『弘田三枝子 なかにし礼をうたう 〜人形の家〜』は偉大なる音楽たちが残した邦楽ポップスの歴史的遺産

2021年11月3日(水)18時0分 OKMusic

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以下、本編でも書いたが、11月3日に『ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』のLP盤が復刻されるとあって、弘田三枝子を紹介する。山下達郎桑田佳祐らが彼女の逝去に際してその才能を湛えたコメントを送ったことでも分かる通り、現在の日本のポップシーンの礎を作ったと言っても過言ではないほどの伝説的シンガー。音源に遺るその歌声からは、今聴いてもその才能を如何なく感じさせるものだ。

「人形の家」が大ヒット

『ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』のアナログ盤が発売されるとあって、当初、今週は『ニューヨークの〜』を紹介しようと考えていた。実に落ち着きのあるサウンドに、時にしっとりと、時に彼女の特徴であると言えるパンチの効いた歌声を乗せた、文字通りのニューヨーク録音のライヴ盤だ。レコーディングされた1965年に未だ18歳だったとはとても思えないほどに完成されたヴォーカルは、もはや驚異的であり、名盤も名盤、素晴らしいのひと言に尽きる。とりわけラストの「フライング・ホーム」で聴かせるスキャットは圧巻で、音楽ファンの義務として是非お聴きいただきたい代物ある。今やサブスクでも聴けるので、まずはお気軽にお試しを。

話を戻すと、その『ニューヨークの〜』を聴きながら、そうは言っても自分自身は弘田三枝子のことを詳しく知っているわけでもなく、せいぜい“Connie Francis「Vacation」やThe Ronettes「Be My Baby」のカバーがあったな”とぼんやりと思う程度であったので、彼女のプロフィールやら何やらを調べていると、彼女の代表曲と言っていい「人形の家」を手掛けた作曲家・川口真氏が10月20日に亡くなられていたことを知った。弘田三枝子自身は2020年7月に、「人形の家」の作詞家である、なかにし礼は同年12月に逝去されている。筆者は“昭和は遠くなりにけり…”と嘆くほどの昭和世代ではないのだが、相次いで鬼籍に入ったことを思うと、ちょっと感傷的にはなる。そんなところで、今年2月にこの『弘田三枝子 なかにし礼をうたう 〜人形の家〜』が発売されていたことも知った。収録曲を見てみると、15曲中10曲が川口氏作曲のナンバーである。このアルバムは3人の偉大な音楽家を偲ぶに相応しい邦楽史の遺産と言ってよかろう。当コラムは2010年代以降の作品を取り上げることが皆無で、ベスト盤を取り上げることもほとんどないが、今週は特例としてこのアルバムを解説してみることにした。

本作のオープニングは、アルバムタイトル通り…と言うべきか、M1「人形の家」。1969年の発売当時チャート1位を獲得し、100万枚を超える大ヒットを記録した楽曲ではあるものの、それも半世紀前のことである。耳馴染みのない人も多かろう。歌詞はこんな内容である。

《顔もみたくない程/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない/愛が消えたいまも》《ほこりにまみれた人形みたい/愛されて 捨てられて/忘れられた 部屋のかたすみ/私はあなたに 命をあずけた》(M1「人形の家」)。

悲恋であることは間違いなく、そこからの情念を強く感じる歌詞である。言葉だけでもかなりショッキングだが、メロディー、サウンドがそれに拍車をかけている印象だ。歌の出だし《顔もみたくない程》辺りは淡々と…いうか、落ち着いた感じで始まり、《ほこりにまみれた人形みたい》から(ここがいわゆるBメロであろうか)はパッと聴き、ストリングスの鳴りがここから大きく盛り上がるかのように見せつつも、歌のメロディーはそれほどでもなく、前半を踏襲する感じで派手な抑揚なく進む。そして、《私はあなたに 命をあずけた》の箇所(サビ?)に到達すると、しっかりと地に足の着いた感じの旋律がラストに向かって伸びていく。最近のコンテポラリR&Bのような起伏があるわけでなく、生真面目な音符配列といった印象があるけれども、このセクションはサウンドの緊張感が実にいい。とりわけBメロからのストリングスに絡むリズム隊には得も言えぬがスリリングさがある。誤解を恐れずに言えば、この箇所はとてもロックな感じがする。おそらく川口氏が作ったメロディーに、なかにし氏が歌詞を付け、そこから川口氏が編曲したのではないかと想像するが、いずれも感情が昂る様子を丁寧に描写していることは疑うまでもない。そして、言うまでもなく、弘田三枝子の歌唱力がそこに拍車をかけることで、「人形の家」の世界観が完成している。前半はドスが効いた感じ…とは極端な物言いになるが、低音がちゃんと出ていて存在感がある。ボトムがしっかりしていると言い換えてもいいだろうか。だからこそ、後半で旋律が伸びていく感じが強調されるのだろうし、歌詞の情念がくっきりと映し出されているようにも思う。あと、その声質には明らかに可愛さしさも残っており、それを感じさせるから、悲恋も際立っているのだろう。「人形の家」がヒットした当時、[コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという]が、いやいや、どうして、この迫力は生半可ではない([]はWikipediaからの引用)。それは今もはっきりと確認できる。

M2「あなたがいなくても」はシングル「人形の家」のB面だったナンバー。ブラスセクションにソウルを感じるリズム&ブルースである。ギターのカッティングもいい感じだし、間奏、アウトロのエレキの旋律はほとんどロックのそれだ。モコモコとサウンド全体を支えるベースラインも独特の躍動感を出している。ヴォーカルの優秀さは言うまでもない。どこかあっけらかんとした歌い方ながら、ブレスを強調するなど、随所々々で巧みなパフォーマンスが垣間見えるし、スキャットはエモーショナルでパンチが効いている。注目したのは歌詞。こんな内容だ。

《あなたがいなくても 私は生きてゆく/ああ 恋が消えて 悲しみがつのるけど/あなたがいなくても 私は生きてゆく/ああ 時がたてば 思い出も消えるから》《忘れよう つらい恋など/忘れてみれば 過ぎたことよ/泣かないで 泣かないで/私の心》《あなたがいなくても 私は生きてゆく/ああ 一人ぽっち 幸せになれないけど》(M2「あなたがいなくても」)。

悲恋は悲恋だが、「人形の家」ほどに閉塞感はない。そこにある情念の分量で言えば、「人形の家」の対極にあると言ってもいい印象だ。シングルA面では情念たっぷりの静かなる恨み節を綴りながら、そのB面ではポップでありながらもそこに数パーセントの悲哀成分を注入。この辺は、数々の恋愛模様を描いてきた稀代の作詞家の確かな仕事っぷりと見ることができよう。もちろん、そは川口氏のコンポーズとアレンジ能力があってのことだし、弘田三枝子が歌うことを前提としていたからであるのは、ここで改めて言うことでもないだろう。

筒美京平、馬飼野康二も参加

シングル「人形の家」の大ヒットを受けて、次作シングルもなかにし・川口コンビが手掛けることになったのだろう。M3「私が死んだら」、M4「鏡の中の天使」がそれである(M3がA面で、M4がB面)。中身も凡そ「人形の家」の路線を踏襲したようだ。《あなただけを愛し/あなただけに生きて/そして死んだ私だけど/可愛い女だと 可愛い女だと/思ってくれるかしら》(M3「私が死んだら」)といった歌詞にはやはり情念深さを感じるし、B面では《あなたのその愛で 私はよみがえる/名もない子供のように 私は生まれてくる》と、対極というか、輪廻みたいな歌詞になっている。また、M3では後半に進むに従ってサウンドの迫力が増しているし、M4のアウトロでの♪ラララ〜でもパフォーマンスの巧みさなど、作品としてのスタイルが似ている。異なるのはM4のフォーキーさ。ジャズやリズム&ブルースの印象からすると意外な感じもするが、“こういう大衆的な歌い方もできるのか”という新鮮な発見(?)もあった。

M5「燃える手」、M6「鍵を捨てたの」は「私が死んだら」に続くシングルで、こちらは共に筒美京平が手掛けている。イントロと1番と2番とつなぐブリッジの部分にしっかりキャッチーなメロディーを持って来ている辺りは如何にも筒美京平らしく(特にM5)、“THE昭和歌謡”といった雰囲気ではある。M5の《私の手が 手が》や《たえる私の そばにいて》の箇所の歌唱はさすがだし、M6《笑わないで 笑わないで この私を》《さよならなど 言わないでほしい》で見せるシアトリカルな部分からは弘田三枝子のシンガーとしての多彩な表現力をうかがわせる。サウンド面ではM6がおもしろい。ジャズっぽいリズムが左から聴こえてくる音響処理は(決して引いている意味ではなく)どうしてこうなっているのだろうと思うが、その不思議さがまた魅力となっている(歌詞もちょっと不思議だし…)。

その「燃える手」に続くシングルが、どこかオリエンタルなM7「ロダンの肖像」と、フォーキーなM8「恋愛専科」で、再びなかにし&川口コンビによるものだ。ここはまずM7のザラ付いた音がカッコ良い。ストリングスもピアノも何とも言えないニュアンスを醸し出している。楽曲全体に躍動感を与えているベースラインもいい感じだ。M8では、アコギのアンサンブルにエレピが重なった上をフルートの音色が彩っている。この辺は作曲もさることながら、川口氏のアレンジ力を確認できるところかもしれない。《ロダンの彫刻のように/あなたにいだかれたままで/死んで石になって 愛されていたいの》(M7「ロダンの肖像」)は「人形の家」を引きずっている気がしなくもないけれど、《あれから この私変なの/鏡みるたびに きれいになるの》(M8「恋愛専科」)の可愛らしいフレーズを見ると、“女性の喜怒哀楽をちゃんと掴んでいるものだなぁ”と大作家の懐の深さを感じざるを得ないところではある。

M9「蝶の雨」&M10「ひとりぼっちの海」は馬飼野康二の作編曲。ともに川口氏とも筒美氏とも印象が異なるのは当たり前として、個人的にはここに収録された他曲以上に昭和チックな印象で、逆に言えば、彼女が何でも器用に歌いこなすシンガーであることが分かる2曲であるとも言えるだろう。

なかにし・川口が手掛けた未発表曲

M11「砂の上のひめごと」は中島安敏氏の作編曲で、1966年のシングル「愛のゴーゴー」のB面だったナンバー。ハワイアンテイストというか、誤解を恐れずに言えば、当時の加山雄三的なサウンドで、時代性を感じるところ。歌い方もセクシーさを前面に出しているようで、面白いと言えば面白いが、本作で最も興味深いのは、M12「ロダンの肖像(別アレンジ)」を挟んで続く、M13「裁かれる女」とM14「愛の翼」だろう。M13はシングル「ロダンの肖像」と同じ日にレコーディングされつつもリリースされず、未発表曲のままになっていたものだという。Bメロ辺りにはシャンソンの雰囲気もあって、迫力のある歌唱を確認できる。歌詞がなかなかエグい。お蔵入りになったのはここに要因があったのではないかと少し思うほどに…。

《さげすむまなざし 重たい十字架を/背中に受けてひとり さまよう私/何のために 生きればいいの/子供らに石で追われ/何のために生きる 何のために/消えないインクで 額に記された/愛という名の文字を 削った人はあなた》(M13「裁かれる女」)。

思わず“何があった!?”と詰め寄ってしまいそうな歌詞だが、他に比類なきというところでは、やはりなかにし氏の作家性を感じるところではある。M14は、2001年に発売されたCD6枚組のベスト盤『弘田三枝子・これくしょん〜マイ・メモリィ』で初収録されたという楽曲。前半は「テイク・ファイブ」的な変則的なリズムで進んだと思いきや、そこから開放的なメロディーへと展開していく、どこか歌劇的なスタイルが面白い。「人形の家」とはタイプが異なるが、後半どんどんエモーショナルになるリズム隊は健在で、これもまたどうしてしばらくお蔵入りになっていたのか、その経緯が単純に不思議なところだ。この2曲、特にM13が収録されただけでも、本作の制作の意味は十分にあったと思うし、弘田三枝子という稀代の女性シンガーの一線級の資料として、日本コロムビアの仕事は素晴らしいと思う。

本作ラストはM15「人形の家(ピアノ・バージョン)」。2015年に発表されたシングル「悲しい恋をしてきたの」のカップリングとなったもので、ジャジーなピアノサウンドをバックにしたリテイクだ。あくまでも個人的な感想と前置きしておくが、このM15バージョンは迫力を通り越して生々しさすら感じる。もしかすると彼女の歌唱は日本語とはあまり相性が良くないのかもしれない──そんなことを少し思った。母音が多い分、圧しが強くなりすぎるのかもしれないし、歌詞の意味を深く噛み締めると歌に別のニュアンスが出てくるのかもしれない。実際のところ、どうかは分からないけれども、『ニューヨークの〜』と聴き比べると、M15に関しては何となく窮屈な印象を受けた。それは、弘田三枝子というシンガーの才能が日本だけに留まるものではなかったことの証左なのかもしれないと想像したのだが、その辺は実際どうなのだろうか?

TEXT:帆苅智之

アルバム『弘田三枝子 なかにし礼をうたう 〜人形の家〜』

2021年発表作品

1.人形の家
2.あなたがいなくても
3.私が死んだら
4.鏡の中の天使
5.燃える手
6.鍵を捨てたの
7.ロダンの肖像
8.恋愛専科
9.蝶の雨
10.ひとりぼっちの海
11.砂の上のひめごと
12.ロダンの肖像(別アレンジ)
13.裁かれる女
14.愛の翼
15.人形の家(ピアノ・バージョン)

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