【映画と仕事 vol.5】「逃げ恥」「アンナチュラル」の脚本家・野木亜紀子が生み出す高い“密度” 映画『罪の声』で原作にない創作シーンをあえて入れた意図は?

2020年11月6日(金)7時45分 シネマカフェ

野木亜紀子

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社会現象とも言える盛り上がりを見せた「逃げ恥」こと「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS系)や原作ファンから絶大な支持を集めた映画『図書館戦争』シリーズ、「アンナチュラル」「MIU404」(TBS系)など、原作もの、オリジナル脚本を問わず、 次々と話題作を生み出す脚本家・野木亜紀子。

人気のマンガや小説の映像化の企画が多くを占める昨今のエンタメ業界ですが、原作のイメージを損なうとたちまち炎上しかねない状況で、野木さんの作品が称賛を集めるのはなぜなのか? オリジナルの作品が多くの視聴者の心を鷲掴みにするのはどうしてなのか——?

「映画お仕事図鑑」第5回目は、2016年の「週刊文春」ミステリーベスト10で第1位を獲得するなど高い評価を得た塩田武士の同名小説を原作とした映画『罪の声』の脚本執筆についてお話を伺いつつ、野木さんの創作の裏側に迫ります!

本作は、誘拐、脅迫、そして毒物混入などで世間を震撼させるも、犯人逮捕に至らぬまま幕を閉じた昭和の未解決事件の真相を描くサスペンス。脅迫に使われたテープの声の主が子どもの頃の自分だと気づいた曽根俊也(星野源)と時効となった同事件を追う大日新聞の記者・阿久津英士(小栗旬)という2人の男性が事件の真実を追いかける。


作品の“密度”を高めるために大事なこととは?
——塩田武士さんが、実際に起きた昭和の未解決事件を題材に書いた小説「罪の声」ですが、最初に同作の映画化の脚本執筆というオファーが届いて、原作 を読んだ際の印象をお聞かせください。

事件の脅迫テープの声に使われた子どもの存在というのは盲点で、よくそこに気づいて小説を書かれたなと思いました。未解決事件——例えば「三億円事件」などは、これまでも手を変え品を変え何度も映像化されていますが、この事件の脅迫テープで使われた子どもの声というのは、三十数年、誰も着目してこなかったわけで、それはすごいなと。


——原作は事件の真相についてはもちろん、阿久津と俊也という2人の主人公が背負っているものや家族の存在、俊也と同様に事件に関わった人々の人生など、ものすごい情報量を持った小説です。映画用の脚本を執筆する上で軸とした部分、大切にされた部分は?

実際の事件をモチーフにしているので、事実として判明している部分は変えない方がいいなと思いました。その部分を変えず、いかに映画の枠に収まるように尺を削っていくか。

原作には「そんなことがあったのか!」という事実や、警察内部の動きで「こうなっていたから、こんなことが起きたのか」となるほどと思わされる部分も多かったのですが、それを描いていると警察ドラマになってしまうので、面白さを感じつつも断腸の思いで、削るべき部分は割り切って落としていきました。

映画としてはとにかく、脅迫テープの声に使われた子どもたちの存在——そこに焦点を当てることに専念しました。


——小栗さん演じる阿久津と星野さんが演じる俊也。2人の主人公の人物像については、どのように?

新聞記者である阿久津英士とテーラーである曽根俊也。2人の男を短い尺の中でどう表現するか。映画の中で、彼らを表すのにそこまで時間を使えない中で、それぞれの個性や違い、彼らの気持ちが近づいていく部分——この作品はバディムービーでもあるので、事件に関する描写と並行して彼らの想いをどう描いていくかに心を砕きました。

——俊也と阿久津が初めて顔を合わせるシーン。原作では2人だけのシーンですが、映画ではそこに俊也の妻・亜美(市川実日子)と娘の詩織が来る。そして阿久津が詩織に言葉をかける。わざわざこのやりとりを入れた意図は?


阿久津というのは社会部で事件記者をやっている自分に嫌気がさして、文化部に行った人間で、つまり“優しい”人間なんですよね。そういう人がああいう状況でどうするか?

また、俊也がその後、事件のことを阿久津に話す気になったのはなぜなのか? かつての社会部の阿久津であれば、話さなかったかもしれないし、あそこでああいうことができる阿久津だからこそ話したという“必然”がほしかったんです。たまたまそこにいたからではなく、この2人が出会ったから生まれる“何か”が必要だなと。

もうひとつ、妻の亜美が(事件の真相究明にのめりこんでいく夫を)どう思っているのか? というのが気になったんです。夫の異変を感じるとっかかりとして、あのシーンでバッティングさせるといいのかなと。

映画でもドラマでも、作品の“密度”を高めるためには、ひとつのシーンにいろんな機能、意味を持たせることが大事になってくるんです。あのシーンは、阿久津の性格を表すシーンであり、俊也が阿久津を信頼するきっかけになるシーンでもあり、亜美が夫の異変に気付くシーンでもあるという、3つの意味をもたせています。


「奇をてらわない、普通の言葉こそが強い」
——この映画は、フィクションとはいえ、本当にそうだったのではないかと思わせる圧巻のリアリティでオリジナルな真相へと迫っていきます。今回、原作小説を脚本にしていく過程で最も苦労されたのはどういった部分でしょうか?

事実は事実として、映画サイズにしても矛盾なく、ストレスなく物語として見てもらいつつ、何か“見応え”を持って帰ってもらえるといいなあと。

この作品は、ヘタをすると事件をなぞるだけになってしまうんです。そうじゃなく、彼らのドラマをどれだけ伝えられるか。そこがちゃんとしていないと、映画を見たという満足感を得られないんじゃないかなと。単に事件を伝えるだけなら、NHKのドキュメンタリーだけで十分ですから。そうならないようにというのは大事にしました。


とはいえ、語るべき物語がすごく多いんですよね(苦笑)。主人公2人の話、事件に関わった子どもたちの話、第三者の回想…物語のレイヤーがものすごく多い中で、全部を合わせてひとつの物語が浮かび上がってくるようにするにはどう見せればいいのか。それを決められた尺の中でミニマムな形で描かなくてはいけないのは大変でした。

——キャスティングに関して、野木さんが参加された時点ではどの程度、決定していたのですか? それは脚本の執筆においても影響はあったのでしょうか?

最初の段階で2人(小栗さんと星野さん)は決まっていましたね。なので、原作はありますけど、そこはある種、“あて書き”のような感じでした。たとえば阿久津の設定ですが、小栗さんは東京の匂いがする人で、でも「大阪出身」という部分は崩したくないので、長く東京にいたということにしたり、星野さんのシーンに関しても、夫婦の会話など、ちょっとした遊びの部分も含めて(人物像を星野さんに)寄せていったところはありますね。


——星野さんとは「逃げ恥」や「MIU404」(TBS系)でもご一緒されていますが、脚本家から見ての俳優・星野源の魅力や個性はどういった部分でしょうか?

何気ないシーンがすごくうまいですよね。何気ないシーンが、本当に何気ないんですよ。日常がちゃんと日常に見えるんです。大袈裟なところがなくて、そういうところは本当にうまいなと思います。あとは今回、テーラーという設定が合ってましたね。職人という感じが出ていました。

——野木さんの作品を拝見すると、どの作品でも会話が比較的平坦な普遍的な言葉で紡がれています。だからなのか、特定のセリフではなく、登場人物の人間性や心情が強く心に残るような印象があります。そういう意味で、いまおっしゃられた星野さんの持つ個性は、野木さんの作品と非常にマッチしているのかもしれませんね?

それはあるかもしれませんね。私、大仰なセリフってイヤなんですよ、決めゼリフ的な。ドラマではどうしてもキーになるセリフがあった方がいい場合もあるので、必要であれば書きますが、必要以上に詩的だったり、持って回ったような言い方はかゆくなっちゃう(笑)。普段そんなこと言わないじゃないですか。私は「普通」の会話で呼び起こされる感情が一番強いと思ってます。


よく例えに出すのが北野武監督の『HANA-BI』なんですけど、それまでひと言もしゃべらなかった岸本加世子さんが、最後の最後に「ありがとう。ごめんね」って言う。あれだけで胸に迫るものがある。

「ありがとう」と「ごめんね」なんて、100万回以上聞いてる言葉だし、その言葉だけを書いても、何が泣けるかわからないだろうけど、見ればわかる。その重さ——映像作品ってそういうことだと思っていて、構成とか、そこまでの積み重ねの上にその言葉が発せられると、なんでもない言葉がすごい意味を持つんです。それが至高である気がしていて、奇をてらわない、普通の言葉こそが強いんじゃないかって思います。


“原作あり”と“オリジナル”作品の創作スタイル
——ここからさらに、野木さんの創作のスタイルについて、お聞きできればと思います。「逃げ恥」や今回の『罪の声』のような原作がある作品と、完全オリジナル脚本の作品では、執筆の過程は大きく変わってくるんでしょうか?

いえ、結局は同じなんですよね。原作があったとしても、結局は一度、解体して、プロットを作り直さないといけないんですよ、映画やドラマの“枠”にハマるように。作業としてはどちらも一からなので、作業量自体は変わらないですね。

ですが私は原作のある作品の方が疲れますね。オリジナルの方が楽です。「アンナチュラル」や「MIU404」もそうですが、オリジナルの場合、最初からドラマに合った話にすればいいだけなんですよ。もし「これ、ドラマ向きの内容じゃないよね?」となったら「じゃあ別の題材にしましょう」と方向転換してドラマ向きの作品にすればいい。


でもマンガや小説の原作がある場合、それはもともとマンガや小説向けに作られているものですから、それをドラマ向きにしないといけないわけで、そこに手間と無理が生じるわけです。この映画の原作も、何ページにもわたる語りで判明していく物語があったりするんですけど、映像作品でそのままやるわけにはいかない。小説ならいくらでもページを費やして語れるけど、映画の尺では無理だし、マンガならこの表現ができるけど、それを実写でやったら醒めるよね…という場合もある。

更に、作者の方がいらっしゃるわけですから、手をつけていい部分といけない部分もあるわけです。映像にそぐう形で作りつつ、それでも作者の意図や作品の根幹は変えちゃいけないという風に作っていくので、なかなか疲れるし、気をつかうわけです。オリジナルなら好きにすればいいので楽です。


——人気の原作の場合、「映画化決定!」の一報の瞬間から、原作ファンの厳しい批評の目にさらされます。特に、約2時間という映画の枠に収めるためのエピソードの取捨選択などは、どうやって決断されるのでしょうか?

枠に収まるように落としていかなくてはいけないので、「ここ入らないな」となったらバッサリと切っていきますね。プロデューサーや監督から「いや、それはいいんだろうか…?」みたいに言われることもあるんですけど「いいと思います」って(笑)。映画なので、映像に起こしようがないところは切るか、それに代わる表現に変えていくしかない。原作をなぞって再現することよりも、映像作品として成立するかどうかを優先する。それが脚色という仕事だと思っています。

——ただ映画を見ると、そこまで大きく「変わった」という印象はなく、きちんと小説のエッセンスをくみ取った『罪の声』だという印象でした。

何を落としても、作者の塩田先生が訴えたいことが伝わればいいのかなと。事件に巻き込まれた子どもたちの「声」の物語であったり、新聞記者の矜持という部分であったり、おそらく塩田先生はこう思っているだろうという部分を大事にして、そこに関しては落とすのではなく強化する。違いはあくまで、小説の表現方法と、映画の表現方法の違いということです。


——逆に原作のないオリジナル脚本を執筆されるときに、常にご自身の中で大切にしているテーマや根底にある共通する思いなどはあるんでしょうか?

作品によって、枠によって、その時の心持ちによってそれぞれ違いますね。ただ書いている人間は同じであり、価値観は同じなので、根底の部分は通じているとは思います。

心持ちというのがどういうことかというと、たとえば「アンナチュラル」では、いわゆる“推理モノ”でよくある、犯人が崖の上で延々と動機を語る…みたいなことはやりたくなくて。だからクライマックスの前までに謎のほとんどを解決するようにつくったし、被害者は死んでいるのに、犯人にグダグダと殺しの理由を語らせたところで「何を言ったって殺してるわけじゃん?」となるので、そこは語らせないようにしようと決めていました。

だけど「MIU404」では、逆に加害者の話を結構しているんですよ。それはなぜかというと、私の中での批評として「アンナチュラル」で切り捨てたものは、本当に切り捨ててよかったのか? という思いがあったからなんです。「アンナチュラル」の場合、主人公が法医学者なので、彼女は死者(=被害者)に寄り添うしかないし、あれはあれで正解だった。

でも「MIU404」は犯人と非常に近い位置にいる、もしかしたら最初に犯人とコンタクトをとるかもしれない機動捜査隊の人たちが主人公なので、そこで加害者の声を拾わないのは嘘だろうと。

そんな風に、毎回「私はこれなのだ!」という感じでやっているわけではなく、「アンナチュラル」があったからこそ、それに対する批評として「MIU404」があったという感じだったり、その時その時で自分が書きたいものを見出しながらやってます。


「脚本家としては新人という感覚」
——日々、脚本のアイディアのために心がけていることや取り入れているルーティンなどはありますか?

何もないですね(笑)。後生大事に温めてる企画なんて、どうせ古くなっちゃう。世の中の動きって日進月歩ですごく早いので。とはいえ、世の中の問題で3年経っても何も解決してないし変わってないってことも多いので、「古い」と切り捨てられないことも多いんですが…。

普段から、ニュースを見たり“日常”を大事にするようにはしています。常にアンテナは張ってないといけないし、業界以外の人を大事にしないとなとも思ってます。どうしてもこの業界の人って偏ってるというか、狭い世界なので、一般の友達や20代の子たちからちゃんと話を聞くようにしないといけないなと。そういうところを怠ると、気づかないうちに古くなっていっちゃうと思います。


——これまでに影響を受けた作品や脚本家の存在を教えてください。

よく聞かれるんですけど、意外とこれというのがないんですよね…(笑)。でもドラマを見るのは好きで、宮藤官九郎さんの「池袋ウエストゲートパーク」や堤幸彦さん演出の「ケイゾク」(※脚本は西荻弓絵)を見て衝撃を受けたし、君塚良一さんの作品も好きでしたね。「コーチ」みたいなオーソドックスな作品から、「ラブコンプレックス」っていう、ぶっとんだドラマもありましたけど、どっちも好きでした。そのへんの作品は、ドキュメンタリー番組を作る仕事をしていた20代のころ、純粋に日々の楽しみとして見てました。

それ以前、映画学校にいた頃は、変わったものが好きで、ピーター・グリーナウェイの映画にハマったりしてました。当時は「本数を見なきゃ」って気持ちが強かったんです。というのも、周りは映画オタクの年上の人たちばかりだったんで。当時、映画学校に入ってくる人には、一度、社会人を経験してからの人も多くて、知識量が全然違うんですよ。

そういう人たちに追いつかないと話もできないから、変わったものから名画までいろんな映画を見て、映画の日に5本ハシゴしたり、特集上映、オールナイト上映にも毎週のように行ってて、いまじゃどこにも掛からないATGとかカサヴェテスとかゴダールの特集上映とか行ってましたね。入学当初はゴダールすら知らなかったんですけど(笑)。

そんな感じで片っ端から見てたので、バイト代は全部映画に消えていくし、いかに多く見られるかってスケジュールを組んでたので、普段は同じ映画を何度も見るようなことはなかったんですけど、橋口亮輔さんの『渚のシンドバッド』にハマって3回見に行きました。ほかにはウォン・カーウァイの『天使の涙』、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』も3回見に行ったのを覚えてます。


——フジテレビのヤングシナリオ大賞を受賞され、デビューしたのが2010年。それから10年で、傍から見れば押しも押されもせぬ人気脚本家になられたように見えますが、ご本人はいま置かれている状況をどのように捉えていらっしゃいますか?

いや、私はいまだに自分なんてぺーぺーだと思ってるんで(笑)。だって大先輩方がまだまだ最前線でお仕事されていますからね。そうしたすごいみなさんと比べたら、私なんてたかだか10年ですよ? 周りを見渡せば20年、30年と続けてらっしゃる方たちばかりですから。

宮藤さんだって20年以上やってるし、岡田恵和さんももっとですよね? 森下佳子さんは年齢は私と3歳くらいしか違わないけど、キャリアは私なんかより全然長いし。私はデビューが35歳と遅かったので、本当にたかだかですよ、10年なんて。まだまだ脚本家としては新人という感覚ですね。

【プロフィール】
野木亜紀子(のぎ あきこ)1974年生まれ。日本映画学校卒業。ドキュメンタリー番組の制作会社勤務を経て、『さよならロビンソンクルーソー』で2010年の第22回フジテレビヤングシナリオ大賞を受賞し同作で脚本家デビュー。2016年に「重版出来!」(TBS系)で高い評価を得て、「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS系)が大ヒット。「アンナチュラル」、「MIU404」(ともにTBS系)などオリジナル脚本作品でも高い評価を得ている。2021年には初めてアニメーション映画の脚本に挑戦した『犬王』(湯浅政明監督)の公開が控える。

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