした宮本を靖子が受け入れる、というプロセスに関しては、原作とは別の形で物語を語り直し得る可能性があったのではないかと感じる。


 原作には、「他者」としての靖子を必死に描こうとしつつも、最後の一線で彼女に「赦してもらう」ことに甘えてしまっている部分がある。「女」という規定や範疇に靖子を押し込めることに抵抗し、人間としての彼女に向き合おうとしながら、それでもどこかで彼女の「赦し」に頼ってしまった部分がある。そのことに自覚的な漫画作品ではあるが、それは別に自覚的であれば許される語りではない。




 ジェンダーロールが今よりも更に差別的規範として強力に機能していた1990年代前半の日本の漫画作品としては、『宮本から君へ』は必死に努力して靖子をひとりの人間として描こうとしていたと思う。だが2019年の映画作品としての『宮本から君へ』には、その点について更に挑戦してほしかったというのが、わたしの正直な感想だ。靖子の「赦し」がなくとも、靖子がもっともっと身勝手に、「正しくない」生き方をしたとしても、人々がバラバラのまま共に生きることのできる世界はあってほしいと、どうしてもわたしは思ってしまう。


「みんな」という言葉によって、個人がかき消されることに抗う


 「公」、「みんな」、そういうことばが持ち出されるとき往々にして、そこで実際に生きている人々ひとりひとりの顔は忘れられがちだ。この映画は、(不十分な部分はあるにせよ)そのことに全力で抗おうとする作品であり、そして同時にその抗いの萌芽を描いたに過ぎない作品でもある。


 ラストシーン、無事に子どもを出産した靖子と、彼女を運ぶ救急車を見送る宮本は、「みんな」というひとかたまりにならないまま、それでも個々人が共に生きる世界をつくっていけるかどうかを、これから本当に試されることになる。そして、理由はどうあれ「お上」から「公益性の観点から適当ではない」と烙印を押されたこの映画を観ているわたしたちもまた、そのことを試されているのである。



(コメカ)

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