田尾5敬遠で首位打者獲得の舞台裏——「大洋ホエールズOB」としての長崎慶一さんに会いに行く(後編)

11月10日(日)11時0分 文春オンライン

 1972年にドラフト1位で入団し、やがて大洋ホエールズを代表するプレーヤーとなった長崎慶一さん。しかし30代となり、最も脂がのってくるはずの時期は人知れず悩みを抱えていた。( 前編 から続く)



1972年にドラフト1位で入団し、大洋ホエールズを代表するプレーヤーとなった長崎さん ©鈴木七絵/文藝春秋


「関根監督の在任中は大洋に残る」


「実は81年のシーズンが終わった時点で、球団にトレードを志願しているんです。詳しい内容は言えませんが、人間関係でどうにも我慢ならないことがあって、82年から新しく監督になった法政大学の大先輩である関根潤三さんにもその旨を伝えました。すると関根さんは“俺がいる3年間だけは我慢しろ”って。そのひと言で残ることにしたんです」


 時系列は前後するが、84年末に長崎さんは阪神・池内豊投手との交換トレードで阪神に移籍している。84年はケガと不振に苦しんだものの、82年に首位打者、翌83年もセの打撃10傑に入る.305をマークした長崎さんのトレードは、ホエールズ〜ベイスターズの球団史における数々の不可解な放出劇の筆頭に挙げられる一件である。しかしそれは「関根監督の在任中は大洋に残る」という約束ありきのことだったのだ。


 そしてそのトレード発表前、84年秋に出た『ファンマガジン横浜大洋』の選手からのメッセージ欄には長崎さんのこんな意味深発言が掲載されるのである。


“今年のオフは忙しくなるんじゃないですかね。(トレードのうわさで)新聞に僕の名前ばっか載って(笑)”


 裏事情を知る由もない当時小学4年生の筆者の頭の中は「なんで少し前に首位打者になった長崎がトレードなの?」と疑問符だらけになった。その後、あっけなくトレード決定の報道。呆然としたのをよく覚えている。



 ともあれ、関根新監督に説得されて82年もチームに残った長崎さんは、再起を図るべく奮闘する。


「関根さんは温厚に見えて厳しい方です。少し休めば長引かない程度のケガをしていて、今後のために1試合休ませてほしいと頼んだら、“休んでもいいけど帰ってくる所はないぞ”と突き放す。続けて“いまお前がスタメンから抜けるとチームバランスが変わってくるだろ?”とも。これには身が引き締まる思いでした。関根さんの就任はいずれ長嶋茂雄さんを監督に招聘するための布石と言われたし、尊敬する長嶋さんが本当に大洋に来ていたらそのまま残っていたかもしれないけど(笑)、関根さんがチームに与えた影響は大きかった。僕ももう一度やる気になって、高木豊ら若手も育ちましたから。今思うとユタカは誰にでも話を聞きに行く柔軟性がありましたけど、屋鋪要は完全にわが道を行っていました。あれだけずば抜けた運動神経があるんだから、もう少しこうすれば……と言っても“僕は強く振ってホームランを打ちたいんです”の一点張り。そういう意味で2人は両極端でしたね」



 82年の長崎さんは5月23日中日戦でお釣りなしの逆転満塁サヨナラホームランを放つなど打ちまくり、打率.351のハイアベレージで首位打者に輝いた。79年のF・ミヤーンに続く球団2人目の栄冠である。しかしこれには、シーズン最終戦となった大洋−中日戦を長崎さんが欠場し、打率1厘差に迫る中日の田尾安志を5連続敬遠したという側面がある。しかもこの試合、中日が勝つか引き分けで中日優勝、負ければ巨人優勝となる大一番だったことで、大洋が勝ちよりも長崎さんのタイトルを優先し、相手の一番打者を全打席出塁させたことに批判の声が多く挙がったのだ。


「あの件では嫌な思いもしたけど、オフの表彰式で王貞治さんに田尾君と2人で呼ばれてこう言われたんです。“田尾君が長崎君に勝つには、最後の大洋戦の前に抜かないといけなかった。だから長崎君はタイトルを誇っていいんだ”って。これですっきりしましたね。田尾君も納得していたし、その後阪神で同僚になる訳ですが、わだかまりもなく普通に麻雀していましたから(笑)。あと、あの試合前に中日の黒江透修コーチに呼ばれて冗談交じりに“首位打者はお前にやるから田尾を歩かせてくれよ”と耳打ちされた。その時は自軍の選手がタイトルを獲れるかどうかの瀬戸際に何を言うのかと不思議だったけど、後に阪神で優勝を経験して黒江さんの真意がようやく分かったんです。個人記録は二の次で、あくまで優勝するのが一番なんだと。当時の僕にはその価値が理解できなかった」


 すでに5位が決定している状況からすれば、せめて個人タイトルだけでも、と手が届きかけている選手をアシストするのは自然な流れである。そして、当時の大洋は毎年Bクラスが定位置だった。そういうことなのだ。



「僕はチームが勝つ楽しさを13年目にしてようやく知ったんです」


 長崎さんは約束通り、関根監督退陣を機にホエールズを離れ、阪神でいきなりリーグ優勝と日本一を経験することとなる。


「首位を争うチームにいると試合に出なくても毎日充実感がある。僕はチームが勝つ楽しさを13年目にしてようやく知ったんです。85年の阪神はチーム全員が勝つためにどうするかを考えていて、試合中も川藤幸三さんを中心に代打陣が集まって展開を予想しながら準備するし、R・バースも僕の配球ノートを見せてくれとしょっちゅう頼みに来る。普段長いバットを使うバースは、球の速い投手との対戦では僕の短めのバットを借りて、コンパクトに振ってヒットを打っていましたね。元々阪神の野球も大雑把だったけど、ロッテから来た弘田澄男さんや僕が配球ノートを付けていたことでみんなの意識が変わり始めたんです。僕も前年までチェックしていた阪神投手陣のクセと、大洋の選手のクセはみんなに伝えました。この年新人で入った和田豊もノートの付け方を教わりに来ましたよ」


 一方、85年の大洋は阪神に6勝17敗3分けを喫し、優勝の引き立て役となってしまう。長崎さんは代打、時にはスタメンで出場し、斎藤明夫からサヨナラ弾を放つなど大洋戦で打ちまくった。長崎さんの存在なしに85年の阪神フィーバー、そしてバースの三冠王は成しえなかったのだ。逆に大洋からすると「長崎トレード」が大きなダメージになったことは間違いない。


 1985年11月2日、阪神の3勝2敗で迎えた西武−阪神の日本シリーズ第6戦(西武球場)で先発出場した長崎さんは、第5戦の2ランに続いて初回に高橋直樹から満塁ホームランを放ち、一気に日本一を手繰り寄せる。その瞬間、ラジカセでラジオ中継を流しながら公園でゴムボール野球をしていた僕ら大洋ファンたちの動きはピタリと止まった。その日は土曜日で学校は昼まで。当時の日本シリーズは全試合デーゲームだった。


「長崎やったよ!」


「長崎が満塁ホームランだって!」


 まだ見慣れない縦縞のユニフォームに背番号3を背負い、大洋時代には見たことのない派手なガッツポーズ。たった1年ですっかり阪神の人になった長崎さんの姿には何とも言えない思いがあったけど、「僕らの頼りになる長崎」がこうして日本中から注目を浴び、躍動しているのは心の底から嬉しく、誇らしい事だった。大洋からは出ていく形になったけど、長崎さんの頑張りはここで実を結んだのだから。



長崎さんとホエールズとの縁はつながっていた


 その後の長崎さんの歩みには大洋での人との出会いが大きく関係している。


「87年末に阪神から戦力外通告を受けたのですが、まだやれると思い関根さんに相談に行ったんです。そうしたら“優勝も経験できたし、もういいだろ?”って。そこで素直に引退を決めました。その後熊谷組や東芝府中など社会人チームのコーチもたくさんやりましたが、それは大洋の若手時代に飲みに連れて行ってくれた投手コーチの鈴木隆さんや、キャッチャーの伊藤勲さんの紹介によるものなんです。僕はほとんどお酒を飲まないので、遊びに行くにしてももっぱら2人の運転手役でした。でもそんな中で普段は縁のない業界の人たちに逢えたり、そうやって引退後も声をかけてもらえる。熊谷組で指導した中には波留敏夫がいますよ」


 チームを離れても、長崎さんとホエールズ、そしてベイスターズとの縁は間接的に繋がっていたのだ。


「改めて振り返ると、大洋は本当にいいチームだったと思います。勝てなかったけど練習は厳しかったし、何より自分のプロとしての基礎の部分を作ってくれましたから……。入団時のオーナーの中部謙吉さんにも可愛がっていただいて、よく鯨の肉を差し入れしていただいた思い出があります。家族的なチームでした」



(黒田 創)

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