五木寛之「直木賞を受けるか、ひっそりと金沢で生きるか。迷っていた時、浅川マキは西瓜をさげて縁側に現れた」

11月17日(水)13時30分 婦人公論.jp


浅川マキ(あさかわ・まき)さん(写真提供:毎日新聞社)

作家でありながら「対談の名手」とも言われる五木寛之さんは、数十年の間に才能豊かな女性たちに巡り合ってきました。その一期一会の中から、彼女たちの仕事や業績ではない、語られなかった一面を綴ります。第4回は「夜が明けたら/かもめ」で大ヒットした歌手・浅川マキさんです。(写真提供:毎日新聞社)

* * * * * * *

渡った人は帰らない


夢の中にいつも出てくる歌がある。

「赤い橋」という、童謡のような、和讃のような奇妙な歌である。

この歌の詞を書いたのが北山修さんであることは後で知った。

けだるい歌声である。聴いているうちに、どんどん、どんどん地の底に引きこまれていくような気分になってくる。橋のたもとに咲く赤い花は曼殊沙華だろう。古くから彼岸花と呼ばれてきた真赤な花だ。


川のほとりに咲く彼岸花(写真提供◎AC)

彼岸とは、あの世のことである。
この世は此岸(しがん)という。

親鸞は、あの世で成仏した人は、ふたたびこの世に還ってくると説いた。有名な「往相還相(おうそうげんそう)」の思想である。しかし、この歌はきっぱりと「渡った人は帰らない」とうたう。

私はひそかに、歌は歌い手のものだと思っている。どんな名曲でも、うたわれない歌は死んだ鳥だ。その鳥が羽ばたき、空を翔ぶのは、歌い手の存在感によってである。

この「赤い橋」の歌に生命をあたえているのは、歌い手の声であり、実在性であり、他人には想像するしかない一人の人間の投影である。

この歌を御詠歌のように口ずさみながら、ゆっくりと赤い橋を渡っていく女性の姿が見える。その歌い手の名前は、浅川マキ。私は彼女が無名のころ、一瞬だけ彼女と言葉をかわしたことがあった。

マスコミ生活にうんざりして金沢へ


あれはいつ頃のことだろうか。私の曖昧な記憶では、たぶん1960年代の後半にさしかかった時期のような気がする。

当時、私は北陸の金沢市に住んでいた。市内のちょっと外れの小立野という台地の一角である。

私が東京での仕事を整理して金沢に移住したのは1965年のことだった。それまでの東京での、いわゆるマスコミ生活にうんざりして、後半生を地方都市で隠れて暮そうという心積りだったのだ。配偶者の郷里でもある金沢は、当時はまだひっそりと眠ったようなおだやかな街だった。

その街で、当時はやっていた貸本屋か、古書店、もしくは店主一人の小さなカウンターのカフェでもやって暮せないか、というのが私の身勝手な夢だったのだ。

当時、繁華街である香林坊と旧制四高の赤煉瓦の建物とにはさまれたあたりに、一軒の小さなカフェがあった。「蜂の巣」というその店は、昼も夜もあまり客の姿はなく、眠ったような街にぴったりの感じの店だった。ジョーン・バエズとかボブ・ディランのレコードなどがかかっていて、文庫本を読みながらコーヒー1杯で何時間ねばっても放っておいてくれるところがとてもよかった。

午後、小立野のアパートを出て、下駄ばきで兼六園を抜け、香林坊まで歩く。福音館書店、北斗書房、北国書林、宇都宮書店と、本屋の梯子をして「蜂の巣」へ寄る。夕方まで本を読み、帰りにバッティングセンターで1時間ほどすごし、最後に近江町市場で魚とか野菜を買って部屋にもどるのだ。夜は発表する当てのない小説を書きはじめていた。

そんなふうにして1965年が過ぎ、金沢は雪になった。


写真提供◎AC

応募した小説が新人賞に、仕事を再開


明けて1966年、はじめて応募した小説が新人賞になり、再びジャーナリズムで仕事を再開することになった。

翌年、直木賞をもらって、部屋を引っ越しした。金沢刑務所のすぐ裏のアパートから、こんどは精神科の病院の構内にある一軒家に移った。配偶者がその病院に勤務することになったのだ。天気のいい午後など、ふらりと患者さんが遊びにきたりする。詩を書く少年がいて、噛み合わない話などをして帰ることもあった。当時の生活については、「小立野刑務所裏」という私小説ふうの短篇に書いたことがある。

鬱屈した気分で地方都市へ住んで、半年もたたないうちに、再びマスコミの渦の中に放りこまれたわけだから、私もすこぶる混乱していた。新人賞をもらっただけで十分、という気持ちもあった。直木賞というのは、職業作家の証明書のようなものだ。受けた以上は、ジャーナリズムの要請に必死で対応しなければならない義務がある。

一作の新人賞で自足し、できるだけひっそりと北陸で暮らしていくか。それとも、意を決してメディアの渦の中に身を投じて生きるか。そのとき直木賞の候補になることを受けるか受けないかで迷った、などと言えば、だれも信じないだろう。偉そうなことを、と笑われるのがオチである。

しかし商業ジャーナリズムの苛烈な一端をかいま見て、そこから逃亡した私としては、正直、迷うところがあったのだ。

迷った末に私は覚悟を決めた


食べていくだけのことなら、私には自信があった。敗戦後の外地で弟と妹を抱えて生きてきたことを考えると、どんな事でもやれるだろう。

しかし、迷った末に私は覚悟を決めた。

〈九州筑後の山家の猿が 花のお江戸でひと踊り〉

というのが、当時の私の心境だったのだ。

1966年、そして67年と狂ったような日々が続いた。原稿は空のタクシーに頼んで小松空港まで運んでもらう。全日空の航空便で羽田へ届けた原稿を、編集者が待ち構えて受け取る──。当時はFAXさえなかったのだ。タイトルだけを後から電話で送ったので、思いがけない失敗もあった。『詩的な脅迫者の肖像』と伝えたのに、雑誌では『素敵な脅迫者の肖像』となっていたこともある。

そんな狂乱の日々のあいだに、一人の不思議な女性が私を訪ねてきたのは、たぶん夏の終り頃のことではないだろうか。

その日、座敷でうたた寝をしているところに、

「五木さん」

と、声をかけてくる人がいた。庭に面した縁側に、いつのまにやらはいり込んできたらしい。黒い服を着た若い女性だった。少女というには存在感がありすぎ、娘さんというにはドスのきいた声である。黒い髪を眉のあたりで切り揃え、初対面の私に笑顔ではなく、不機嫌そうな視線を向けている。

彼女は大きな丸い西瓜を私にさしだした


病院の患者さんかな、と一瞬、思った。時どきふらりとやってくる人たちがいたのだ。しかし、彼女はそんな感じではなかった。探るような、たしかめるような、強い視線で私をみつめている。その目の中にはどこか追いつめられた動物のような、不安な光が宿って、とても緊張しているような雰囲気だった。

「これ」

と、言って彼女は手にさげた大きな丸い西瓜を私の前にさしだした。それがあまりにも重そうな西瓜だったので私はびっくりした。この西瓜を手にさげて、日盛りの中を歩いてきたのだろうか。それにしては汗ひとつかいていない感じが異様だった。

「どこからきたの?」

と、私がたずねると、「美川町から」とぽつんと言う。美川町は、金沢近郊の町である。今は白山市だ。

「五木さんと話がしたくて」

と、彼女は言った。

私たちは縁側に腰かけて、言葉ずくなに会話をした。

「あなた、なにをやってる人?」

名前を名のらない彼女に、私はたずねた。

「歌手です」
「歌手——」
「東京で。一応、レコードも出したんですが」
「どういう曲?」
「どうでもいいじゃないですか」

と、彼女は顔をそむけて言った。

「仕事がうまくいかないんです。うまくいかないっていうか、わたしの考えてる音楽と方向性がちがって──」

それで東京から引揚げてきたのだ、と彼女は言った。


写真提供◎AC

「話をきいてくれて、ありがとう」


「ふーん。今後、どうするの?」
「それをききたくて来たんじゃないですか。このまま地元で好きな歌をうたって過ごすか、それとも、もう一度、東京へもどるか」
「なるほど」
「どう思います?」
「ぼくは、マスコミの世界にもどった」
「後悔してます?」
「してない。決めたことだから」
「そうか」

と、彼女は言った。

「人、それぞれ、だしね」

彼女の口調には、かすかに加賀地方のニュアンスがあった。

「きみみたいな人は、とてもこの土地ではやっていけないんじゃないのかな」

わたしは普通だと思ってるけど、と彼女は言った。

「五木さんは、前にレコード会社にいたんでしょ」
「いや、専属のアーチストだった」

彼女はしばらく黙っていた。その後、ぽつんと自分に言いきかせるようにつぶやいた。

「もう一度、いってみるかな、東京へ」

それから軽く頭をさげると、

「話をきいてくれて、ありがとう」
「西瓜、ありがとう」
「正直、重かった」

黒いうしろ姿が庭先から消えた。

時代のほうが浅川マキにすり寄った


その日から五十年以上たつ。再度、東京へもどった彼女は、やがて寺山修司や寺本幸司らのバックアップで「夜が明けたら」「かもめ」などの歌で、一躍、時代の熱い視線を集めることになる。そういう時代だった。夜の街には熱い血が騒いでいた。

〈夜が明けたら一番早い汽車に乗るから〉

と、小学生までがうたっていた。浅川マキが時代に呼びかけたのではない。時代のほうが浅川マキにすり寄ったのである。

私は当時テレビマンユニオンが制作していた『遠くへ行きたい』の番組に出演するたびに彼女の歌を使わせてもらった。「赤い橋」も、「夜が明けたら」も、映像よりはるかに大きなインパクトがあった。

ときおり金沢で、彼女の出演プログラムを目にすることがあった。ユニークなライブハウスの「もっきりや」が、彼女のベースキャンプのような感じだった。私は新宿の「PIT INN」にも、「もっきりや」にも行かなかった。あの日の午後、西瓜ひとつをさげて訪ねてきた娘のイメージを失くしたくなかったからである。そのかわり、独りのときにはいつも「赤い橋」を口ずさんでいた。

〈渡った人は 帰らない〉

そうだ。人は一生のうちに赤い橋の手前で迷うことがある。その橋を渡ってしまえば、二度と後もどりはできない。


(写真提供◎AC)

浅川マキの訃報を聞いたとき、そうだろうな、と思った。彼女は「赤い橋」を渡ったのだ。五十数年前のあの頃に。時代が橋を渡れと彼女に呼びかけたのである。

橋を渡らずに一生を終える歌い手もいる。しかし、時代に招かれる表現者は、いつかはその橋を渡る。浅川マキは希有のシンガーだった。私はあの日、大きな西瓜をさげてやってきた彼女と、別れの挨拶をかわしたような気がしている。一期一会の挨拶を。

浅川マキ​(あさかわ・まき) 1942年石川県生まれ。キャバレーや米軍キャンプでの歌手活動を経て、67年にシングル「東京挽歌/アーメン・ジロー」を発表。68年、寺山修司演出の舞台に出演し注目を浴びる。69年にシングル「夜が明けたら/かもめ」が大ヒット。2010年、急性心不全により、公演先の名古屋で死去

【「赤い橋」を歌うコーラス・グループ ベイビーブーさんの動画】

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